当時政友会に次ぐ大政党は、憲政本党だった。だが、この党は、党首・大隈重信の蹉跌(さてつ=つまずく、挫折)以来、不振の状態だった。方針の一貫性もなく、政府に対する態度も曖昧で、中には政府に近づいて党勢挽回を図る者もいた。
その他の政党では、三四倶楽部は、増税案など財政問題以外では、憲政本党と歩調を合わせていた。帝国党は純然たる政府与党だったが、少数だった。
当時衆議院の勢力分布は、政友会一五八、憲政本党七二、三四倶楽部三〇、帝国党一三、無所属二七だった。
貴族院は依然として、院内六派連合の形が続いており、外見上は政府に対して独立の立場を貫いていたが、その議員の多数は桂太郎首相と親交があり、その主義においても、政党内閣や政党主義には反対だった。
だから、桂首相としては、貴族院に頼る傾向が多かった。桂首相はできるだけ貴族院に接近して、その協力を求める態度を努めてとっていた。
明治三十四年十二月十日、第十六議会の開院式が挙行され、十二日には三十五年度予算案が衆議院に提出された。
この日、桂太郎首相は、施政方針演説を行ったが、これは桂が内閣総理大臣として議政壇上に立った最初だった。
桂首相は元々軍人である。演説はあまり上手ではなかった。壇上に立ったのは、初めてではなく、陸軍次官として、あるいは陸軍大臣として法律案の弁明のため度々登壇しているが、演説は得意ではなかった。
十二月十二日の、首相としての晴れの施政方針演説も、桂首相は上出来とは言えなかった。傍聴人などにとっても、期待に反したものだった。
だが、桂内閣の第一歩の大仕事であった、明治三十五年度予算も、大体において政府の希望通り、通過した。
これは、政友会内部に硬軟二つの派閥の対立があったことと、井上馨などの斡旋があったんこと、また、衆議院では憲政本党、貴族院では大多数が政府案に賛成したこともあり、結局政友会と妥協が成立したのだ。
当時桂内閣として、当面した内外の政治問題としては、予算案通過の時、政友会との妥協の条件である行政財政の整理の問題があった。
また、極東の形勢は日に日に重大となり、日英同盟の結果、日本海軍を拡張せざるを得ない事情があった。ロシアも満州経営の野望と、さらには、韓国の北方を占拠する情勢もうかがえた。
明治三十六年五月の第十八議会で、政府は海軍拡張案と地租継続案その他を提出した。だが委員会はこれを否決した。
桂首相は、妥協案を出した。地租案は撤回し、別に行政整理、事業繰延、公債募集によって財源を求め、海軍拡張を行うというものだった。
政友会は一部反対もあったが、結局この妥協案を認めたので、議会で決定された。憲政本党は、政府と政友会の妥協を知って、憤慨し、政府弾劾の上奏案を提出したが否決された。
桂内閣は、国内問題はかろうじて乗り切ったが、外交問題は安心できる情勢ではなかった。満州問題である。
日英同盟のおかげで、ロシアは満州還付条約に調印し、決着した観があったが、それは表面上のことだった。ロシアは遼東撤兵を約束して、その準備に取り掛かっていたのだが、それを中止していた。
それどころか、北韓への野心が増々露骨になり、当時満期失効となっていた森林伐採契約を提出して、明治三十六年四月、鴨緑江の下流である龍巖浦(りゅうがんぽ)を占領、軍事施設を建設し、旅順の総督府と連絡を取り、極東進出の様相を見せた。
桂首相は、小村壽太郎外相と相談し、「日本はロシアの満州における条約上の権利を認める代わりに、ロシアは韓国における日本の権利を認める」という根本方針で対露交渉に当たることに決した。
四月二十一日、桂首相と小村外相は、伊藤博文、山縣有朋の両元老と会合し、強力な内閣をつくり、挙国体制をもって当たらなければ、対露交渉は容易ではないことを訴えた。
その結果、伊藤博文が枢密院議長、山縣有朋と松方正義は枢密顧問官になることによって、さらに台湾総督・児玉源太郎中将に内相を兼務させる等の内閣改造で、体制は強化された。
だが、明治三十七年二月六日、対露交渉は決裂して、国交が断絶、日露戦争となった。国民の注意は一斉に戦争に向けられることになった。議会でも各党、各派はいずれも挙国一致を叫び始めた。
明治三十七年二月八日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対して、日本海軍は駆逐艦の奇襲攻撃を行なった。日露戦争の始まりである。
その他の政党では、三四倶楽部は、増税案など財政問題以外では、憲政本党と歩調を合わせていた。帝国党は純然たる政府与党だったが、少数だった。
当時衆議院の勢力分布は、政友会一五八、憲政本党七二、三四倶楽部三〇、帝国党一三、無所属二七だった。
貴族院は依然として、院内六派連合の形が続いており、外見上は政府に対して独立の立場を貫いていたが、その議員の多数は桂太郎首相と親交があり、その主義においても、政党内閣や政党主義には反対だった。
だから、桂首相としては、貴族院に頼る傾向が多かった。桂首相はできるだけ貴族院に接近して、その協力を求める態度を努めてとっていた。
明治三十四年十二月十日、第十六議会の開院式が挙行され、十二日には三十五年度予算案が衆議院に提出された。
この日、桂太郎首相は、施政方針演説を行ったが、これは桂が内閣総理大臣として議政壇上に立った最初だった。
桂首相は元々軍人である。演説はあまり上手ではなかった。壇上に立ったのは、初めてではなく、陸軍次官として、あるいは陸軍大臣として法律案の弁明のため度々登壇しているが、演説は得意ではなかった。
十二月十二日の、首相としての晴れの施政方針演説も、桂首相は上出来とは言えなかった。傍聴人などにとっても、期待に反したものだった。
だが、桂内閣の第一歩の大仕事であった、明治三十五年度予算も、大体において政府の希望通り、通過した。
これは、政友会内部に硬軟二つの派閥の対立があったことと、井上馨などの斡旋があったんこと、また、衆議院では憲政本党、貴族院では大多数が政府案に賛成したこともあり、結局政友会と妥協が成立したのだ。
当時桂内閣として、当面した内外の政治問題としては、予算案通過の時、政友会との妥協の条件である行政財政の整理の問題があった。
また、極東の形勢は日に日に重大となり、日英同盟の結果、日本海軍を拡張せざるを得ない事情があった。ロシアも満州経営の野望と、さらには、韓国の北方を占拠する情勢もうかがえた。
明治三十六年五月の第十八議会で、政府は海軍拡張案と地租継続案その他を提出した。だが委員会はこれを否決した。
桂首相は、妥協案を出した。地租案は撤回し、別に行政整理、事業繰延、公債募集によって財源を求め、海軍拡張を行うというものだった。
政友会は一部反対もあったが、結局この妥協案を認めたので、議会で決定された。憲政本党は、政府と政友会の妥協を知って、憤慨し、政府弾劾の上奏案を提出したが否決された。
桂内閣は、国内問題はかろうじて乗り切ったが、外交問題は安心できる情勢ではなかった。満州問題である。
日英同盟のおかげで、ロシアは満州還付条約に調印し、決着した観があったが、それは表面上のことだった。ロシアは遼東撤兵を約束して、その準備に取り掛かっていたのだが、それを中止していた。
それどころか、北韓への野心が増々露骨になり、当時満期失効となっていた森林伐採契約を提出して、明治三十六年四月、鴨緑江の下流である龍巖浦(りゅうがんぽ)を占領、軍事施設を建設し、旅順の総督府と連絡を取り、極東進出の様相を見せた。
桂首相は、小村壽太郎外相と相談し、「日本はロシアの満州における条約上の権利を認める代わりに、ロシアは韓国における日本の権利を認める」という根本方針で対露交渉に当たることに決した。
四月二十一日、桂首相と小村外相は、伊藤博文、山縣有朋の両元老と会合し、強力な内閣をつくり、挙国体制をもって当たらなければ、対露交渉は容易ではないことを訴えた。
その結果、伊藤博文が枢密院議長、山縣有朋と松方正義は枢密顧問官になることによって、さらに台湾総督・児玉源太郎中将に内相を兼務させる等の内閣改造で、体制は強化された。
だが、明治三十七年二月六日、対露交渉は決裂して、国交が断絶、日露戦争となった。国民の注意は一斉に戦争に向けられることになった。議会でも各党、各派はいずれも挙国一致を叫び始めた。
明治三十七年二月八日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対して、日本海軍は駆逐艦の奇襲攻撃を行なった。日露戦争の始まりである。