陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

30.高木惣吉海軍少将(10) やっておるというが、今まではできていないではないか

2006年10月13日 | 高木惣吉海軍少将
六月二十五日、伏見宮は岡田大将の度重なる要請についに腰を上げ、嶋田海相を解任し、米内大将を後任とすることを天皇に奏上した。

伏見宮は嶋田海相に辞任を勧告した。ところが嶋田海相は自分が辞任すれば、東條も辞め、内閣総辞職となるから、仰せには従えないと拒否した。こうして高木少将らの討幕運動は結実した。

六月二十七日、総理官邸で嶋田海相の辞職を主張する岡田海軍大将と東條首相のまさに一騎打ちが行われた。同時刻に高木少将は沢本海軍次官に呼びつけられ、岡田大将邸への出入り、海相更迭運動への警告を受けた。

「私観・太平洋戦争」(文芸春秋)によると、昭和十九年七月十日、南、荒木両大将が、東條総理に面接した。

東條総理は初めから喧嘩腰で「政治問題で来られたのか?」と詰問したという。南は鈴木系だが、荒木は皇道派で東條にとっては不愉快であったと想像される。

 「作戦に関して意見を述べに来た」と前置きして、大将会でのサイパン奪回の決議を述べ、陸・海軍の策応協同の必要を強調した。

 すると「そんなことは十分承知してやっている」と素気ない東條総理の言葉に「やっておるというが、今まではできていないではないか。サイパン戦まではできとらぬではないか」と押し返し強調した。

 だが東條は「毎日毎日同じ事を言ってくる者にいちいち応接の余裕はない。その位のことは百も承知でチャンとやっとる」と剣もほろろの挨拶だった。

 さらに、決議文を突き返され南、荒木両将軍は大いに憤慨して帰った。だが、昭和十九年七月十八日、東條内閣は総辞職した。

 「自伝的日本海軍始末記・続編」(光人社)によると、昭和二十年五月三十一日、高木少将は親任の連合艦隊司令長官、小沢治三郎海軍中将に会って戦争指導会議の経緯を語った。

 そのあと海軍省の焼け残りの裏の庁舎に海相を訪ねて、目黒の海大校舎に帰りかけると、まだ片付いていない海軍省旧館の焼け跡で、急に声をかけられ、目を上げると、山梨勝之進学習院長が立っておられた。

 「大変らしいが、どうだ元気かね、タカキ君!」

 山梨院長が次官時代に聞いた懐かしい声であった。

 「こうなりますと、健康の事なんかかまっておれなくなりました」と、多分にヤケクソ気味になっていた高木少将は、前置きの挨拶を忘れて答えた。

 山梨大将は少し頭を傾けながら、静かな声で

「いや君、中国の詩人は、じつにいいことを謳っている。野火焼いて尽きず、春風吹いてまた生ず。あせっちゃいかんね。手っ取り早くなんて考えない方がいいよ。春風吹いてまた生ず、良い句だね」(白楽天)と言った。

 高木は「逆上していた筆者の頭に氷嚢をあててくれた今は亡きこの大先輩の言葉をおもいだすと、われにもなく目頭が熱くなるのである」と記している。

 昭和二十年八月十五日正午、高木少将は軍令部で整列して玉音放送を聞いた。高木の直ぐ隣には、大西瀧治郎軍令部次長がいた。その大西次長の表情にはすでに、特攻隊員たちのあとを追う覚悟の程が現れていたという。

 高木少将は緒方竹虎の要請で東久邇宮内閣に入閣することになった。それに伴い、昭和二十年九月十五日、予備役となった。

  大正元年九月九日、海軍兵学校生徒に採用されて帝国海軍に身を投じてからまる三十三年、「桜と錨に別れる」こととなった。

  九月十九日、東久邇宮内閣の初代内閣副書記官長に入閣した。だが、十月五日内閣は総辞職した。この時点で高木少将は無官の太夫となった。高木は五十二歳であった。(終り)   

(高木惣吉海軍少将は今回で終りです。次回からは「遠藤三郎陸軍中将」が始ります)


29.高木惣吉海軍少将(9) 重男、お前これから行って東條を刺してこい

2006年10月06日 | 高木惣吉海軍少将
「海軍少将・高木惣吉」(光人社)によると、昭和十九年初頭、高木少将を盟主とし、東條内閣打倒運動に乗り出そうとした矢部貞治東大教授はがっかりした。

 高木少将の隠密行動が始ったのだ。高木少将は嶋田海軍大臣の辞任は伏見元帥宮による説得をわずらわす以外に方法がないと思った。

 伏見宮が軍令部総長が在任中、無類の忠勤を励んだ嶋田海相。その嶋田海相が耳を貸すとすれば伏見宮殿下しかない。そしてこの伏見宮殿下を説きえる人は岡田大将意外には見当たらない。

 高木少将のこの考え方は満点であった。だが、実際は高木の思惑通りに進まなかった。天皇を独占してしまった東條幕府のガードの高さと、岡田大将、伏見元帥宮の歯切れの悪い動きにあった。

 昭和十九年三月一日、高木少将は海軍省教育局長に就任する。その当日高木少将は湯河原に赴き近衛公、原田男爵と情報交換をした。

 近衛公は「今回の嶋田大臣更迭の失敗の根本はどこですか」と高木少将に問いをあびせた。高木少将は「伏見大宮さまですよ。なにしろそこまで工作する余裕がなかったから」と答えている。近衛公、原田男爵はやっぱり伏見さんかと長嘆息した。

 昭和十九年三月三十一日、古賀連合艦隊司令長官が飛行機事故で殉職、後任は豊田副武大将に決まった。

 「私観・太平洋戦争」(文芸春秋)によると、高木少将は四月八日に古賀連合艦隊司令長官の殉職を知った。

 高木少将は岡田大将の所へ駆けつけて悲報を伝えると、いつも物に動じない大将も「それは大変だ!年寄りもこうしてはおれん。一体どうすれば良いと思うか?」と凄い剣幕でたたみかけられた。

 そのあと、高木少将は海上ビルにあった浦賀船渠の社長室にまわり堀悌吉中将にも古賀長官の悲報を知らせた。

 「そらあもう駄目じゃないか!」というのが堀中将の最初の言葉で、眼鏡の奥にあふるるものを見て、高木少将の次の言葉が出なかった。

 三人兄弟のように親しかった山本、古賀の両将を一年足らずの間隔で戦死させた堀中将の胸は恐らく第三者の想像を越えたと思う、と高木少将は述べている。

 四月十五日、高木少将は横須賀鎮守府に豊田長官を訪れ、「お喜びを申し上げてよいかどうか迷っています」と露骨な挨拶をした。

 すると豊田長官は沈痛な表情で打ち明け話を高木少将にした。それは次のようなものであった。

 「嶋田大臣が、古賀が殉職したから GF(連合艦隊)に出てもらいたいと言うから、僕は固辞して南雲を名指しで推薦した。すると嶋田は、君がGFに最適任のことは伏見宮殿下もご同意のことだし、四時半には内奏の手続きがしてあるからと、否応を言わせないという態度で、四時十五分まで押し問答をしたが、結局みすみすハメ手にかけられたと思ったが、覚悟をして引き受けた」。

 そのあと豊田長官は「率直に告白すれば戦局挽回の成算も立たない、ヤハリ思い切った外交措置を打たないとイカンように考える」とも言ったという。

 「海軍少将・高木惣吉」(光人社)によると、昭和十九年六月二十四日、高木少将は岡田大将と激しい応酬をした。

 高木少将は岡田大将ら重臣達の動きのにぶさに不満の表明という生ぬるいものではなかった。

 東條、嶋田のコンビがこれ以上政治に執着を続ける時は、海軍省の課長級が七月中旬を期してテロ行為を決行する雰囲気にあったので、高木少将は岡田大将に事態はそこまで進んでいると告げたのだ。

 岡田大将はそれはとんでもないことだと絶叫した。岡田大将は緊張に打ち震え、額に汗し、ややあって「真にやむをえず、何かやる時は、必ず、私に言ってからやってくれ」と高木に言った。

 高木の二十歳年下の従兄弟の川越重男の証言がある。高木少将と岡田大将の激しい応酬の前、昭和十九年五月のある夜、高木少将の自宅に来客があった。

 川越氏がお茶を持って応接室に入ったところ、主客ともかなり興奮していて、高木少将は、やにわにお茶をすすめる川越氏を見据え「重男、お前これから行って東條を刺してこい」と客前をはばからず怒鳴りつけたという。

 高木少将のそのような興奮は後にも先にもなかった。だが結局テロ計画は実施されなかった。



28.高木惣吉海軍少将(8) 海軍軍人の妻になるより、小商人のカミさんで帳場に座った方が遥かに幸福だ

2006年09月29日 | 高木惣吉海軍少将
第一次世界大戦から十年を経た、その頃のパリの書店は戦記や戦史の洪水だった。フランス海軍出身の著者はA・トマジ大佐や、ポール・ジャック中佐が健筆を振るっていた。

 高木少佐は紹介されて、ポール・ジャック夫人と昼の食卓を囲んだ。高木が海軍士官だと聞くと、ジャック夫人は押さえていた不満を爆発させた。

 ジャック夫人は「ポールは陸上勤務ばかりなので、同期のロベール、ドルージョンは少将、他の級友はみんな大佐なのに、彼だけは中佐の最古参で足踏み。それはまだしも、海戦に関して色々書き並べるが、ただ事実を美化しているだけです」と高木に言った。

 さらに「ポール自身の史観はなにもない。何か解明しようとすることや、所見らしいもので妻の私を納得させたものは一つもありません。その真意が私には分かりません」とも。

 またジャック夫人は「表面は平和な結婚生活のように見えるかもしれませんが、私は心の底では寂しい。悲しい思いに明け暮れています。結婚の時、若し海軍生活が気に入らなければ、退役してシビルの仕事に移ってもいいと約束しておきながら、その後そのことに触れるのを避けている」と高木に話した。
 
 さらに「海軍士官の妻がどんなにさみしい、悲しい生活を送っているか男の方には分からないでしょう。軍人はオメール(名誉)に生きるといいますが、その名誉がどこにありますか」と言った。

 さらに続けてジャック夫人は「ポールは始終留守ばかり。私達は労働者にも劣る不自由な生活をしながら、夜も昼も、夫の身を案じて過ごさねばなりません。こんな馬鹿らしい生活が何処にありますか!」と言い放った。

 ジャック夫人は、「海軍軍人の妻になるより、小商人のカミさんで帳場に座った方が遥かに幸福だ」と高木にまくしたてたという。

 「自伝的日本海軍始末記」(光人社)によると、昭和六年、高木少佐が大臣秘書官のころ、山本五十六と堀悌吉の思い出を記している。

 山本少将はロンドン軍縮会議から帰朝してまもなく、ぶらっと秘書官室に来て、「オイ秘書官、四、五人入れる部屋を見つけてくれんか」と高木少佐に気の毒そうな口ぶりでたのまれた。

 だが、省内に空いた部屋などは、会議室以外になかったので、高木は返事に戸惑っていた。

 すると、横あいから堀悌吉軍務局長が「お前さん、話が下手だよ、俺が代わる!」と例の早口で、「こんど航空技術廠の設立準備委員を集めるから、その事務室を、どこでもいいから大至急さがしてくれ」というのであった。

 高木少佐はおおいに弱ったが、結局地下室みたいな換気の悪い所に枝原百合一少将を委員長とする準備委員会ができた。

 単なるアイデアではなく、具体的方策に乗り出して航空本位の海軍軍備を考えていたのは山本少将が一番乗りだったという。

 昭和八年十一月十五日高木中佐は海軍大学校教官を拝命する。昭和十一年、海軍大学校第三十三期学生卒業式前に不愉快な問題が起こった。

 卒業生席決定の直前、教官の高木中佐は教頭の沢本少将によばれた。「卒業成績の仮順序は、樋端、榎尾、T少佐の順だが、校長は人物その他を考慮した結果、二番と三番の順序をいれかえたい意向である。ついては榎尾、T学生の軍政の点数を入れ替えてもらえないか」と言われた。

 しかし高木中佐は井上継松校長の動機がまことに不純きわまることを知っていた。

 十年秋の演習で、井上校長は赤軍戦隊の司令官をつとめたが、審判官の1人であった榎尾少佐に研究会でその戦術行動の失敗と思われる点を突かれた。

 審判官がもし情実を差し挟んでえこの審判や批判をしたらそれこそ海軍の堕落である。榎尾少佐があえて校長の指揮を批判したのはほめてやるべきである。

 ところが狭量な校長は恨みを恩賜の軍刀とりあげで報いようと企てた。

 高木中佐は沢本教頭の要望を即座に断った。相当長い押し問答の末、教頭も校則によって採点の資格があると言い出した。

 結局フタを開けてみると、卒業生席は樋端、T少佐、榎尾の順で発表された。榎尾少佐は恩賜の軍刀をもらえなかった。




27.高木惣吉海軍少将(7) 君、海大教官なんて、チットも学生よりえらくないんだヨ

2006年09月22日 | 高木惣吉海軍少将
「自伝的日本海軍始末記」(光人社)によると、大正十四年十二月一日、海軍大学校に甲種学生(二十五期)として入校した。

 高木大尉は海軍兵学校と違ってようやく講義らしい講義が受けられて嬉しかった。

 しかし、例外もあった。例えば、憲法総論の上杉慎吉博士。天才的な学者と聞いていたが、三十過ぎた学生に、小馬鹿にした幼稚拙な比喩、天皇神権説の粗雑な憲法講義には高木大尉のクラスでは耳を傾け者は少なかった。

 上杉慎吉博士は当時有名な憲法学者だった。ある朝、連日のレポート提出で徹夜組が多かったのか、授業中大半が居眠りしてしまった。海軍大学校のエリート学生でも居眠りはする。

 すると憤激した上杉博士は、「私の講義にたいして、失敬な!」とどなりながら、持っていたムチがコナゴナになるまで叩き続け席を蹴って退席してしまった。

 高木を含めた最前席の四名は、眠っていなかったのだが、何で博士が怒りだしたか訳が分からず、居眠りしていた学生もびっくり目をさましてポカン、博士が退席してから大笑いになったという。

 高名な学者にしては、粗雑な憲法講義というように、学生は思った。

 あとで詫びをいったらというハト派学生もいたが、徳永学生長が「ほっとけ、あんなくだらぬ講義をして増長している。詫びることなんかない!」と一喝して、皆それに賛成した。

 高木大尉は海軍大学校を昭和二年十一月二十五日卒業した。首席で卒業し恩賜の長剣を拝受した。

 だが高木は次のように記している。「死ぬまで海軍兵学校の成績と士官名簿の順位に金縛りされていた旧帝国海軍では、自分のように海軍兵学校の成績がマアマアという程度で、恩賜の長剣をもらったりすると、目のかたきにして足を引っ張る傾向があった」と。

 高木が昭和二年十二月一日海軍少佐に昇進し、フランス駐在を命ぜられて、海兵四十八期のトップ、小野田捨次郎大尉がいっしょにフランス駐在となった時の送別会でも、そのような場面があった。

 送別会の時、誰かが「小野田大尉はトップだから、海大なんか行かない前に洋行ができる。高木さんは海大の恩賜をもらって洋行。海兵の優等生はたいしたものですね」と大声で放言していた。全くその通りであった、と高木は思ったという。

 「自伝的日本海軍始末記」(光人社)によると、パリの大使館に着いた高木少佐は三階の武官室に武官の古賀峯一大佐(後の連合艦隊司令長官)に挨拶に行った。

 古賀大佐は、「三十五?いまそんなに進級が遅いか?三十過ぎての語学は難しいよ。寺本君(海大教官)からG・ローランに会わせてくれと紹介状に書いてあったが、語学が出来なくて人に会ってもしょうがない。戦略・戦術なんか、頭においちゃダメだ。本なんか帰朝してからでもいくらでも読める」と高木少佐の期待していたことはあっさり駄目になった。

 高木少佐は「たとえ通訳を入れてもフランス海軍で著名な兵学研究家に会わせることも立派な教育の一つ」と考えたが、赴任早々古賀大佐と論争をする余裕もなかった。

 パリを見学後の昭和三年三月三日、高木少佐の尊敬する海軍大学校の黒川教官の急逝を知った。

 卒業前の教官と学生の宴会で黒川教官は高木に「君、海大教官なんて、チットも学生よりえらくないんだヨ。買いかぶるな」と言って笑われた。たびたび質問で黒川教官をわずらわした高木は、胸迫る思いにたえなかった。





26.高木惣吉海軍少将(6) 場合によっては副長だろうとなんだろうと、そのままでは、おかぬぞ

2006年09月15日 | 高木惣吉海軍少将
午前十時ころ、航海士の青山少尉を呼んで聞くと、まだ浅瀬が見つからず、ユデダコのようになった重松艦長が、当直将校などのけ者にして、さかんに面舵、取り舵でグルグルまわりしているという。

 高木大尉は、言わないことか、六時間はたっぷり遅れたと思いながら、いま少し探させたがいいとそのままにした。

 正午近くになり、高木大尉が艦橋に出ると、さすがの気象艦長もシャッポを脱いで「航海長、天測をたのむ!」「はあ、そのつもりで来ました」。

 一、二回の天測で正確な位置線がすうっと出た。高木大尉が「面舵十五度」「針路南七十度西」と操舵員に命じると、その方向に七、八分走ったら、早瀬のように白波を立てた浅瀬が見えた。高木大尉は「溜飲が音をたてて、一度にさがった気がした」という。

 それから、二ヵ月後に退艦するまで、重松艦長は高木大尉の航法や艦位には一切文句をつけなくなった。

 しかし、親切で温厚な重松艦長に意地悪をやったのは気がとがめ、高木大尉が艦長室にお詫びに行ったら、あべこべに向こうから謝られて恐縮した。

 この測量艦「満州」でも、高木大尉は副長運が悪かった。
事の起こりは、副長の児井勲少佐が石炭積に勝手に高木航海長の部下の信号員をかりだした。

 内規では信号部員は石炭積みを免除されていた。航海士が高木に副長が信号部員を使っていると訴えてきたのである。

 これはT機関長の要請に副長が応じたものだった。このT機関長は大シケの時、盛んに艦長、航海長の措置を非難していたので、高木はなお頭にきた。

 その晩、食卓で、艦長以下士官のいる前で、内規を無視した副長にかみつき、「場合によっては副長だろうとなんだろうと、そのままでは、おかぬぞ」と詰め寄った。

 高木の様子が余りに激しかったので重松艦長が仲に入り内規と違った例外措置は、あらかじめ航海長の了解が必要ということで落着した。だが高木は腹の虫が納まらなかった。

 高木大尉は海軍大学甲種学生の口頭試験に出るため「満州」を退艦することになり、副長も一緒のランチで上陸した。

 桟橋までの雑談中に副長が「航海長、本省にいったら、いままでのように威張るなよ」と言ったから、高木大尉は、野郎なにをぬかすかと思い、「威張ったのは副長でしょう。私はまちがった仕打ちをする奴には、相手が大臣だろうと楯突きます!」と言い返した。

 後年、高木はこの時のことを「しみじみ私という人間はどこまで天の邪鬼に生まれついた者かと思えてならない」と述懐している。



25.高木惣吉海軍少将(5) イカン、君はそれが欠点だ!人生に波も風もない一生なんてあるもんじゃない

2006年09月08日 | 高木惣吉海軍少将
大正八年十二月一日海軍砲術学校普通科学生、その六ヵ月後に海軍水雷学校普通科学生となった高木中尉は海軍兵学校の蒸し返しのような水雷兵器の暗記と、初歩的射法の座学にうんざりしてしまった。

 人生を出直すとすれば二十七歳の今が思い切りをつける最後の時期と考え、当時日本一と評判された芝神明町の観相の大家、石竜子を訪ねた。

 穴のあくほど高木の顔をにらんでいた石竜子は「イカン、君はそれが欠点だ!人生に波も風もない一生なんてあるもんじゃない。冬の次には春が来る。夜明け前は一番暗いぞ。バカなことは考えないで、帰ったほうがいい!」と言われ、すごすごと横須賀へ帰った。

 大正十年夏、専門の兵科を決める高等科学生の入試となった。二道かけるのが嫌いな高木中尉は第一志望砲術、とそれだけ書いて提出した。

 すると、庶務係の主計少尉が「第二志望、第三志望も書くことになっています」と言うから、「アア、適当に書いといて」とうっかり口をすべらした。ところが、その主計少尉は高木の一番嫌いな航海を第二志望の欄に書き込んだ。

 それで海軍大学航海学生に採用された。その結果、高木中尉は一番嫌いな専門の航海に引きずり込まれ、駆逐艦や測量艦の航海長になり、骨まで痩せる思いをしなければならなかった。

 「自伝的日本海軍始末記」(光人社)によると、高木は大正十一年十一月、駆逐艦「帆風」の航海長に任命された。

 十二月、高木は二十九歳で結婚した。最初は、M氏の仲人で横須賀県立高女校長の令嬢と見合いをし、一目ぼれで、欲しくてたまらなかったが、質問された事をバカ正直にズバズバ答えておじゃんになった。

 次の見合いの相手が横須賀高女出身の良家の娘で理知的で寂しげな感じの人だったという。

 帰り道にM氏が「君、イエスかノーか」と山下将軍のように迫るので「お願いします」と返事した。

 ところが、それから夏も過ぎようとするのに、向こうの返事は梨のつぶて。高木は今度もヒジテツを喰ったかと思うと、男がすたると、ヤケクソ気味で「この話は解消したいと」M氏に伝えた。

 すると一杯きげんで東京の高木の下宿に押しかけてきたM氏は、「女は亭主次第で一生の運命が決まる。右向け右式に即答が出来るか」とどやしあげた。後にこの女性と高木は結婚した。

 大正十三年十二月一日、高木大尉は測量艦「満州」の航海長に任命された。艦長は東京帝大で気象学を専攻した重松良一中佐だった。

 熱帯医学、海洋学の学者を多数乗せて十四年四月出港した。ウルシーからヤップ島、パラオ諸島から南の赤道近くまで観測航海をやり、バシー海峡に入り、台湾北東の三紹角に向かった。

 その南東方の浅瀬にたどり着く航路のことで高木大尉と重松艦長は大衝突をした。

 重松艦長は「四ノットの微速で直行すれば夜明けに浅瀬に着くと」言った。

 航海長である高木大尉は、「海流が一ないし二ノットと海図に書いてあっても、それは年間の平均の流速で、季節や天候などで変化がある」と言った。

 さらに高木は、「微速でノロノロ行くと風潮の影響が大きくなり正確に目標を発見できない。それより三角形の二辺を走る形で、鼻頭角の灯台に向かって直進し、灯台の光が見えたら、艦位を確定して南に下れば明け方に浅瀬を発見できる」と主張した。

 だが高木大尉がいくら説明しても重松艦長は承知しない。
シャクにさわったが、重松艦長のいうとおりに修正航路を定めた。

 翌朝になってみると、案の定、浅瀬は姿も見せず、あいにくの曇り空のため星で天測位置もだせない。高木大尉は「すこし山船頭を教育してやれ」と思い私室に狸寝入りして艦橋に上らなかった。



24.高木惣吉海軍少将(4) 「こいつはツンボか!」と副長がひとりで焦がれていた

2006年09月01日 | 高木惣吉海軍少将
海軍兵学校四十三期の高木は三号生徒の時、一年間にらまれ、なぐられた四十一期には数々の恨みがあるが、四十三期は前田稔、松永貞一、草鹿龍之介、田中頼三、木村昌福、市丸利之助など勇名を馳せた提督も少なくなかったという。

 「自伝的日本海軍始末記」(光人社)によると、大正四年十二月十六日、高木は海軍兵学校(四十三期)を卒業し、「磐手」に配乗され遠洋航海(豪州、ニュージーランド)に出た時、修道院に近い海兵の生活から抜け出し、やれやれ海に出られた、という開放感をおぼえたが、それもたちまち失望の淵に突き落とされた。

 艦上の実習も航海科の天測ぐらいが気の効いた方で、あとは、水兵さんと同じ甲板洗いのまねごとや、当直のけいこ、朝起きるとハンモックを大慌てにくくって格納所にかつぎこむなど、高木にはバカ臭くて他の同僚のようにハツラツとした気分でやれなかった。

 ある朝、一番遅れてハンモックをかついで上甲板にでると、ハッチのわきに両手を腰にかまえて見張っていた永野副長にどなられ、そのまま甲板をハンモックをかついで駆け足で一周させられた。

 水兵に笑われながら走り屈辱感が身に染みたという。高木は「このような指導法が指揮官養成の正道か邪道か問題である」としている。

  高木は遠洋航海終了後、軍艦「安芸」に乗組んだ。この艦の三上良忠副長の意地悪さは高木にとって忘れられないものとなった。

 水兵、士官の区別なくどなりまわし、陰では副長と呼ばないで「悪忠」と」呼ばれていた。

 ある日副直に立っていると艦橋の信号兵が大声で「副直将校、軍艦〇〇が入港します!」とトテツもない大声で報告した。

 びくびくもので副直に立っていたためと、遠洋航海いらいのノイローゼ気味だったのか「副長、〇〇艦が入港します!」と後甲板にいた副長に報告した。

 そのとたん「バカ!〇〇艦なんて海軍用語があるか!」とどなられ、高木は「この副長には最初から落第、この副長には同期生六名のうち最低の考課表だっただろう」と述べている。つくずく副長運の悪い高木だった。

 大正六年十二月一日、高木は機関学校の練習艦「千歳」に乗組んだ。高木は艦長や分隊長は尊敬できたが我慢のならないのは、この艦の副長古賀琢一中佐だった。

 自慢げに天保銭(海軍大学校卒業徽章)をつけているのはいいとして、病的と思えるほどの神経質の怒りんぼうだった。

 号令の言葉尻や取次ぎのタイミングが悪いとか、愚にもつかぬことに頬の筋肉をけいれんさせてクドクド怒鳴るのが毎日の事で、高木などぺいぺいの少尉はさんざんであった。

 同期の矢野少尉は機転が利いて可愛がられたが、高木は反骨ばかりが強すぎ、古賀副長が怒りだすと「安芸」の三上副長で鍛えられた「聞こえぬふり」をしてソッポを向いてそらとぼけていると、「こいつはツンボか!」と副長がひとりで焦がれていたという。




23.高木惣吉海軍少将(3) 入校三ヶ月で高木は海兵の教育にすっかり失望した

2006年08月25日 | 高木惣吉海軍少将
「自伝的日本海軍始末記」(光人社)によると、大正元年八月、海軍兵学校の入試面接の時、「高木生徒は、どんな理由で本校を志願したのか?」と質問された。

 高木は、おおよそ、こんなくだらぬ質問ほど答えにくいものはないと思ったという。まさか海兵生徒のジャケツに短剣姿のカッコいいのにあこがれて(実際はそうだったが)ともいえない。

 そうかといって貧乏で高校へ行けないから(これも大いに事実だったが)とも答えられないし、「海が好きで、立派な海軍将校になり、海国日本のために貢献したいから」などと体裁のいい嘘をついてしまった。

 大正元年九月九日、高木は海軍兵学校に入学した。新入生の「娑婆っ気ぬき」のための暴力制裁が始った。

 ところが鉄拳をふりまわすようなのは、たいてい、成績劣等の野次馬に限られたという。入校早々の制裁でノイローゼになり、退学した級友が三名出てしまった。

 高木もかなり自覚するほどのノイローゼになったが、退学までにはならなかった。しかし予習時間に何を読んでも覚えられず、記憶喪失症かと迷い、成績は落ちる一方であった。

 入校三ヶ月で高木は海兵の教育にすっかり失望した。それでも赤貧洗うような実家にはアルコール中毒の父が胃潰瘍でろくな稼ぎも出来ないような事情では、官費の学校に踏みとどまるほかはなかった。

 海兵の事実上の教育指導は教頭であった。在学中、加藤寛治、堀内三郎、正木義太の三大佐が順次着任した。

 加藤大佐は十八期のトップという自惚れがあったかも知れぬが、散々なスパルタ式を強制した。堀内大佐は精神的な鍛錬に力をいれ親愛感をもたせる教頭だった。

 高木が一番反発を感じたのは正木大佐だった。広瀬中佐と同じ第二回の旅順閉塞隊に加わり、武揚丸を指揮した勇士というだけで教育者ではなかった。

 訓話を聞いても心の琴線に触れるものはなく、やったことは、校庭の美しいツツジを残らず引き抜いてどこかに移した位で、生徒に赤いものを見せるのは有害だという理由だったそうだ。

 とりどりのツツジは生徒の目をよろこばすこと、桜とともに代え難いものであった。高木は正木教頭は天下の野暮天と思ったという。
 
 日露戦争後からの教育の型式化、硬直化で、大正初期の海軍兵学校の教育は、想像も出来ない詰め込み丸暗記で、それも大砲、魚雷、機雷、航海兵器などの構造の暗記に大きな点数が予定され、物理、数学、英語などの基礎科目の点数は刺身のツマ扱いであった。

 旧式六インチの砲のからくりなどで、「螺旋がまわれば螺輪がまわる。螺輪がまわれば~」という型の説明を下士官教員が汗だくで教えてくれたが、面白くもなければ、おかしくもない。

 こんな構造を丸暗記しても、卒業して乗艦したら、こんな旧式砲を積んでいる艦はない。なぜ力学や、機械学の原理をもっとやらないのだろうと高木は思った。

 有馬修一という鹿児島一中きっての秀才が、海軍兵学校で高木と机を並べたが、弥山登山では、高木は有馬を後ろから押す役だった。

 遠洋航海の門出に、佐世保と有田間二十五キロの駆け足競争をやったが、それがもとで胸膜炎となり中尉で休職、二十六歳で早世した。これに似た実例は高木の同期生だけでも四、五名を数えたという。



22.高木惣吉海軍少将(2) 皇太子殿下は一瞬ハッとされて、「高木海軍少将ですか」と念を押された

2006年08月18日 | 高木惣吉海軍少将
「海軍少将・高木惣吉」(光人社)によると、昭和五十八年の早春、鎌倉の東慶時に皇太子殿下ご夫妻と浩宮様がお立ち寄りになった。

 ご案内の住職が境内の一角に並ぶ哲学者達の墓の傍らを通り過ぎた時、「ここに高木という海軍軍人の墓もございます」と何気なく申し上げた。

 皇太子殿下は一瞬ハッとされて、「高木海軍少将ですか」と念を押された。そのあと妃殿下、浩宮とささやかれ、高木少将の墓前に佇まれ黙礼された。終戦工作に奔走した高木少将のことは宮中でもご存知だったのである。

 高木少将が自分の墓を東慶時の西田幾多郎(哲学者)の墓の後ろの一画に選定したのは昭和二十五年だった。高木は生前の西田幾多郎と会っており、生涯、西田哲学を精神的拠りどころとして生きた。

 西田幾多郎は昭和二十年六月七日、死去している。西田博士は病気で自分の死が近づいた時、母も死去しており、一人残される愛娘を病床の枕元に呼び「死はお月様より美しいんだよ」と伝えた。

 敗戦間近になり、日本が敵国に占領されたら1人残していく愛娘はどうなるか、心残りの思案の末、そう伝えたと言われている。

 高木は昭和十六年の開戦直前に鎌倉の西田博士を訪ね、会っている。その時政府・軍部の動きを西田博士に説明し「ここまで来ればもはや開戦のほかありますまい」と言った。

 すると西田博士は「君達は国の運命をどうするつもりか!いままででさえ国民をどんな目にあわせたと思う。日本の!日本のこの文化の程度で、戦いができると考えているのか!」と睨みすえられた。

 高木は息が詰まったと言う。高木は「この時ばかりふだん寛大であった先生だけに、しみじみとこたえた」と述べている。

 海軍良識派の旗手と言われた高木惣吉海軍少将の業績は、民間ブレーンを登用したこと、東條内閣退陣の工作、そして終戦工作である。

 もともと、高木は若かりし頃、海外で働くことを考えていた。ハワイかカリフォルニアに行き、向こうで大農場を経営しようと思っていた。

 高等小学校を卒業し、ある出版社の通信教育で優秀な成績を取ったら米国留学できると言うので、頑張って通信教育をやり優秀な成績をとり、合格。上京して出版社に出向いたが、それは誇大広告で米国留学は嘘だった。

 それで夢がしぼんで、郷里で中学の数学教師にでもなろうかと思っていた。だが、縁があって東京天文台長の森村寿博士の書生になった。

 ちょうどその頃、この森村博士の母堂が、学資を要せず、立派な教育を授かり、実力次第で立身出世できる軍人への道を高木に奨めた。

 高木は実は海軍に憧れた訳ではなかったが、海軍兵学校は、高木のように中学を卒業していなくても受験できたのである。こうして高木は海軍兵学校を受験、合格して入校した。



21.高木惣吉海軍少将(1) 日給をもらいながら勉学に励んだ

2006年08月11日 | 高木惣吉海軍少将
昭和19年8月29日、海軍省の高木惣吉教育局長は井上成美海軍次官に突然呼び出された。

 井上次官は高木に終戦の研究を命じ、「このことは大臣(米内光政)と私のほかは誰も知らない。君は病気療養という名目で海軍省出仕になってもらう」と言い渡された。

 高木は家が貧乏で中学校にもいけず、高等小学校を卒業するとすぐ鉄道の建設現場事務雇員として日給をもらいながら勉学に励んだ。

 苦学の後、ついに海軍兵学校に合格。海軍大学校を首席で卒業し、海軍省教育局長まで登りつめ、海軍良識派の旗手と言われた高木惣吉海軍少将。

  その高木惣吉海軍少将は、井上次官の命により、その教育局長の職をきっぱりと辞職、終戦工作に命をかけて奔走した。

  優れた分析力の持ち主であり、これまでに多数の政治家、天皇側近、民間有識者、学者と会談を行ってきた政治将校であった高木は井上次官の要請を受けて、病魔と闘いながら終戦工作に取り組んだ。

 高木自身、若い時分、自分のことを「へそ曲がりな性格」と言っており、海軍に入ったのに航海配置が大嫌いで、それでありながら、ひょんなことから、兵科を希望もしない大嫌いな航海科にまわされ、高等科学生を終えると、航海長に配置され身を削る思いをした。反骨精神も旺盛で上司ともしばしば衝突した。

 戦後の高木は、海上自衛隊幹部学校で講義を行い、後輩を指導すると同時に、日本海軍滅亡に至る内省的な執筆活動に取り掛かった。

 昭和54年85歳で死去するまで、生涯日本海軍を美化することなく、滅亡に至る真実の分析を行い、批判を受けながらも執筆・発表を続け、自己の信念を通した生き方をした。

    
    <高木惣吉海軍少将プロフィル>

 1893(明治26年)8月、熊本県人吉生まれ。1907(明治40年)鉄道員肥薩線建設事務所雇員。

 1912(明治45年)海軍兵学校入校。1915(大正4年海軍兵学校卒業(43期)。1921(大正10年)海軍大尉、海軍大学校航海学生(高等科)。

 1925(大正14年)海軍大学校甲種学生(25期)。1927(昭和2年)海軍大学校卒業(首席・恩賜長剣拝受)、フランス駐在。
 
 1930(昭和5年)海軍大臣秘書官。1933年(昭和8年)海軍中佐、海軍大学校教官。1937(昭和12年)臨時調査課長、海軍大佐。

 1939(昭和14年)海軍大学校教官。調査課長。1942(昭和17年)舞鶴鎮守府参謀長。1943(昭和18年)海軍少将、海軍大学校研究部員。

 1944(昭和19年)海軍省教育局長。8月29日井上成美次官より終戦工作の密命を受ける、軍令部出仕兼海大研究部員。

 1945(昭和20年)9月15日予備役。9月19日東久邇内閣書記官長。1946(昭和21年)公職追放令。

 1948年(昭和23年)「太平洋海戦史」脱稿。1949(昭和24年)「太平洋開戦史」発刊。1950(昭和25年)「山元五十六と米内光政」発刊。1955(昭和30年)海上自衛隊幹部学校特別講義。

 1958(昭和33年)毎月海上幕僚長等と会談(虎の門会)。1969(昭和44年)「私観太平洋戦争」発刊。1971年(昭和46年)「自伝的日本海軍始末記」発刊。

 1979年(昭和54年)「自伝的日本海軍始末記続篇」原稿完成(3月18日)。7月27日死去(85歳)。