陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

32.遠藤三郎陸軍中将(2) 「特徴は権力に対する反抗心の強いところ」ということだった

2006年10月27日 | 遠藤三郎陸軍中将
「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、大正6年陸軍砲工学校を卒業する際、遠藤少尉は校長始め学校職員から員外学生として東京帝国大学に進むよう勧告された。

 当時陸軍の制度として、砲工学校高等科を成績良く卒業した若干名は無試験で大学の工科に入校する資格を与えられ、大学の課程終了のまま工学士として技術方面の職に就くようになっていた。

 校長ならびに職員が遠藤少尉にその道を進むよう勧めた理由は次のようなものであった。

 「陸軍大学校に進む道もあろうが、帝大員外学生の道が開けたのだ。この道に進む人数は少数故、競争なしに中将までの進級は約束づけられている。その既得権益を放棄して未知の世界に行くのは賢明ではなかろう」

 遠藤少尉は当時骨相学者として有名であった石榴子の門を叩いた。身分を隠し性格を見てもらったところ「特徴は権力に対する反抗心の強いところ」ということだった。
 
 結局あまり参考にならず、遠藤少佐は自分の好きな道に行く事に決め、陸軍大学校の道を選んだ。

 大正8年遠藤中尉は陸軍大学校に入学した。第三学年の時満州旅行の帰途、朝鮮通過の列車内で、学友の一人が酩酊し、命令伝達に来た学校副官に侮辱的言辞を弄した。

 遠藤中尉はその学友を後ろから抱きかかえて止めようとしたのを、副官は遠藤中尉が酩酊悪口した如く勘違いして報告、これが卒業直前の教官会議で問題になった。

 この問題は事前に学生間にも漏れ、遠藤中尉に事情を釈明すべしと忠言するものもいたが、酩酊した当人が進んで自主するものと思い、敢えて釈明しなかった。だが当人は遂に出なかった。

 彼は参謀総長の女婿であった程の優秀な成績の持ち主であったから酩酊事件で傷つくのがいやだったのかも知れないが、遠藤中尉としては迷惑な事だった。

 幸い教官会議に列席していた高橋捨治郎教官(遠藤中尉と同連隊出身で遠藤中尉が見習い士官の時の中隊長)が、遠藤中尉の性格と、酒を飲まないのを知っており弁護して、遠藤中尉は無事卒業(恩賜)できた。

 皮肉にも参謀総長の女婿の彼は、卒業後間もなく身持ち悪く大尉で停職、満州事変で遠藤少佐が関東軍参謀の時、就職を求めて訪ねてきた。遠藤少佐は彼を満軍参謀に世話した。

 「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、遠藤の参謀本部作戦課の勤務は長い。最初は大正12年12月から大正15年3月まで。その後フランス国駐在、海軍軍縮会議陸軍随員補佐を経て昭和4年12月から昭和7年8月まで遠藤は参謀本部作戦課に勤務する。

 昭和6年9月18日午後10時過ぎ、奉天北方約7.5kmの柳条湖の南満州鉄道線路上で爆発が起き、線路が破壊される事件があった。

 関東軍はこれを中国側の張学良ら東北軍による破壊工作と断定し、直ちに中国東北地方の占領行動に移った。これが満州事変の発端となった柳条湖事件である。

 「将軍の遺言・遠藤三郎日記」(毎日新聞社)によると関東軍と中央陸軍首脳との間に思想上の食い違いがあり、連絡のため中央部から参謀本部第二部長・橋本虎之助少将、遠藤少佐、今井武夫大尉、西原一策少佐が関東軍に派遣された。

 「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、昭和6年9月28日午後4時頃一行は奉天に到着した。駅には軍の下級副有留大尉一人だけが出迎えたので意外な事であった。一行は軍幕僚の宿舎藩陽館に案内され、誰もいない殺風景な応接間に通された。

31.遠藤三郎陸軍中将(1) 国賊・赤の将軍と人はいう

2006年10月20日 | 遠藤三郎陸軍中将
遠藤将軍の著書「日中十五年戦争と私」(日中書林)の序文で片山哲元総理は次のように述べている。

 「私は君が戦後俄に発心して平和主義者になったのかと疑った。ところが、後に憲法擁護運動の会として、中国への友好親善の訪問を供にした時、旅中の話し合いや、毛沢東首席、周恩来首相、その他要人との会見に当たっての発言を聞くにおよび、君がなかなかの平和主義者であると判明した。さらに雑誌「日中」連載の記述を読むに到って、君は軍人時代からの本式の平和主義者であったとわかった。あれでよく軍人が勤まったと思ったくらいである」と。

 遠藤将軍は頭脳明晰、幼年学校、士官学校、砲工学校、陸軍大学校を全て恩賜賞で卒業、さらにフランスのメッツ防空学校、フランス陸軍大学校も卒業している作戦のエキスパートだった。

 そのエキスパートを途中から軍上層部は作戦畑からはずした。昭和12年10月29日、野戦重砲兵第五連隊長の遠藤大佐は、参謀本部課長に転任の内報を受けた。

 11月13日には前田治旅団長から、そのポストは作戦課長であることが伝えられた。

 11月28日参謀本部に出向いた遠藤大佐を待っていたポストは第二課(作戦)ではなく第一課(教育)の課長だった。

 遠藤大佐は参謀本部作戦課に長く勤務し、作戦以外の勤務はなく、遠藤大佐自身作戦課長としての勤務を決して疑わなかった。

 だが「それはとんでもない自惚れであり誤算でありました」と遠藤は後に記している。

 遠藤将軍は明治37年8月1日、11歳の時から、昭和59年9月9日、91歳の時まで、厖大な量の「遠藤三郎日記」を書き残している。

 それは書庫一杯になるほどの量であった。最後の日記から約一ヵ月後の昭和59年10月11日、心不全で遠藤将軍は波乱の生涯を閉じた。

 遠藤将軍の著書「日中十五年戦争と私」(日中書林)は厖大な日記の中の遠藤将軍が大正12年、参謀本部作戦課勤務から航空兵器総局長官までの終戦、及び戦後の活動に到るまでを書き上げたもの。

 「日中十五年戦争と私」は日記そのものではなく、遠藤将軍の回想録であり、そのサブタイトルは「国賊・赤の将軍と人はいう」となっている。それは戦後言われたものではなく、戦時中に遠藤中将投げかけられた言葉である。

 軍人として第二次世界大戦を戦った遠藤将軍は、戦後、埼玉県入間川町に入植した。

 農業に従事しながら片山哲元総理らと平和憲法擁護研究会を組織。旧軍人団を組織して中国を訪問、毛沢東首席らと会見した。

 遠藤将軍は五回に渡る訪中を繰り返し、日中の架け橋となり、昭和59年死去するまで戦争放棄、平和憲法を訴え続けた。

<遠藤三郎陸軍中将プロフィル>

 明治26年1月2日遠藤金吾、みのの三男として山形県置賜郡に生まれる。

 大正元年陸軍幼年学校卒(恩賜賞受領)。3年陸軍士官学校(26期)卒(恩賜賞受領)。任砲兵少尉。

 大正6年陸軍砲工学校高等科卒(恩賜賞受領)。7年陸軍中尉。重砲兵射撃学校教官。

 大正11年11月陸軍大学校(34期)卒(恩賜賞受領)。12年砲兵大尉。参謀本部。

 大正15年フランス駐在。昭和2年メッツ防空学校。3年砲兵少佐。4年フランス国陸軍大学校卒、参謀本部部員(作戦課)。

 昭和7年関東軍参謀(作戦)。8年砲兵中佐。9年陸軍大学校兵学教官。11年野戦重砲兵第五連隊長。

 昭和12年8月砲兵大佐。12月参謀本部第一課長。

 昭和14年関東軍参謀副長。14年陸軍少将。15年第三飛行団長。

 昭和17年陸軍航空士官学校幹事、陸軍中将、陸軍航空士官学校校長。

 昭和18年陸軍航空本部総務部長、航空兵器総局長官。20年12月予備役。

 昭和22年2月巣鴨入所、23年1月出所、埼玉県入間川町に入植、農業に従事。

 昭和28年片山哲元総理らと平和憲法擁護研究会を組織。30年訪中。31年元軍人団を組織して訪中、毛沢東主席と会見。

 昭和34年参議院議員選挙出馬、落選。35年四度目の訪中。36年日中友好元軍人の会結成。47年五度目の訪中。59年10月11日死去。

30.高木惣吉海軍少将(10) やっておるというが、今まではできていないではないか

2006年10月13日 | 高木惣吉海軍少将
六月二十五日、伏見宮は岡田大将の度重なる要請についに腰を上げ、嶋田海相を解任し、米内大将を後任とすることを天皇に奏上した。

伏見宮は嶋田海相に辞任を勧告した。ところが嶋田海相は自分が辞任すれば、東條も辞め、内閣総辞職となるから、仰せには従えないと拒否した。こうして高木少将らの討幕運動は結実した。

六月二十七日、総理官邸で嶋田海相の辞職を主張する岡田海軍大将と東條首相のまさに一騎打ちが行われた。同時刻に高木少将は沢本海軍次官に呼びつけられ、岡田大将邸への出入り、海相更迭運動への警告を受けた。

「私観・太平洋戦争」(文芸春秋)によると、昭和十九年七月十日、南、荒木両大将が、東條総理に面接した。

東條総理は初めから喧嘩腰で「政治問題で来られたのか?」と詰問したという。南は鈴木系だが、荒木は皇道派で東條にとっては不愉快であったと想像される。

 「作戦に関して意見を述べに来た」と前置きして、大将会でのサイパン奪回の決議を述べ、陸・海軍の策応協同の必要を強調した。

 すると「そんなことは十分承知してやっている」と素気ない東條総理の言葉に「やっておるというが、今まではできていないではないか。サイパン戦まではできとらぬではないか」と押し返し強調した。

 だが東條は「毎日毎日同じ事を言ってくる者にいちいち応接の余裕はない。その位のことは百も承知でチャンとやっとる」と剣もほろろの挨拶だった。

 さらに、決議文を突き返され南、荒木両将軍は大いに憤慨して帰った。だが、昭和十九年七月十八日、東條内閣は総辞職した。

 「自伝的日本海軍始末記・続編」(光人社)によると、昭和二十年五月三十一日、高木少将は親任の連合艦隊司令長官、小沢治三郎海軍中将に会って戦争指導会議の経緯を語った。

 そのあと海軍省の焼け残りの裏の庁舎に海相を訪ねて、目黒の海大校舎に帰りかけると、まだ片付いていない海軍省旧館の焼け跡で、急に声をかけられ、目を上げると、山梨勝之進学習院長が立っておられた。

 「大変らしいが、どうだ元気かね、タカキ君!」

 山梨院長が次官時代に聞いた懐かしい声であった。

 「こうなりますと、健康の事なんかかまっておれなくなりました」と、多分にヤケクソ気味になっていた高木少将は、前置きの挨拶を忘れて答えた。

 山梨大将は少し頭を傾けながら、静かな声で

「いや君、中国の詩人は、じつにいいことを謳っている。野火焼いて尽きず、春風吹いてまた生ず。あせっちゃいかんね。手っ取り早くなんて考えない方がいいよ。春風吹いてまた生ず、良い句だね」(白楽天)と言った。

 高木は「逆上していた筆者の頭に氷嚢をあててくれた今は亡きこの大先輩の言葉をおもいだすと、われにもなく目頭が熱くなるのである」と記している。

 昭和二十年八月十五日正午、高木少将は軍令部で整列して玉音放送を聞いた。高木の直ぐ隣には、大西瀧治郎軍令部次長がいた。その大西次長の表情にはすでに、特攻隊員たちのあとを追う覚悟の程が現れていたという。

 高木少将は緒方竹虎の要請で東久邇宮内閣に入閣することになった。それに伴い、昭和二十年九月十五日、予備役となった。

  大正元年九月九日、海軍兵学校生徒に採用されて帝国海軍に身を投じてからまる三十三年、「桜と錨に別れる」こととなった。

  九月十九日、東久邇宮内閣の初代内閣副書記官長に入閣した。だが、十月五日内閣は総辞職した。この時点で高木少将は無官の太夫となった。高木は五十二歳であった。(終り)   

(高木惣吉海軍少将は今回で終りです。次回からは「遠藤三郎陸軍中将」が始ります)


29.高木惣吉海軍少将(9) 重男、お前これから行って東條を刺してこい

2006年10月06日 | 高木惣吉海軍少将
「海軍少将・高木惣吉」(光人社)によると、昭和十九年初頭、高木少将を盟主とし、東條内閣打倒運動に乗り出そうとした矢部貞治東大教授はがっかりした。

 高木少将の隠密行動が始ったのだ。高木少将は嶋田海軍大臣の辞任は伏見元帥宮による説得をわずらわす以外に方法がないと思った。

 伏見宮が軍令部総長が在任中、無類の忠勤を励んだ嶋田海相。その嶋田海相が耳を貸すとすれば伏見宮殿下しかない。そしてこの伏見宮殿下を説きえる人は岡田大将意外には見当たらない。

 高木少将のこの考え方は満点であった。だが、実際は高木の思惑通りに進まなかった。天皇を独占してしまった東條幕府のガードの高さと、岡田大将、伏見元帥宮の歯切れの悪い動きにあった。

 昭和十九年三月一日、高木少将は海軍省教育局長に就任する。その当日高木少将は湯河原に赴き近衛公、原田男爵と情報交換をした。

 近衛公は「今回の嶋田大臣更迭の失敗の根本はどこですか」と高木少将に問いをあびせた。高木少将は「伏見大宮さまですよ。なにしろそこまで工作する余裕がなかったから」と答えている。近衛公、原田男爵はやっぱり伏見さんかと長嘆息した。

 昭和十九年三月三十一日、古賀連合艦隊司令長官が飛行機事故で殉職、後任は豊田副武大将に決まった。

 「私観・太平洋戦争」(文芸春秋)によると、高木少将は四月八日に古賀連合艦隊司令長官の殉職を知った。

 高木少将は岡田大将の所へ駆けつけて悲報を伝えると、いつも物に動じない大将も「それは大変だ!年寄りもこうしてはおれん。一体どうすれば良いと思うか?」と凄い剣幕でたたみかけられた。

 そのあと、高木少将は海上ビルにあった浦賀船渠の社長室にまわり堀悌吉中将にも古賀長官の悲報を知らせた。

 「そらあもう駄目じゃないか!」というのが堀中将の最初の言葉で、眼鏡の奥にあふるるものを見て、高木少将の次の言葉が出なかった。

 三人兄弟のように親しかった山本、古賀の両将を一年足らずの間隔で戦死させた堀中将の胸は恐らく第三者の想像を越えたと思う、と高木少将は述べている。

 四月十五日、高木少将は横須賀鎮守府に豊田長官を訪れ、「お喜びを申し上げてよいかどうか迷っています」と露骨な挨拶をした。

 すると豊田長官は沈痛な表情で打ち明け話を高木少将にした。それは次のようなものであった。

 「嶋田大臣が、古賀が殉職したから GF(連合艦隊)に出てもらいたいと言うから、僕は固辞して南雲を名指しで推薦した。すると嶋田は、君がGFに最適任のことは伏見宮殿下もご同意のことだし、四時半には内奏の手続きがしてあるからと、否応を言わせないという態度で、四時十五分まで押し問答をしたが、結局みすみすハメ手にかけられたと思ったが、覚悟をして引き受けた」。

 そのあと豊田長官は「率直に告白すれば戦局挽回の成算も立たない、ヤハリ思い切った外交措置を打たないとイカンように考える」とも言ったという。

 「海軍少将・高木惣吉」(光人社)によると、昭和十九年六月二十四日、高木少将は岡田大将と激しい応酬をした。

 高木少将は岡田大将ら重臣達の動きのにぶさに不満の表明という生ぬるいものではなかった。

 東條、嶋田のコンビがこれ以上政治に執着を続ける時は、海軍省の課長級が七月中旬を期してテロ行為を決行する雰囲気にあったので、高木少将は岡田大将に事態はそこまで進んでいると告げたのだ。

 岡田大将はそれはとんでもないことだと絶叫した。岡田大将は緊張に打ち震え、額に汗し、ややあって「真にやむをえず、何かやる時は、必ず、私に言ってからやってくれ」と高木に言った。

 高木の二十歳年下の従兄弟の川越重男の証言がある。高木少将と岡田大将の激しい応酬の前、昭和十九年五月のある夜、高木少将の自宅に来客があった。

 川越氏がお茶を持って応接室に入ったところ、主客ともかなり興奮していて、高木少将は、やにわにお茶をすすめる川越氏を見据え「重男、お前これから行って東條を刺してこい」と客前をはばからず怒鳴りつけたという。

 高木少将のそのような興奮は後にも先にもなかった。だが結局テロ計画は実施されなかった。