陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

260.山口多聞海軍中将(20)一艦、一戦隊の沈没や敗辱の責は、一将にとって死に勝るものである

2011年03月18日 | 山口多聞海軍中将
 山口少将の持論は他を制する卓見だった。これはすぐにも実現できる構想だった。「なるほど」、山本大将がうなずいた。宇垣参謀長の当日の日記には「なかなか活気も出て、収穫も多し」とある。

 だが、山口少将のような抜本的改革案は他にはなく、連合艦隊参謀の三和義勇中佐(海兵四八・海大三一次席)は「皆勇者で、智者のようなことを言っているが、失敗も相当、多いであろうに」と不安を覚え、日記に記している。

 そして、山口少将の提案はいつも間にか、うやむやになってしまった。飛行隊総指揮官の淵田美津雄中佐は、「保守はいつの世にもスローモーションである。こんどのミッドウェー作戦に、山口少将案は採用されるに至らなかった」と無念の思いを述べている。

 山口少将は不本意であった。山本長官が、なぜもっと強く押してくれないのか。疑問が残った。山本長官は真珠湾攻撃の成功で、いまや神格化されており、山本長官自身、心の中に隙があったとも言われている。

 山口少将の案でいけばミッドウェー作戦は勝利していたかもしれないのだが、あるいは、この当たりが山本五十六の限界であったかもしれない。だが、当時、日本海軍を引っ張るのは山本五十六大将以外にはいるはずもなかった。

 このような状況で、昭和十七年六月五日から七日にかけて、ミッドウェー海戦は行われた。日本海軍は大敗した。精鋭空母四隻と多数の飛行機と搭乗員を失った。空母「加賀」「蒼龍」は撃沈され、「赤城」と山口少将の座上する「飛龍」は大破し自沈した。

 最初の敵の攻撃で、ただ一隻「飛龍」のみが被害を免れた。山口少将は、すかさず、「我れ、今より航空戦の指揮をとる」と、攻撃機を発進させた。

 「飛龍」の攻撃隊は敵空母「ヨークタウン」を爆撃、大破させ仇を討った。だが、その後敵の二隻の空母「エンタープライズ」「ホーネット」から飛び立った攻撃機により「飛龍」も攻撃を受け、大破、自沈した。

 「父・山口多聞」(山口宗敏・光人社)によると、昭和十七年初夏の頃、牛込北町の山口の家に、電気冷蔵庫の修理に来ていた近所の電気屋が、妻の孝子に「奥さん、ご主人は大丈夫ですか?」と、執拗に尋ねていたという。

 孝子はそんなことは取り合わなかった。孝子にはその時点でまだ何も知らされていなかった。だが、この電気屋は、当時、絶対に禁止されていたアメリカの短波放送をこっそりと聞いていたのだろう。

 孝子が心配になって海軍省に問い合わせたところ、「閣下は、出撃方面が違いますから、どうぞご安心ください。お元気ですからご心配はいりません」というばかりで、始終その態度は変わらなかったという。

 だが、その年の秋ころになると、ミッドウェー海戦は、どうも日本側の大敗だったらしいという噂が巷に流れ始めた。

 昭和十七年六月六日午前六時六分、空母「飛龍」は自沈したが、山口多聞司令官と加来止男艦長は退艦せずに「飛龍」と運命を共にして戦死していた。

 「炎の提督・山口多聞」(岡本好古・徳間書店)によると、自沈の前に、第十駆逐隊司令の阿部俊雄大佐(海兵四六)が、空母「飛龍」に乗り込んできた。阿部大佐は阿部弘毅海軍中将(海兵三九・海大二三)の弟だった。

 阿部大佐は、艦と共に沈もうとする山口少将に、直立不動の姿勢で、「海軍と我々には、司令官、あなたこそかけがえのない先輩です」と言い、と血を吐くような気迫で、次の様に言って翻意をうながした。

 「二艦喪う責任の重みも、一将喪う嘆きにはとうてい叶いません。七生報国とは、七度死しても七度生まれ変わるのではなく、七度の死線を克服して、生きのびることではありませんか」。

 これに対して、山口少将は、昂ぶる青年を鎮静させる翁のような微笑で「私は責任を完うする。これは私が満足し、最善と思う方法をとるだけだ」と答えた。そして次の様に言った。

 「阿部大佐、この戦争は、あと二、三年は非常な激戦の形で続くと私は思う。その間、君も私やこの加来艦長と同じ立場になるかもしれない。その時、一艦、一戦隊の沈没や敗辱の責は、一将にとって死に勝るものであることが分かるだろう。敗勢が己の不徳によることなく、たとえ渾身の善戦をなして悔いることなくてもだ。古来、海将にとって艦とはそのようなものではないか」。

 その阿部大佐は、後に巨大空母「信濃」の艦長に任命されたが、昭和十九年十一月二十九日、アメリカ潜水艦の雷撃で「信濃」は沈没した。阿部大佐は、乗組員を救助することに全力を尽くした後、艦と運命を共にした。戦死後海軍少将に特進した。享年四十九歳だった。

 「戦藻録」の六月六日の日記に、連合艦隊参謀長・宇垣纏少将は次の様に書き残している。

 「級友山口多聞少将と航空の権威たる加来止男大佐を失ふ。痛恨限り無し。山口少将は剛毅果断にして見識高く(中略)余の級中最も優秀の人傑を失ふものなり。(中略)司令官の責任を重んじ、茲に従容として運命を共にす。其の職責に殉ずる崇高の精神正に至高にして喩ゆるに物なし(攻略)」。

 山口多聞少将は、四十九歳十ヶ月の生涯を終え、六月五日付で中将に進級した。また昭和十八年四月二十二日には武功抜群により功一級金鵄勲章が授与された。少将で功一級を授けられた前例はなかった。

(「山口多聞海軍中将」は今回で終わりです。次回からは「今村均陸軍大将」が始まります)

259.山口多聞海軍中将(19)「山口君、日本人は外交が下手だねえ」と山本大将はビールを飲み干した

2011年03月11日 | 山口多聞海軍中将
 山口少将は、山本五十六大将がいつもと違って、どこか焦っているような印象を受けた。気を利かせて首席参謀の黒島亀人大佐(海兵四四・海大二六)が席を立つと、山本大将はソファに身を沈めて次の様に言った。

 「山口君、いまが休戦の潮時だけどねえ」

 山本大将は近衛前総理に「一年か一年半は暴れてみせます」と言ったが、まだ半年である。山口少将は山本大将がいささか弱気なので驚いた。

 続けて山本大将は「しかし、その機運はないな。君は南方作戦に疑義ありと言っていたそうだな。真にその通りだが、私の意見が通らず、君らを南方に出す羽目になった」と苦しい胸のうちを語った。

 そして「そこでミッドウェーで勝負を賭ける。六月には出撃したいが、どうだね」と言った。

 山口少将は「それは、どうでしょうか。率直に申し上げれば、時間がたりません」とはっきり答えた。

 真珠湾攻撃が成功したのは、何年にも及ぶ緻密な戦略ともう訓練の結果だが、勝敗の決め手は奇襲だった。今は、全く事情が違う。

 米国太平洋艦隊は、キンメル提督を首にして、国の威信をかけて巻き返しに出ようとしているはずだ。真珠湾の場合は、そこに停泊する艦艇の名前まで知っていた。

 だが、今は米国に日本の諜報機関は存在せず、情報は途絶えている。米軍の暗号解読も進んでいない。しかも敵の提督、ミニッツは、なかなかの男と聞いていた。

 実戦を指揮するハルゼーは、自ら操縦桿を握るパイロット出身だ。山口少将は、いまは米国に対して、侮れぬものを感じていた。
 
 連合艦隊と言っても、空母を中心とする機動部隊は、第一航空艦隊しかない。その司令塔である南雲長官は、肝心なときに黙ってしまい、航空のことは源田参謀に任せてしまう。

 山口少将は非常な危機感を抱いた。だが山本大将は「山口君、実は決まっているのだ」と言った。その時、ノックをして黒島首席参謀が入ってきた。昼食の時間だった。

 参謀たちも入ってきて、昼食になった。「山口君、日本人は外交が下手だねえ」と山本大将はビールを飲み干した。そして次の様に言った。

 「いいか、米英の連中がやったことを日本人はやってきただけだよ。日本人を野蛮人と言って非難しているが、自分たちはどうだというんだ。軍隊と大砲でシナに攻め入り、フィリピンを奪い取ったではないか。満州は君、国際法にのっとって建設した国だよ」

 「その根底には、白人は黄色人種より上だという思い上がりがある。それをこらしめてやったのが、どうも評判が悪い。付き合い方が下手なんだ」

 これには山口少将も同感であった。同じことをしていて、何故日本だけが、という思いは山口少将にもあった。いうなれば「ジャパン・バッシング」(日本叩き)だった。

 だが、米国は強大な資源国家だ。その中枢となる太平洋艦隊を破るには、少なくとも半年の準備がいると思った。最低でも三ヶ月はほしい。

 ミッドウェー出撃が決まった以上、山口少将は、今度は生きて帰れぬと直感した。山口少将は、今回は、旗艦を空母「蒼龍」から「飛龍」にした。とくに意味はなかったが、そうした。

 山口少将は「飛龍」の母港、佐世保に行った。会うなり「飛龍」の加来艦長は「司令官、どうも困ったもんです」と眉をひそめて山口少将に言った。

 山口少将が「何かね」と言うと、加来艦長は「実は次はMだそうですねと、水兵まで言っておる。これでは敵に筒抜けですな」。

 「何だって」。これでは山口少将も駄目だと思った。たかだか真珠湾で勝っただけで、上から下まで慢心している。由々しき事態だと山口少将は思った。

 だがミッドウェーはもう決定している。山口少将は考えた。ミッドウェー海戦で、米国太平洋艦隊を海の藻屑にしてしまえば、アメリカも割に合わない戦争に疑問を感じよう。

 日本の政治家も馬鹿ばかりではあるまい。休戦交渉が可能になろう。「そんな気の利いた政治家は、もはやいないよ」と山本大将は悲観的なことも言っていたが、ミッドウェーで勝てば、山本大将の発言力も強くなる。そこに期待することも可能だ。だからいかにして勝つか、山口少将も必死だった。

 四月二十八日から二日間にわたって「大和」で、第一回のミッドウェー作戦の研究会が行われた。攻略期日も六月七日と決まった。

 活発な議論があり、山口少将も立ち上がって、考え抜いた持論を述べた。それは次の様な論旨だった。

 「ここは日米両国の決戦と見なければならない。従来の艦隊編成を抜本的に改め、空母を中心とする機動部隊を編成し、空母の周辺には戦艦、巡洋艦、駆逐艦を輪形に配置し、敵機の襲来に備え、少なくとも三機動部隊を出撃させるべきである」

258.山口多聞海軍中将(18)僕は山本さんを信じておったが、こんなことをやっていたのでは勝てぬぞ

2011年03月04日 | 山口多聞海軍中将
 のどかな南海の島で、安閑と時を過ごし、さほど海軍力のないオーストラリアを相手に戦争をするのは、どうやら間違いだったようだ。山口少将もそう思った。

 そのうちに、空母「翔鶴」と「瑞鶴」が戦列に復帰した。南雲機動部隊は、インド洋に入り、セイロン島のコロンボ港の攻撃に移ることになった。

 「敵巡洋艦二隻見ゆ」。索敵中の偵察機から電文が入った。「蒼龍」飛行隊長・江草隆繁少佐は、「司令官、やっと獲物にありつけましたよ」と山口少将に言って、艦爆隊を率いて「蒼龍」から飛び上がっていった。

 発艦後一時間で、英国東洋艦隊の巡洋艦「コンウオール」と「ドーセットシャー」を発見、攻撃に移った。

 江草少佐が真っ先に急降下して、一番艦の後部に直撃弾を命中させた。江草少佐は「飛龍は二番艦をやれ」、「赤城は一番艦をやれ」と指示を出した。その十数分後に英国東洋艦隊の二隻の巡洋艦は撃沈された。

 四月九日には英国の空母「ハーミス」を撃沈した。だが「蒼龍」の艦爆も四機やられた。「蒼龍」飛行隊長・江草少佐にとって、英国の古い空母など本当はどうでもよかった。

 「あいつらは犬死ではないか。我々は米空母を攻撃するために苦しい訓練に堪え、ここまで来たのだ。インド洋くんだりで命を落とすとは」と江草少佐は思った。

 司令官・山口少将は、一人ぽつんと飛行甲板にたたずむ江草少佐をいち早く見つけ、司令官室に呼んだ。

 「つらいな。貴様の気持ちはよく分かる。一杯やらんか」と山口少将はウイスキーを勧めた。「みんないい奴らだった。なんで、こんなところで」と江草少佐は泣いた。そして吼えるように、次の様に言った。

 「司令官、我々はいつ米国機動部隊に攻撃をかけるのですか。我々の敵は米国です。英国や豪州と小競り合いをやったところで、何になるんですか。大局を見誤っているのではないですか」。

 ここ何年も、搭乗員たちと暮らしてきた山口少将は、一人一人の顔が走馬灯のように、浮かんでは消えた。山口少将は、パイロットではないが、パイロットの心理を最もよく理解していた司令官だった。

 いつも出撃のとき、「死んでこい」とハッパをかけたが、ひるむと逆にやられるケースが多いためだった。だから、心を鬼にして「死んでこい」と言い続けた。

 この日の午後、敵の双発爆撃機九機が飛来し、空母「赤城」の右後方に爆弾を投下した。投下されるまで誰も気づかなかったのである。すんでのところで「赤城」は被弾するところだった。

 油断であった。上空の零戦がすぐ追いかけ、六機を撃墜した。だが、「飛龍」分隊長・熊野澄夫大尉が戻らなかった。

 真珠湾では第二次攻撃隊の分隊長として「カネオヘ」飛行場を銃撃し、米軍機を炎上させた責任感の旺盛な青年士官だった。

 若く前途有望な青年が、戦争とはいえ、瞬時に命を失っていくのは慙愧の至りだった。この頃から淵田中佐の顔色が、さえなくなった。

 淵田中佐が、暗い顔で次のように言っているのを、何人かが聞いていた。

 「僕は山本さんを信じておったが、こんなことをやっていたのでは、勝てぬぞ。早くここを引き揚げて、米国機動部隊との決戦に備えねば、間に合わぬぞ。馬鹿な参謀どもが取り巻いているからだ。山口さんに頼むしかない」。

 昭和十七年四月二十二日、第二航空戦隊は五ヶ月ぶりに母港の呉と佐世保にもどってきた。「蒼龍」は呉、「飛龍」は佐世保が母港である。

 山口少将は戦闘日誌等の処理が終わると、岩国の柱島に停泊中の戦艦「大和」に向かった。連合艦隊の旗艦は昭和十七年二月十二日から「長門」から「大和」に代わっていた。

 連合艦隊司令長官・山本五十六大将は、すこぶる元気だった。そして山口少将に次のように言った。

 「大変、ご苦労をかけた。少しゆっくりしてもらいたいところだが、東京が空襲されたとあっては、太平洋艦隊を引きずり出して決戦を挑むしかあるまい」。

 山本大将の言った「東京空襲」は、四月十八日に、空母「ホーネット」を発艦した、ジミー・ドリットル中佐率いるB-25爆撃機十六機が、初めて日本を爆撃したことだ。東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸を空襲した。

257.山口多聞海軍中将(17)「南雲長官では駄目だ」と山口少将と宇垣少将の意見は一致した

2011年02月25日 | 山口多聞海軍中将
 山口少将は「宇垣、お前は一体どうなんだ」と聞きたかったが、抑えた。人の噂では、連合艦隊司令部では参謀たちが山本長官と直結していて、宇垣参謀長は浮き上がっているということを言う者もいたからだ。宇垣の話し方も明らかに参謀たちに対して不満気であった。

 この日、宇垣少将は日記「戦藻録」に「十二月三十一日、水曜日、曇り。十一時半頃、山口第二航空戦隊司令官打ち合わせのため来艦、大いに元気なる顔を見る。誠に嬉し」と記している。さらに後日次の様に書いている。

 「山口第二航空艦隊司令官は常に機動部隊として活躍したが、第一航空艦隊の思想に飽き足らず、作戦実施中もしばしば意見具申をした事実がある」

 「計画以外に妙機をとらえて戦果の拡大を図り、変化に即応することが皆無だと余らに三回、語った。彼の言うことは、おおむね至当で余と考えを一にしており、今後も大いに意見を具申すべきだと告げた」

 「艦隊司令部は誰が握っているのだと聞くと、『長官は一言も言わぬ。参謀長、先任参謀、どちらは、どちらか知らぬが、億劫者ぞろいだ』と答えた。今後、千変万化の海洋作戦で、はたしてその任に堪えられるや否やと、余らは深く心憂した」

 「南雲長官では駄目だ」と山口少将と宇垣少将の意見は一致した。だが、山本司令長官は南雲長官を代えることはなかった。

 新たな作戦が発動された。南雲機動部隊は二つに分かれ、「赤城」「加賀」「翔鶴」「瑞鶴」で第一航空艦隊を編成、フィリピン、蘭印、ニューギニア方面の敵に向かう。

 山口少将の第二航空戦隊は、各基地から来た飛行機を収容し、南方に運び、陸軍の上陸作戦の支援を目的として二月に入ってから南雲機動部隊とパラオで合流するというものだった。

 山口少将の第二航空戦隊、旗艦「蒼龍」、「飛龍」は昭和十七年一月十七日にパラオ港に入った。二十一日に出港、ミンダナオ島のダバオに向かいアンボンの港湾施設を爆撃、一月末にパラオに戻った。

 やがて南雲機動部隊が入港し、オーストラリア北部最大の軍港、ポートダーウィンへの攻撃が決まった。そこへ、空母「翔鶴」と「瑞鶴」の帰国を求める電報が入り、二月上旬内地に帰った。米機動部隊の襲来に備えての待機ということだった。

 山口少将は疑問を感じ、「それなら機動部隊を上げて米機動部隊にぶつかるべきだ」と第一航空艦隊の参謀たちに言った。

 だが、参謀たちは「それは山本さんが決めたことですから」と反応はなかった。

 二月十九日、ポートダーウィンへの攻撃が開始された。淵田美津雄中佐(海兵五二・海大三六)率いる八〇〇キロ爆弾を抱いた艦攻八一機、「蒼龍」飛行隊長・江草隆繁少佐(海兵五八)率いる二五〇キロ爆弾を抱いた艦爆七一機、「赤城」飛行隊長・板谷茂少佐(海兵五七首席)率いる制空隊が出撃した。

 海軍兵学校を首席で卒業した板谷茂少佐は後に昭和十九年七月二十四日、アリューシャン列島の千島上空を九六式陸上攻撃機で移動中、味方陸軍記の誤射で撃墜され惜しくも戦死した。

 ちなみに板谷茂少佐の弟、板谷隆一少佐(海兵六〇恩賜)は生き残り、戦後海上自衛隊に入隊、海将に昇進し第七代海上幕僚長、第五代統合幕僚会議議長を歴任している。

 ポートダーウィンへの攻撃については、当初雷撃の話もあったが、山口少将は「さほどの軍港でもあるまいし貨物船を雷撃して何になる。雷撃は敵艦隊と決まっておるではないか」と憮然とした顔で反対した。

 山口少将は一機たりとも犠牲は出したくないと思っていた。攻撃の戦果は、駆逐艦、商船合わせて数隻の撃沈と十機たらずの敵戦闘機の撃墜だった。

 こちらは二機を失った。山口少将は割に合わない感じだったが、オーストラリアに日本強しと思わせる上では効果があった。

 次はジャワ沖掃討作戦だった。南雲機動部隊は敵を求めて進撃したが、駆逐艦一隻と商船を沈めただけで、さほどの戦果はなかった。

 飛行隊総指揮官の淵田美津雄中佐は急先鋒で、「山口さん、どこか、おかしいよ。こんなところで、椰子酒を飲んでいるうちに、太平洋艦隊は刻々迫ってくるんだ。我々の敵はオーストラリアではないですよ」と毒舌を吐いた。

256.山口多聞海軍中将(16)山本司令長官は「もっとも、君には不満だったろうがね」と付け加えた

2011年02月18日 | 山口多聞海軍中将
 指揮官の淵田美津雄中佐(海兵五二・海大三六・連合艦隊参謀・大佐・大阪水交会会長)は、信号拳銃を出して機外に向けて発砲した。「総飛行機にあて発信、全機突撃せよ」。淵田中佐は叫び、午前三時十九分、電信員が「トトト」とキイを叩いた。

 水平爆撃隊、雷撃隊、急降下爆撃隊の各攻撃機は、下方の真珠湾のアメリカ海軍の戦艦めがけて突進した。

 真珠湾からは魚雷命中の真っ白い水柱が数十メートルの高さに立ち上がり、あちこちで黒煙が上がった。「訓練どおりだ」。淵田中佐は微笑んだ。

 攻撃開始後、午前三時二十二分、淵田中佐は南雲司令長官の座乗する空母「赤城」に向けて発信した。「トラ、トラ、トラ」(われ奇襲に成功せり)。

 戦艦「アリゾナ」は高さ一〇〇〇メートルにも及ぶ火柱をあげて燃え、アメリカ太平洋艦隊は壊滅的な損害を受け、日本海軍は緒戦で見事な勝利をおさめた。

 日本時間午前九時二十二分頃、南雲司令長官率いる機動部隊は攻撃隊の収容を終わった。

 第二航空戦隊司令官・山口多聞少将は配下の空母「蒼龍」「飛龍」の第二次攻撃隊の収容が終わると、使用可能機による第二撃の準備を急がせた。

 それが終わると、指示を出さない旗艦「赤城」に「第二撃準備完了」と信号を送った。だが、「赤城」からは何の反応もなかった。南雲司令長官は黙ったままだった。機動部隊は、逃げるように北に走った。

 二ヶ月前、戦艦「長門」での図上演習の際、また、その後も、山口少将は、燃料タンク、修理施設への反復攻撃を意見具申していた。

 空母「蒼龍」では準備を終えた攻撃隊が、爆音を響かせて待機していたが、空母「赤城」からは、何の返答もなかった。

 山口少将の最後の期待もむなしく、南雲司令長官と草鹿参謀長は、「第二撃準備完了」の信号を握りつぶした。

 山口少将の率いる第二航空戦隊が呉軍港に投錨したのは十二月二十九日午後だった。山口少将はすぐ柱島の連合艦隊旗艦「長門」に、山本五十六司令長官を訪ね、帰還の挨拶をした。

 「ご苦労であった。よくやった」とハワイ作戦の勝利を称えたあと、山本司令長官は「もっとも、君には不満だったろうがね」と付け加えた。

 山口少将は「しかし、ああいうものかも知れません」と答えた。すると山本司令長官は「うむ、あの日、複雑な思いで戦況を聞いておった」と言った。

 そして「問題は、どこで切り上げるかだな、そこが難しい」とつぶやいた。山口少将が「しかし、いずれもう一度、真珠湾をやらねばならないと考えます」と言うと、山本司令長官は次の様に答えたと言う。

 「うむ、そういうことだ。しかし、あまり勝っても困る。浮かれるのが一番困る」。そして続けた。「山口君、焦らずにやってくれたまえ。言いたいことがあれば、なんなりと言ってきてくれ」。

 山本司令長官はそう言ってくれたが、山口少将は、上司の悪口をあれこれ長官に言うことはできぬ話だった。山本司令長官はあくまで冷静であり、山口少将としては、いささか物足りない思いであった。

 このあと、山口少将は参謀長室で宇垣纏少将と会った。二人は海軍兵学校同期なので、お互い、忌憚のない話をぶつけることができる。山口少将は次の様に発言した。

 「ハワイはラッキーにも勝てたが、第一航空艦隊は南雲さんじゃだめだ。俺はホノルルの放送をずうっと聴いていたんだ。奴らは大慌てで、とても反撃するどころではなかった」

 「なぜ、南雲さんは第三次攻撃隊を発進させなかったのか。いまでも残念に思っている。ハワイを徹底的に叩かねば、勝てぬぞ」。

 さらに、山口少将は、南雲長官を補佐する参謀長の草鹿少将や、主席参謀の大石保中佐(海兵四八・海大三〇・横須賀突撃隊司令・大佐)らを槍玉に挙げた。

 戦争は少々の犠牲をいとわず、積極果敢に攻める、それが山口少将の哲学であり、のこのこ家路を急ぐなどは、もっとも嫌いなことだった。

 宇垣少将は「あの時、山本さんはこう言ったよ」と言って、次の様に話した。

 「作戦参謀が、南雲部隊が今一回、攻撃を再開したらいいんだがな、と言った。すると航空参謀の佐々木彰中佐(海兵五一・海大三四・第三航空艦隊主席参謀・大佐)が、敵空母の所在がつかめぬので、どうですかと言った。山本さんはしばらく考え込んでいたが、南雲はまっすぐに帰るよ、と言われた。本当はやりたかったのだ」。

記255.山口多聞海軍中将(15)GF司令部首脳の君たち、いまごろ相槌を打つようでは困ったものだ

2011年02月10日 | 山口多聞海軍中将
 山口少将は「攻撃目標と攻撃の手はずは君たちが取り決めたんだぞ」と言うと、

 「山口司令官のおっしゃる通りです」「そうだ、山口君の言う通りだ」。黒島参謀と宇垣参謀長も同調して言った。

 だが、山口少将は「GF司令部首脳の君たち、いまごろ相槌を打つようでは困ったものだ。いいかい、冒頭に敵主力艦に雷撃、爆撃をくらわすのは、攻撃隊としてそりゃ、カッコいいさ。だが、案外そのことに近視的になっていないか。作戦をもっと総括してみる。この重油タンクをやっつければ港内はたちまち火の海になる。それだけで、随所の攻撃の必要がなくなるかも知れない」と言った。

 すると、源田参謀が「それにつきましては・・・、南雲長官のご判断におまかせするしか・・・」と答えた。

 次に草鹿参謀長が「第一撃の第一、第二波で、主力艦、飛行場、対空砲火陣、ついで軍事施設と思えるものは、のがさず叩く予定です。山口司令官がおっしゃる目標の破壊のためには、さらに」と言った。

 山口少将は「草鹿参謀長、ぱっと肝を割って言ってくれよ。第一撃についで第二撃、それでも足らなければ、第三撃・・・というふうに真珠湾から軍港の気配を完膚なきまでに消し去るため、攻撃は反復しなければならない。小官が今言った最重点の目標、重油タンクと勝利設備を冒頭に叩くよう計らってくれ」

 源田参謀が「はあ・・・・・・それは」と、いかにも困った顔になった。

 山口少将が「できないというのかね」と言うと

 「なにぶん、いちおう、最善の方法として打ち合わせしましたので、それを変更するとなると」と源田参謀は答えた。

 これに対し山口少将が「では、第二撃、第三撃の折でもよい。この二つの要衝を叩けば、オハフ島が噴火で焼け爛れた死の島になるのは必定だ。おいおい二人とも、心もとない面だな。では改めてきく。南雲司令官は完璧に攻撃するためには第二撃、第三撃を行う心積もりが頑としてあるか。また、重油タンク爆撃は間違いなくやるか」と言った。

 二人は顔を見合したまま、何も答えなかった。山口少将は「もう頼まぬ」といわんばかりに、室の外に飛び出した。

 このあと、山口少将は鹿児島へ行き、雄大な桜島を一望する岩崎谷荘に投宿した。憤懣をなだめるためだった。だが、これが山口少将の最後の湯治となった。

 少し遅れて石黒参謀が山口の泊まっている部屋に入ってきた。山口少将は石黒参謀に次の様に言った。

 「あのあと、すぐ山本長官の部屋に飛び込んで自分の思うたけを訴えた。長官は『百年兵を養い、国運をこの一撃にというなら徹底的にやるべしだ。俺から南雲君に、山口君の意見を活かす様、十分訓令しよう』と言ってくれた」

 南雲長官は慎重だった。山口多聞はもっと源を叩けと言っている。だが、そうするとどんな不測の事態を招くか知れない。

 その重油タンクを破壊して、収拾のつかぬまでに災立たせるには、どれくらい投弾を要するか全くわからない。だが、致命的にタンクが砕かれて重油が流出すれば陸上施設を含む港内すべてが、聖火台のようになることは確かだ。

 だが、もし、タンクが用心深く仕切られていて、爆弾で何箇所も粉砕されても、炎立たず、中途半端な破壊にとどまるようなら・・・・・・おびただしい爆煙や油の煙がかえって煙幕をつとめて、戦艦や他の軍事施設に対する攻撃がひどくさまたげられる。

 上空からは見えにくい地味な修理施設への投弾も、場所が場所だけに、法外な煙を出して煙幕をはらせることになりかねない。それに、こういう場所の破壊の成果をみとどけられるのは、ゼロに等しくなる。

 山口少将は「石黒君、南雲さんは、おれの主張など先刻承知に違いない。南雲さんはいったいそれにどれだけ積極的になるだろう・・・・・・」。

 山口少将は、「ほれ」と言いながら改めて彼方の桜島を指差した。夕映えだった。そして言った。「かの有名な中国の泰山もこのようかな。この悠揚迫らぬたたずまいが真にうらやましくなるよ」

 昭和十六年十二月八日午前零時、南雲長官率いる機動部隊の全乗組員、搭乗員合わせて三万人は、それぞれ持ち場に着き、艦内の神社に参拝し、お神酒を飲んで必勝を期した。

 午前一時二十分、各空母から攻撃隊が飛び立った。ハワイ時間午前五時五十分だった。午前三時オアフ島の上空に達した。ハワイ時間午前七時半だった。

254.山口多聞海軍中将(14)山口の態度は無礼だ。明るみに出れば軍法会議ものだ

2011年02月04日 | 山口多聞海軍中将
 石橋を叩いても渡らない人だと、山口少将は思っていた。ぱっぱっと行動する山口少将にとって、南雲中将は、最も歯車の合わない提督だった。

 アメリカ海軍を叩く大奇襲作戦だというのに、空母を減らすとは何事か。しかも自分が乗る「飛龍」まで外されている。

 図上演習が空母三隻案で実施されるや、山口少将の怒りは爆発した。山口少将は、長官室の扉を叩いた。

 「長官、我々をハワイから外すとは、どういうことですか。一体、連れて行くのか、行かないのか」。山口少将は食って掛かった。

 「まあ、座りたまえ」と南雲中将は山口少将を制した。だが、山口少将は「絶対に認められない。長官、貴殿は、ハワイ攻撃をどう理解しておるのか」と言った。

 さらに山口少将は「この戦、下手をしたら負けるんだ。勝つには敵の機先を制し、ハワイを叩くしかないんだ。これまで猛訓練をした我々を置いてきぼりにして、何ができるんだ」と、事と次第によっては、胸倉をつかんで張り倒すつもりで詰め寄った(他の資料では、実際に胸倉をつかんだとも記してある)。

 南雲中将は「この山口の態度は無礼だ。明るみに出れば軍法会議ものだ」と思ったが、忍の一字で耐えた。さらに、山口少将は、「この案を撤回しなければ自決するほかない」と迫った。

 結局、南雲中将と草鹿少将は山口少将に負けて、洋上で燃料補給することにして、ハワイ作戦には「加賀」「瑞鶴」「翔鶴」「赤城」「飛龍」「蒼龍」の六隻を使う案に修正した。

 昭和十六年十月九日から五日間にわたって、連合艦隊旗艦「長門」で、各司令長官から参謀まで一堂に会して真珠湾攻撃の図上演習が行われた。

 付近の山谷の起伏も半ミリの誤差もなく精確につくられた畳三畳分を占める真珠湾の模型は、全く現物がそこに横たわっているという感じだった。

 そこで、X日に押し寄せる三百数十機の第一次、第二次攻撃の侵攻の模擬演習が飽くなく繰り返された。米軍の主な対空砲火陣地も調査済みだった。

 演習の結果、在泊の米海軍の主力艦はすべて致命的な損傷を受け、同時に三飛行場は破壊されて、攻撃能力はゼロ、という勝算が回を重ねるにつれ高まった。

 だが、この間、山口多聞少将は始終不機嫌な面持ちだった。他の者が喜色を表わすと、それだけ反対に顔をしかめた。

 図上演習が終わったあと、山口少将(海兵四〇次席・海大二四恩賜)は隷下の通信参謀・石黒進少佐(海兵五七・海大三九・戦後、自衛艦隊司令官・海将)とともに、第一航空艦隊参謀長・草鹿龍之介少将(海兵四一・海大二四)、航空甲参謀・源田実中佐(海兵五二・海大三五恩賜・戦後、航空幕僚長・空将)、連合艦隊主席参謀・黒島亀人大佐(海兵四四・海大二六・少将)の三人に話があるからと言って、残るように言った。

 ちょうどそこへ、連合艦隊参謀長の宇垣纏少将(海兵四〇・海大二二)が現れた。山口少将は「おお、宇垣、ちょうどいい、GF参謀長の貴様にもきいてもらおう。全くけしからん」と言った。

 宇垣少将は「何を怒っているんだ。仰々しいじゃないか」と答えた。

 すると、山口少将は「南雲さんを、階級章を剥ぎ取って引っ張ってきたいくらいだ。いま、長官公室にいるんだろう。何なら、山本長官も。おれはこの五日間、歯ぎしりし続けた。でも、いちおう他の人の意見を聞いてからと我慢した。図演は終わった。全くもって不満だな。攻撃方針をやり直すべきだ」と怒りの表情だった。

 そこにいた四人は、何のことか分からなかったので、きょとんとしていた。

 山口少将は続けた。「機先を制すために飛行場を叩くのは文句なしだ。だが、最も重要な目標であるべきここ・・・・・・ここ、それに、ここ、はどうなんだ。五日間、だれもふれなかったぞ」

 山口少将が指示杖で次々につついたのは、港内五、六ヶ所のドックや大修理工場だった。

 山口少将はさらに言った。「それに大目玉商品である・・・・・・あれえ~っ、この模型にはないっ。たしか、ここの所に伝と備え付けられているはずだ。ただこんな凹みになっているのはどうしたことだ、欠陥模型だ、これは」

 山口少将の頓狂な声が室内の空気をつんざいた。それは、この要塞が誇る世界第二の大重油タンクの存在だった。

 山口少将は続けて言った。「大型艦の修理が可能なこれらの施設と、この重油タンクを最優先に叩くべきだ。なぜ、それが攻撃対象から洩れている。草鹿君、源田君、説明してもらおう」

 二人とも目玉を動かすばかりで、とっさには何も言えなかった。

253.山口多聞海軍中将(13)航空隊主力をハワイに回すのは本末転倒だ。山本さんの考えはおかしいぞ

2011年01月28日 | 山口多聞海軍中将
 「おい、ハワイ攻撃をやめてくれ」。大西少将は真顔でとんでもないことを言い出した。「いまさら何を言うんだ」と山口少将は答えた。

 すると大西少将は「そう向きになるな。いいか、今我々が欲しいのは南方の石油だ。我々の第十一航空艦隊だけでは手が回らぬ。航空隊主力をハワイに回すのは本末転倒だ。山本さんの考えはおかしいぞ」と言った。

 山口少将は「馬鹿野郎。貴様は最初に山本さんから相談を受けて、ハワイ攻撃の研究を始めたのではないか。まさか南雲さんに、たきつけられたのではなかろうな」と言うと、大西少将は次の様に答えた。

 「いや、そうではない。あの時は俺もやろうと思った。だがな、今は立場が違う。もっとも大事なところを任されておると自負している。ハワイは、格好はいい。だがな、空母を五隻も六隻も使い、一騎当千のパイロットを三〇〇人も連れて行くんだぞ。まして航続距離もはんぱじゃない。ハワイではなく、南方にこそ彼らを出すべきだ。貴様の飛龍など行けるわけがないではないか」

 山口少将が「何だと」と言うと、「もっと冷静になれ、ここは危険な賭けはやめろ」と大西少将は言った。

 山口少将は「冗談言うな。アメリカの出鼻をくじくにはハワイしかない。俺は貴様がどう言おうが、真珠湾をやる」とあとに引かなかった。

 すると大西少将は「俺は止めてやる。草鹿参謀長も俺と同じ意見だ」と言った。取っ組み合い寸前の喧嘩になった。

 山口少将は困ったと思った。大西少将がこのような発言をするのは、内部にかなりの反対があることを示していた。

 確かに冒険である。博打かもしれない。だが、アメリカに勝つには奇襲攻撃しかない、これは明白な事実だ。大西には悪いが必ず実施してみせる、と山口少将は思った。

 この問題も結局、山本五十六司令長官の裁断でけりがついた。負けん気の強い大西少将は、第一航空艦隊参謀長・草鹿少将と、山口県室積沖に停泊中の連合艦隊の旗艦に向かい、山本五十六司令長官に直談判に及んだが、一蹴されてしまった。

 九月二十九日、司令長官・南雲忠一中将(海兵三六・海大一八)、参謀長・草鹿龍之介少将(海兵四一・海大二四)ら第一航空艦隊司令部は、鹿屋基地の司令長官・塚原二四三中将(海兵三六・海大一八)、参謀長・大西瀧治郎少将(海兵四〇)ら第十一航空艦隊司令部を訪ね、ハワイ奇襲作戦について打ち合わせを行った。

 その後、草鹿参謀長は、第二航空戦隊司令官の山口多聞少将に次の様な提案をした。

 「ハワイ作戦は航続力が大きく途中での燃料補給が少なくてすむ加賀、瑞鶴、翔鶴の三隻でやることにし、瑞鶴、翔鶴には練度の高い二航戦の搭乗員を乗せる。航続力の小さい赤城、飛龍、蒼龍はフィリピン作戦に使うことにし、飛龍、蒼龍には練度が十分でない五航戦の搭乗員を乗せる。それを承知してもらいたい」。

 これを聞いた山口少将は烈火のごとく怒って次のように言った。

 「いままで、寝食を共にしてきた搭乗員をハワイにやり、司令部と母艦は極東海面に残るなぞ、そんな生木を裂くようなことをして、戦ができるとおもうか」。

 山口少将は、指揮官と部下のつながりを何と考えているかと思った。そして次の様に言った。

 「飛龍、蒼龍の航続力が不足なら、往きだけいっしょにゆき、帰りは放り出されてけっこうだ。燃料がなくなって漂流しようが、どうしようがいっこうにかまわん」。

 山口少将は、その後、第一航空艦隊司令長官・南雲中将に直接会うことにした。山口少将はどこか、南雲中将とそりが合わなかった。

 山口少将は、父親は島根だが、生まれも育ちも東京である。開成中学という洒落た学校で幅をきかせ、海軍兵学校でも全てを仕切った。

 なんでも自分でやらないと気がすまない。重慶の爆撃に加わり、夜間の雷撃訓練を自ら体験したのも、じっとしていられない山口少将の性格が関係している。

 いったん言い出したら、てこでも動かない。今度のように空母を変えるなど、とても許せることではない。

 対する南雲中将は軍令部がそう言えば仕方ないと、考えるタイプだった。あきらめが早いところがあった。生まれは、質素倹約で名高い上杉鷹山(ようざん)の米沢である。

 米沢なまりが抜けないため、時々、何を言っているのか分からなかった。副官がポツリと漏らしたほどである。「訓示は英語でやったほうが、まだいいですなあ」。

252.山口多聞海軍中将(12)第二航空戦隊は三人の信長的な武将によって采配されることになった

2011年01月21日 | 山口多聞海軍中将
 後日、南雲中将は兵学校同期の第十一航空艦隊司令長官・塚原二四三中将と山本司令長官に、ハワイ作戦の中止を具申した。

 だが、山本司令長官は「私の目の黒いうちは、中止はない。作戦が承認されなかった場合、即刻辞任する」と敢然と言い放ち、これを一蹴した。

 昭和十六年九月七日、佐世保軍港に在泊中の空母「飛龍」は新艦長を迎えた。「炎の提督・山口多聞」(岡本好古・徳間文庫)によると、新艦長は、海軍兵学校時代、暴れん坊の上級生、山口多聞(海兵四〇次席・海大二四恩賜・中将)に少なからずしごかれた加来止男(かく・とめお)大佐(海兵四二・海大二五・少将)だった。

 加来大佐は一貫して航空畑を歩み、七、八年前には連合艦隊航空参謀をつとめた。登舷礼のあと、司令官室で両人は久闊を叙した。兵学校以来だった。

 「あの時の山口先輩は歴史上のいかなる猛将よりもおっかなかったですよ」と加来大佐が言うと、山口少将は次の様に言った。

 「すまなかったな、いつも君は大きく目を見開き直立不動の姿勢で、俺の鉄拳を甘受してくれた。大柄で、たくましそうだから、つい、パンチの数も多くなったな。出る杭は打たれる、というからな。すまなかったよ」

 加来大佐は見事な八字ひげを具えていた。山口少将は、しげしげとその顔を見て「ほう、加来君、君はひげを生やすと、俄然俺の目にはイメージ満点に映るよ。全く」と言った。

 加来大佐は「はあ・・・・・・ひげは、別に強そうに見えるからではなく、なんとなく生やしただけですが」と答えた。

 山口少将は加来大佐の顔を改めて見た。全く、信長をほうふつさせる。信長が、性格を一新してすこぶる上機嫌で愛想良くなったといった面差しであった。

 山口少将は「君は熊本出身だったな。ああ、八代・・・・・では、神風連の乱の気風を多分に受け継いでいるんだ。君も兵学校では、俺と同様、名うての暴れん坊だった。だから、俺に良く殴られた。君はせっかちで、行動的な気性だろう」と言った。

 加来大佐は「はあ、ぐずぐずするのは性に合いません」と答えた。

 山口少将が「俺もそうよ。江戸っ子だから、がたがた言わずに早いとこやっちまえ、言いてえんだ」と言うと、「私も同感です。これまで海上、司令部、陸上を転々とする度に、上層部の判断決断の遅さ、消極性にやきもきし、腹を立て通しでした。海軍もお役所ですね」と加来大佐は答えた。

 山口少将も「俺もよほど上官を殴り、乗艦を沈めてやろうかと何度思ったかも知れない。平時ならそれでもよいだろうが、一瞬一瞬が戦機に関る戦時になったら、と、今から心配だな」と同調した。

 加来大佐はさらに続けた。「勇者は逃げ腰も用意して攻撃にかかれ、という兵の要諦もよく分かりますが、思慮とためらいがすぎるともう戦力ではなくなりますよ。とりわけ、将官たる者はそれを肝に銘じなければ」。

 これに対し山口少将は「慎重な泥棒猫ではなく、果敢な喧嘩犬になろうよ。人間すべからく死のうは一定、ここぞと思い決したら突進する桶狭間の信長になることだ」と言った。

 加来大佐も「存分に奮迅したいものですね。そして荘重な散華を、できれば大海の只中で・・・海軍軍人として最高の掉尾(ちょうび・最後、終わり)です」と言った。

 山口少将は「同感だ、加来君」と言ったものの、山口少将は少なからず鼻白む思いだった。加来大佐は山本五十六大将の航空用兵論の忠実な担い手ではあるが、驚いたことに、山本大将とは反対に熱心な艦隊派だったのだ。

 加来大佐は、国辱められれば即、英米を討つとするタカ派だった。だが、山口少将も多分にその気質を分かち持っていた。

 空母「蒼龍」艦長の柳本柳作(やなぎもと・りゅうさく)大佐(海兵四四・海大二五・少将)も剣道の名手で、至誠あふれる情に厚い人柄は部下に慕われ、さながら山中鹿之介をほうふつさせた。「俺は最後には腹を切って果てたい」と日ごろから周囲へ洩らしていた。

 第二航空戦隊は三人の信長的な武将によって采配されることになった。

 昭和十六年九月十一日から二十日までの十日間、連合艦隊は海軍大学校で「ハワイ作戦特別図上演習」を終えた。

 ところが、この時期になって、ハワイ攻撃の是非をめぐる論議が再燃した。南方攻撃を担当する第十一航空艦隊の参謀長、大西瀧治郎少将が突然、山口少将のところに来て意外な話を始めた。

251.山口多聞海軍中将(11) 南雲中将は山口少将のほうを向き、目を剥いた

2011年01月14日 | 山口多聞海軍中将
 「飛龍」の整備分隊制動機発着機係の石橋武男一等整備兵曹は、艦爆分隊長・小林道雄大尉(海兵六三)の航空日誌をガリ版で印刷し、搭乗員達に配る仕事をしていた。

 ある厚い日の夕暮れ、彼は、白の第二種軍装を着た山口司令官が艦橋近くの飛行甲板に立っているのを見かけ、思いついたことをやってみようと、山口司令官の後ろに近づいた。

 「当直将校!」と石橋一等整備兵曹は山口司令官に声をかけた。すると山口司令官は後ろを振り返り、「当直将校じゃないよ」と、おっとり答えた。

 「あ、失礼しました」と先刻承知の石橋一等整備兵曹はそう詫びたが、頭の中では「うまくいった」と思い、同時に嬉しくなった。彼は一度でいいから山口司令官と言葉を交わしたかったのである。

 石橋一等整備兵曹は、このことを他人に話すのがもったいなくて、昭和五十九年まで四十三年間しまっておいたが、飛龍会編の「空母飛龍の追憶」(非売品)にやっと発表した。彼はそこに「山口司令官(海空軍の至宝、真の実力者)」と記している。

 「山口多聞」(松田十刻・学研M文庫)によると、昭和十六年四月上旬、連合艦隊旗艦「長門」の長官公室に第一航空艦隊の首脳が集まった。

 司令長官・山本五十六大将(海兵三二・海大一四)がハワイ作戦の概要を述べると、機動部隊「第一航空艦隊」司令長官の南雲忠一中将(海兵三六・海大一八)は航空甲参謀・源田実中佐(海兵五二・海大三五恩賜)に、成功の見込みについて問いただした。

 一通り説明を受けた南雲中将は、山本大将に向かって「本職は、この作戦には投機的な要素が多すぎると思う」と発言した。

 山口多聞少将(海兵四〇次席・海大二四恩賜)は心の中で舌打ちした。「南雲長官!」。自分でも驚くほど強い調子になっていた。南雲中将は山口少将のほうを向き、目を剥いた。そして「なんだね」と答えた。

 山口少将は「それでは長官はどのようにお考えですか?」と質した。すると南雲中将は「そりゃあ、南方作戦一本槍だ」と断言した。そしてその理由について次の様に長々と説明した。

 「ハワイと南方に空母、飛行機を二分すれば、どちらも兵力不足になる恐れがある。ハワイは投機的な支作戦にすぎない。成功したとしても南方作戦が安心してやれる程度である。攻略を企画するものではないので、台風一過のような感じであり、以後の戦局への戦果拡充が伴わない」

 「万一失敗すれば全作戦が台無しになり、わが艦隊勢力も半分を失う心配がある。得るところよりも失うところのほうが多いと思われる」

 「開戦の作戦指導としては危なっかしい。それよりも南方に全力を傾注し、早急に作戦目的を達し、アメリカ太平洋艦隊の撃滅を策する方が手堅い。我が海軍の全勢力をあげて南方作戦に当たるならば、太平洋艦隊の多少の牽制などは問題にはならない」

 「以上のような理由で、本職はハワイ作戦に反対である」

 山口少将は「本職はハワイ作戦に全面的に賛成であります」と力強く発言すると、まわりから南雲中将と山口少将の表情を交互にうかがうような視線を感じた。

 山口少将は胸に秘めた感情が沸々とたぎり、顔がほてってきた。山口少将は次の様に論じた。

 「南雲長官の言われる通り、ハワイ作戦には投機的な性格はありますが、アメリカ海軍の闘志はきわめて旺盛であり、南方作戦に踏み切った場合、太平洋艦隊は英、蘭、豪の艦隊と糾合し、南方へ反撃してくるのは必須であります」

 「そうなれば上陸作戦に成功したとしても、わが軍は補給路を撹乱され、作戦は収拾のつかないものになることでしょう。さらには連合艦隊のいない隙に乗じて本土、しかも帝都を脅かすような事態が起こるかも知れません」

 「ゆえにハワイへの一撃は作戦上、第一になくてはならないものと考えます。われわれの主敵はアメリカ海軍であります。むしろ空母勢力すべてをハワイに向けるのが妥当であります」

 「私の見るところでは、南方は無防備にひとしく、海軍の全勢力を注ぎ込むほどのことはないと思われます」

 南雲中将は苦々しい顔つきをしていた。二人に触発されたように、次々に賛成、反対の意見が出席者から噴出した。

 目をつむって両者の言い分を聞いていた山本司令長官は、座が静まると目を開けた。そして大きな口が開いた。

 「両者の見解はよくわかった。本職の見解はあくまで真珠湾を叩くことである」。その場にいた全員が粛然となった。