陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

244.山口多聞海軍中将(4)俺は違うぞ。山本少将を頭として航空艦隊をつくるぞ

2010年11月26日 | 山口多聞海軍中将
 加藤大将の軍令部長辞職が引き金になり、やがて神格的存在の東郷平八郎元帥と、親ドイツ派の伏見宮博恭王大将をかつぐ加藤大将、末次中将を中心とする艦隊派と、岡田啓介大将、山梨勝之進中将、堀悌吉少将、山本五十六少将などの条約派の溝が深まり、海軍は分裂状態になった。

 その後、加藤大将、末次中将、海軍大臣・大角岑生大将などの画策によって、伏見宮が昭和七年二月に軍令部長(昭和八年十月から軍令部総長と改称)になった。

 伏見宮は皇族の身分によって軍令部の権限拡大をはかり、同時に海相の将官人事に干渉し、条約派の、山梨大将、堀中将などを次々に予備役に追放させ、条約派の勢力を弱めた。

 こうして日本は昭和十一年末にはワシントン条約、ロンドン条約を無効にして海軍軍備無制限時代に突入した。これにより、親ドイツ・イタリア、反アメリカ・イギリス路線の色を濃くしていった。

 親ドイツの伏見宮を軍令部総長に祭り上げ、戦争への歯止めをなくしたことは、陸軍だけでなく、海軍にも戦争責任は免れない。

 加藤大将、末次中将ら艦隊派は条約派の勢力を弱めるために政治的策動を行ったが、山口多聞大佐(昭和八年進級)は、考え方は艦隊派だが、これらの政治的策動には関与しなかった。

 昭和五年十一月、山口多聞中佐は、未来の連合艦隊司令長官の第一歩と言われている連合艦隊先任参謀兼第一艦隊先任参謀として、旗艦「長門」に着任した。

 機関参謀の森田貫一少佐(機関学校二三期・後に中将)は、少尉のころから山口多聞とウマが会って親しくしていた。

 森田が見ていると、山口は、どこへ行っても、目立つようなことはしなかった。アメリカの話をしても、ボストンやメキシコで遊んだときはこうだったとか、借金して苦労したとかいうようなことばかりで、アメリカをどう思っているのかは、さっぱり話さない。

 馬鹿ばっかり言っていて、思想的なことや宗教的な話もしないし、読書に熱中している姿も見たこともない。そうかといって、体育や武道に励むわけでもなかった。

 家庭のことも口にしたことがなく、淋しいぐらいの人物と思えた。ところが、ある日突然、森田少佐は、山口先任参謀の奥さん、敏子が亡くなったと聞かされて驚いた。

 敏子は昭和七年九月二十日、三男を出産した直後に急死したのだ(後に山口は山本五十六の紹介で孝子と再婚した)。

 告別式に行って山口先任参謀の様子を見ると、いつも元気いっぱいの丸々した大きな体が小さくしおれていた。山口は子供の話もしたことがなかったが、三、四人の幼い息子や娘もいたようだった。

 昭和七年十一月十五日、山口多聞中佐は海軍大学校戦略教官に発令された。その四日後の十九日には陸軍大学校兵学教官にも補された。

 「山口多聞」(星亮一・PHP文庫)によると、同時期に空母「加賀」の副長になった、兵学校同期の大西瀧治郎中佐が、海軍大学校教官になった山口中佐を「めでたい」と訪ねてきた。

 久しぶりに盛り上がった酒席になった。そのとき、大西中佐は山口中佐に次の様に言った。

 「おい、山口、お前はどう思う。お偉方は大艦巨砲主義を唱え、戦艦待望論をぶちまくっているが、俺は違うぞ。山本少将を頭として航空艦隊をつくるぞ。お前も山本さんの子分だろう。海大では航空をぶちまくれ」。

 山口中佐も、そのことには異論はなかった。山本五十六少将は、この時、海軍航空本部の技術部長だった。当時、あくまで航空機は補助にすぎないというのが一般論だった。

 だが、「航空機に、いずれ魚雷や爆弾を積み、敵艦隊を空爆する」というのが山本少将と大西中佐の意見だった。

 山本少将は大金を払って世界の航空機をかたっぱしから買い求め、これをばらして短所、長所を調べさせて、「早く国産品を作れ」と徹底的に工業会の尻を叩いた。

 昭和八年十一月十五日、山口多聞は海軍大佐に昇進した。

 昭和九年(四十二歳)春、山口大佐は四十二歳で、山本五十六少将の仲介で宮城県盲唖学校長・四竃仁邇の三女、孝子と再婚した。孝子は東京女子大学英文科を首席で卒業した才媛で二十八歳だった。

 山本少将は、会うたびに山口大佐に「お前は俺の跡を継げ」と言っていた。山口大佐はこんどこそ航空と思っていたが、ある日山本少将から呼び出されて「またアメリカだよ」と言われた。

243.山口多聞海軍中将(3)勝手に兵力量を定めたのは統帥大権の干犯ではないか

2010年11月19日 | 山口多聞海軍中将
 当時海軍大学校の校舎は東京築地にあったが、この校舎は大正十二年九月一日の関東大震災で焼失していたので、その焼け跡にバラック建ての仮校舎ができていた。山口少佐たち甲種学生三十五人は、そこで授業を受けていた。

 山口少佐ら甲種学生は、海軍専門のフランス語を、この機会にぜひ学びたいと考え、海大のフランス語の増田俊雄教師にその旨を申し入れた。

 増田教師は早速その望みに応えて、東京京橋の丸善で、フランスの海軍協会が宣伝用として発行した冊子を入手し、これを教材とした。

 やがてこの講義も終わり、増田教師が教室を出ようとしたところ、山口少佐がこっそり増田教師にちかづいて、「この本は、我々には幼稚すぎて面白くなかったので、今後は使わないで欲しい」と申し入れた。

 増田教師は、海大の学生は語学を専門とする語学生ではないので、あまり難しい教材は、かえって適当ではないと思っていた。だが、山口少佐には不満だった。

 それでも増田教師は、山口少佐の申し入れを了承して、それ以後、この教材を決して使わなかったという。

 「勇断提督・山口多聞」(生出寿・徳間書店)によると、昭和三年二月、山口少佐が軍令部参謀兼艦政本部技術会議員になったときは、日本帝国海軍が艦隊派と条約派に分裂する原因となった、問題のロンドン軍縮会議の直前だった。山口少佐は、その一般軍備計画の担当だった。

 昭和三年十二月、野村吉三郎中将(海兵二六)に代わって末次信正中将(海兵二七・海大七恩賜)が軍令部次長に就任した。また、昭和四年一月には鈴木貫太郎大将(海兵一四・海大一・首相)に代わって加藤寛治大将(海兵一八首席)が軍令部長に就任すると、軍令部は対英米強硬の艦隊派の本山になった。

 昭和三年十二月に山口少佐は海軍中佐に進級した。山口中佐は加藤軍令部長、末次次長の指導を受けて、巡洋艦その他の「艦船補充計画案」の作成に当たった。

 加藤軍令部長は主力艦保有量の対米六割はもはや止むを得ないが、補助艦艇については、今度こそ絶対に対米七割を確保すべしと力説していた。それでなければ対米戦争に勝てないという考え方である。

 ところが、昭和四年七月までの岡田啓介大将(海兵一五・海大二・海軍大臣・首相)と、その後の海相・財部彪大将(海兵一五)は、国家財政を優先し、七割に執着しなくてもよいとしていた。基本的に対米不戦の考え方だった。

 このような時、イギリス政府から、「英、米、仏、伊、日の五カ国で、明年一月ロンドンで、海軍軍縮会議を開催したい」という提案が届いた。

 日本政府は、昭和四年末、海軍大臣・財部大将と前首相・若槻礼次郎らの日本全権団をアメリカ経由でロンドンに送った。

 海軍側随員の一人に加わっていた山口中佐は、それに先立ち、約一ヵ月半前にアメリカに渡った。ワシントンの中米日本大使館付武官・坂野常善大佐(海兵三三・中将)ほかと協同して、米政府の日本に対する意向をさぐろうというのだった。

 当時同地に駐在していた佐薙毅(さなぎ・さだむ)大尉(海兵五〇・海大三二・戦後航空幕僚長)は山口中佐と一緒に情報収集に飛び回った。

 佐薙大尉は山口中佐が軍令部案を貫徹させようとして積極的に活動するのに感心した。また、山口中佐が国粋主義、アジア主義の思想で米英に対抗しようとしているのを感じ取ったという。

 ロンドン海軍軍縮会議は、昭和五年四月二十二日に、日・英・米三国間の補助艦艇協定の調印が行われて終了した。だが、加藤大将、末次中将ら軍令部首脳をはじめとする山口中佐らの要求は、今回もそのままは通らなかった。

 全体では対米六・九七だからまずまずと言えそうだが、加藤大将、末次中将らは二十サンチ砲巡洋艦が対米六割で、潜水艦保有量が要求よりも二万五千八百トンも少ないので、承服できなかった。

 彼らはやがて「軍令部の主張を退けて、政府が勝手に兵力量を定めたのは統帥大権の干犯ではないか」という政友会の犬養毅、鳩山一郎らの煽動にのり、浜口雄幸内閣打倒運動に加担する行動をとり始めた。

 だが、この主張が通るとするならば、軍令部が海軍軍事予算の権力を握ることになり、完全な軍国主義国家となる。これは間違いで、政府が閣議決定し、議会の承認を得て、天皇の裁可を受けるべきであるし、軍令部はそれに従い軍務を行うのが正当な行為である。

 だが、おさまらない加藤大将は六月十日、統帥権問題で政府を弾劾する上奏文を奏上し、直接天皇に辞表を提出した。これは天皇への抗議でもあった。

 天皇は翌六月十一日、穏健な谷口尚真中将(海兵一九・海大三)を軍令部長に親補した。

242.山口多聞海軍中将(2) 七割の代表は山口君、パリティの代表は草鹿君

2010年11月12日 | 山口多聞海軍中将
 明治四十五年七月十七日、山口多聞(海大二四恩賜・中将)は海軍兵学校(四〇期)を卒業した。卒業時の席次は百四十四名中の二番だった。首席は岡新(海大二二首席・中将)、三番が浜田邦雄(爆発事故で死去・大尉)、四番が多田武雄(中将・海軍次官)で、以上の四名が恩賜の短剣を拝受した。

 ちなみに福留繁(海大二四・中将)は八番、宇垣纏(海大二二・中将)は九番、久重一郎(少将)は十五番、大西瀧治郎(中将)は二十番、寺岡謹平(海大二四・中将)は六十五番だった。

 大正八年十二月一日、山口大尉は、海軍水雷学校高等科学生となり、大正九年十一月末に同校を卒業した。

 ついで、語学と国情研究という目的で米国駐在を仰せ付けられ、大正十年二月ニューヨークとフィラデルフィアの中間にあるプリンストン大学に入学した。このとき山口大尉は二十九歳だった。

 大正十二年三月、米国駐在を終わって帰国した山口大尉は、四月に連合艦隊の旗艦長門の水雷科分隊長に任命された。

 水雷分隊士の寺崎隆治少尉(海兵五〇・大佐・「最後の連合艦隊司令長官」著者)は、山口大尉が海軍兵学校を二番で卒業し、米国駐在をしたエリートなので、付き合いにくい人物だろうと思っていた。

 だが、実際には気さくで、話がわかるし、兵器の整備や部下の教育訓練を分隊員たちと一緒になって熱心にやるので、敬服した。

 大正十三年十二月一日、山口少佐は海軍大学校甲種学生になった。山口少佐ら第二十四期甲種学生の学生数は二十名だった。

 学生長は海兵三十九期の原忠一少佐(後の中将)、山口少佐と同期の海兵四十期は福留繁少佐(後の中将)、寺岡謹平少佐(後の中将)、海兵四十一期は草鹿龍之介大尉(後の中将)、橋本信太郎大尉(後の中将)、海兵四十二期の小柳富次大尉(後の中将)らがいた。

 草鹿龍之介は戦後、昭和四十八年に「一海軍士官の半生記」(光和堂)という本を出版している。この本によると、海軍大学校の甲種学生時代に、教官の嶋田繁太郎大佐(海兵三二・海大一三・大将・海軍大臣・軍令部総長)が「次の軍縮会議には、日本は如何なる案を持って臨む可きか」という作業課題を課した。

 これは、「英米に対して如何なる比率を主張すべきか」というものだった。草鹿大尉は次の様な意見を述べた。

 「外交折衝により比率を決定するならば、当然パリティ(均等)でなければならぬ。それは何よりも、決戦場裡に全力を集中するということは、戦略の原則である。アメリカのマハンの『海軍戦略』にも結論として『兵力の集中、意思の集中』と書いてあるではないか。いやしくも海軍から出す原案は、当然パリティである」

 ところが、既にアメリカ駐在を終えたからか、山口多聞少佐は七割論を出した。嶋田教官は「諸君の答案を見たが、大別して七割論とパリティになる。教官の意見を出すのは暫く待つとして、双方から一人代表者を出して、この教室において討議することにする。七割の代表は山口君、パリティの代表は草鹿君」と言った。

 そこで二人は議論をした。草鹿大尉は「どうも我田引水かも知れぬが、私の方が理路整然としていたと思う」と述べている。だが、いつ決着するか議論は果てなかった。

 とうとう嶋田教官は論争の中止を命じて、自分の原案を示すと言った。その原案は何と「八割」であった。草鹿大尉は「これはちと教官は狡い」と思った。

 卒業前になると大規模な兵棋演習と図演が行われる。両者とも山口少佐が青軍指揮官で、草鹿大尉が赤軍指揮官だった。勝敗は両方とも草鹿大尉のほうが有利であったという。

 「父・山口多聞」(山口宗敏・光人社)によると、著者の山口宗敏は山口多聞の三男だが、「父が海大に通っていた頃」の話を記している。

 山口多聞少佐が家を出て市ヶ谷辺りに差し掛かると、早足でスタスタ歩いていく一人の東京帝国大学の学生がいた。

 彼の歩き方はごく普通で、とくに急いでいるとか、早足で歩いているとか、そういう風には見えなかったのだが、とにかく普通の人よりずば抜けて早かった。

 山口少佐も決して遅いほうではなかった、並に歩いていると、いつのまにか彼に追い抜かれてしまう。ここで山口少佐の負けん気がムラムラと台頭してきた。なにくそと、気を入れ直して一気呵成に東大生を追い抜き、追い抜きざまに相手をジロリとにらんでやった。

 ところが、その東大生も負けん気が相当なものだった。足音もたてずに、す、すうっ、と足早に山口少佐を抜き返して行った。お互いに、こうして抜きつ抜かれつする事が、それから何回もあった。

 このことは、どちらにとっても後々印象に残った。この東大生は、実は山口少佐の姉の嫁ぎ先である三好家とじっこんの間柄で、毎年夏になると軽井沢で三好家とこの東大生の家族は親しくしていた。この東大生はのちに山一證券の社長となった小池厚之介だった。

 山口少佐は、歩くことでも、食べることでも、何でもとにかく人に負けることが大嫌いだった。

241.山口多聞海軍中将(1)多聞は平々凡々の性格を、どんな環境でもすこしも変えなかった

2010年11月05日 | 山口多聞海軍中将
 「炎の提督・山口多聞」(岡本好古・徳間文庫)によると、山口多聞(たもん)は明治二十五年八月十七日、東京都小石川区で生まれた。「多聞」という名の命名については、次の様に言われている。

 大日本帝国の当時では、史上の英雄はすべて忠臣であることが必須条件だった。その首位が楠木正成である。

 全滅を承知で上陸してくる逆賊、足利尊氏の桁違いの軍勢を、楠木正成は全くの少数で受けて立ち、刀折れ矢尽きてもなお敵を屠り続け、遂に、十数人の残存の配下ともども、弟、正孝と刺し違えて果てた。

 このすさまじい最後を遂げた忠臣、大楠公、正成の幼名は多聞丸だった。大楠公の如くあれ、という願いをこめて父、山口宗義(むねよし)は、生まれた男児を多聞と名づけた。

 この命名は後年正鵠を射ることになった。山口多聞は、まさしく、二十世紀の湊川の決戦(ミッドウェー海戦)で、群がり寄せる足利勢(米軍機)を迎え撃つ正成をつとめた。

 多聞は、学業成績は優秀で、誰からも好かれた。多聞の九歳上の長兄、堅吉は、のちに三菱銀行の重役になった人物だが、山口多聞が戦死した後、人から聞かれ、次の様に語った。

 「多聞は平々凡々の性格を、どんな環境でもすこしも変えなかったことが、いま思い当たる点ではないかと思っている」

 <山口多聞(やまぐち・たもん)海軍中将プロフィル>

 明治二十五年八月十七日東京市小石川区表町で生まれ、牛込砂土原町で育つ。旧松江藩士・山口宗義(むねよし・日本銀行幹事)の三男。母・貞(てい)は肥前小城(おぎ)藩の士族の娘。
 明治三十二年(七歳)四月東京九段の富士見小学校入校。
 明治三十八年(十三歳)四月私立開成中学校入学。
 明治四十二年(十七歳)九月十日開成中学五年から海軍兵学校入校(第四十期生)。入校時の成績は百五十名中二十一番。
 明治四十五年(二十歳)七月十七日海軍兵学校(第四十期生)卒業。卒業時の成績は百四十四名中の二番で恩賜の短剣を拝受した。海軍少尉候補生となり、練習艦「宗谷」(艦長・堀内三郎大佐)でオーストラリア方面へ遠洋航海。
 大正二年(二十一歳)五月一日標的艦「摂津」乗組。十二月一日海軍少尉。
 大正三年(二十二歳)五月二十七日巡洋艦「筑摩」乗組。
 大正四年(二十三歳)二月一日戦艦「安芸」乗組。十二月一日海軍中尉。砲術学校普通科学生。
 大正五年(二十四歳)六月一日海軍水雷学校普通科学生。十二月一日第三潜水艇隊付。
 大正七年(二十六歳)四月第二特務艦隊第二十四駆逐隊の「樫」航海長。十二月一日海軍大尉。海軍水雷学校高等科学生。
 大正八年(二十七歳)一月十七日臨時特別潜水艇隊付、ヨーロッパから日本へ潜水艦を回航。二月一日工作艦「関東」乗組。七月二十四日横須賀防備隊付。十月八日呉防備隊付。十二月一日海軍水雷学校高等科入校。
 大正九年(二十八歳)十一月海軍水雷学校高等科卒業。十二月一日佐世保防備隊付。
 大正十年(二十九歳)二月二十五日米国駐在、プリンストン大学入学。
 大正十二年(三十一歳)三月帰国。河村敏子と結婚。敏子は東京控訴院検事長・河村善益の五女。四月連合艦隊旗艦「長門」水雷科分隊長。十二月一日潜水学校教官。
 大正十三年(三十二歳)十二月一日海軍少佐、海軍大学校(甲種学生・二四期)入学。
 大正十五年(三十四歳)十一月海軍大学校卒(二四期・恩賜)。十二月一日第一潜水隊参謀。
 昭和三年(三十六歳)二月二十日軍令部参謀兼艦政本部技術会議員。十二月十日海軍中佐。
 昭和四年(三十七歳)九月十七日米国出張。十一月十二日ロンドン会議全権委員随員。
 昭和五年(三十八歳)七月一日巡洋艦「由良」副長。十一月十五日連合艦隊先任参謀兼第一艦隊先任参謀。
 昭和七年(四十歳)九月二十日妻敏子死去。医師から腎臓病で出産は無理と宣告されたが、出産、その二日後に亡くなった。このとき生まれたのが三男の宗敏で、「父・山口多聞」の著者である。十一月十五日海軍大学校戦略教官。十一月十九日兼陸軍大学校兵学教官。
 昭和八年(四十一歳)十一月十五日海軍大佐。
 昭和九年(四十二歳)春、山本五十六少将の仲介で宮城県盲唖学校長・四竃仁邇の三女、孝子と再婚。孝子は東京女子大学英文科を首席で卒業した才媛で二十八歳だった。六月一日在米日本大使館付海軍武官。
 昭和十一年(四十四歳)十二月一日巡洋艦「五十鈴」艦長。
 昭和十二年(四十五歳)十二月一日戦艦「伊勢」艦長。
 昭和十三年(四十六歳)十一月十五日海軍少将。十二月十五日第五艦隊参謀長。
 昭和十四年(四十七歳)十一月十五日第一艦隊司令部付。
 昭和十五年四十八(歳)一月十五日第一連合航空隊司令官。十一月一日第二航空戦隊司令官(空母部隊)。
 昭和十六年(四十九歳)十二月八日ハワイ真珠湾攻撃に参加。
 昭和十七年二月十九日オーストラリア北部の都市ポート・ダーウィン空襲、インド洋作戦に参加。六月五日ミッドウェー作戦参加。六月六日午前六時六分空母「飛龍」自沈。山口多聞司令官と加来止男艦長は退艦せずに「飛龍」と運命を共にして戦死した。山口多聞は四十九歳十ヶ月だった。

 「勇断提督・山口多聞」(生出寿・徳間書店)によると、山口多聞の生家は代々松江藩(島根県)に仕えた二百石取りの中堅武家だった。山口家の祖先は、一六〇〇年の関が原の戦いで、討ち死にした加賀大聖寺の大名、山口宗永まで遡る。

 山口多聞の父・宗義(むねよし)は、明治維新政府が東京帝国大学の前身の「大学南校」を創立したとき、松江藩から選ばれて上京し、同校に入学、卒業した英才だった。

 同校卒業後は大蔵省に入り、ついで日本銀行につとめた。晩年は日本銀行の理事、監事にまで登りつめた。母、貞(てい)は佐賀小城藩の厳格な家風の武家に生まれ、子供たちの躾には厳しかったが、慈愛深い女性だった。

 父の次弟・平六は日本初の工学博士。末弟・鋭之助は京都帝国大学教授、学習院院長、宮中顧問官を歴任した。

 山口多聞はこのような当時の知識階級のエリートの家に生まれた。多聞は二人の兄、二人の姉、二人の弟、一人の妹の八人兄弟だった。だが、山口家は裕福だったので、子供たちは経済を気にすることなく、自分の思い通りに進学することができた。

 多聞は小学生のころから丸々肥っていて、父から毎日武道を教えられ強くなった。小学校の仲間は多聞に「まんじゅう」とあだ名をつけた。多聞は相撲フアンで、自分も仲間との少年相撲も強かった。