陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

618.桂太郎陸軍大将(38)晴れの施政方針演説も、桂首相は上出来とは言えなかった

2018年01月26日 | 桂太郎陸軍大将
 当時政友会に次ぐ大政党は、憲政本党だった。だが、この党は、党首・大隈重信の蹉跌(さてつ=つまずく、挫折)以来、不振の状態だった。方針の一貫性もなく、政府に対する態度も曖昧で、中には政府に近づいて党勢挽回を図る者もいた。

 その他の政党では、三四倶楽部は、増税案など財政問題以外では、憲政本党と歩調を合わせていた。帝国党は純然たる政府与党だったが、少数だった。

 当時衆議院の勢力分布は、政友会一五八、憲政本党七二、三四倶楽部三〇、帝国党一三、無所属二七だった。

 貴族院は依然として、院内六派連合の形が続いており、外見上は政府に対して独立の立場を貫いていたが、その議員の多数は桂太郎首相と親交があり、その主義においても、政党内閣や政党主義には反対だった。

 だから、桂首相としては、貴族院に頼る傾向が多かった。桂首相はできるだけ貴族院に接近して、その協力を求める態度を努めてとっていた。

 明治三十四年十二月十日、第十六議会の開院式が挙行され、十二日には三十五年度予算案が衆議院に提出された。

 この日、桂太郎首相は、施政方針演説を行ったが、これは桂が内閣総理大臣として議政壇上に立った最初だった。

 桂首相は元々軍人である。演説はあまり上手ではなかった。壇上に立ったのは、初めてではなく、陸軍次官として、あるいは陸軍大臣として法律案の弁明のため度々登壇しているが、演説は得意ではなかった。

 十二月十二日の、首相としての晴れの施政方針演説も、桂首相は上出来とは言えなかった。傍聴人などにとっても、期待に反したものだった。

 だが、桂内閣の第一歩の大仕事であった、明治三十五年度予算も、大体において政府の希望通り、通過した。

 これは、政友会内部に硬軟二つの派閥の対立があったことと、井上馨などの斡旋があったんこと、また、衆議院では憲政本党、貴族院では大多数が政府案に賛成したこともあり、結局政友会と妥協が成立したのだ。

 当時桂内閣として、当面した内外の政治問題としては、予算案通過の時、政友会との妥協の条件である行政財政の整理の問題があった。

 また、極東の形勢は日に日に重大となり、日英同盟の結果、日本海軍を拡張せざるを得ない事情があった。ロシアも満州経営の野望と、さらには、韓国の北方を占拠する情勢もうかがえた。

 明治三十六年五月の第十八議会で、政府は海軍拡張案と地租継続案その他を提出した。だが委員会はこれを否決した。

 桂首相は、妥協案を出した。地租案は撤回し、別に行政整理、事業繰延、公債募集によって財源を求め、海軍拡張を行うというものだった。

 政友会は一部反対もあったが、結局この妥協案を認めたので、議会で決定された。憲政本党は、政府と政友会の妥協を知って、憤慨し、政府弾劾の上奏案を提出したが否決された。

 桂内閣は、国内問題はかろうじて乗り切ったが、外交問題は安心できる情勢ではなかった。満州問題である。

 日英同盟のおかげで、ロシアは満州還付条約に調印し、決着した観があったが、それは表面上のことだった。ロシアは遼東撤兵を約束して、その準備に取り掛かっていたのだが、それを中止していた。

 それどころか、北韓への野心が増々露骨になり、当時満期失効となっていた森林伐採契約を提出して、明治三十六年四月、鴨緑江の下流である龍巖浦(りゅうがんぽ)を占領、軍事施設を建設し、旅順の総督府と連絡を取り、極東進出の様相を見せた。

 桂首相は、小村壽太郎外相と相談し、「日本はロシアの満州における条約上の権利を認める代わりに、ロシアは韓国における日本の権利を認める」という根本方針で対露交渉に当たることに決した。

 四月二十一日、桂首相と小村外相は、伊藤博文、山縣有朋の両元老と会合し、強力な内閣をつくり、挙国体制をもって当たらなければ、対露交渉は容易ではないことを訴えた。

 その結果、伊藤博文が枢密院議長、山縣有朋と松方正義は枢密顧問官になることによって、さらに台湾総督・児玉源太郎中将に内相を兼務させる等の内閣改造で、体制は強化された。

 だが、明治三十七年二月六日、対露交渉は決裂して、国交が断絶、日露戦争となった。国民の注意は一斉に戦争に向けられることになった。議会でも各党、各派はいずれも挙国一致を叫び始めた。

 明治三十七年二月八日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対して、日本海軍は駆逐艦の奇襲攻撃を行なった。日露戦争の始まりである。








617.桂太郎陸軍大将(37)政友会としては、感情的にも桂内閣に反感を持っていた

2018年01月19日 | 桂太郎陸軍大将
 五月二十八日、桂大将は参内して、伊藤博文に留任の大命を下されるよう請うた。

 五月二十九日、伊藤博文と桂大将は、ともに明治天皇に拝謁して、伊藤自身から留任の意思のないことが上奏された。桂大将は、もう辞退することはできなかった。伊藤が辞表を提出してから二十七日目であった。桂大将は五十五歳だった。

 五月三十日、桂大将は組閣に着手した。組閣は、諸元老から側面の援助があり、三日間で選考が終わった。

 明治三十四年六月二日親任式が挙行せられた。実現した内閣の顔ぶれは、山縣有朋元帥系の官僚かそれに近いものが多かった。留任は、海軍大臣・山本権兵衛海軍中将、陸軍大臣・児玉源太郎陸軍中将だった。

 だが、外務大臣には、陸奥宗光亡き後の、外務省のエース、駐清公使・小村壽太郎(こむら・じゅたろう・宮崎・大学南校<東京大学の前身>・第一回文部省海外留学生・ハーバード大学・司法省・大審院判事・外務省・清国代理公使・駐韓弁理公使・外務次官・駐米公使・駐露公使・外務大臣・男爵・ポーツマス条約調印・伯爵・外務大臣・日米通商航海条約調印・韓国併合・侯爵・従二位・勲一等旭日桐花大綬章・英国ロイヤル・ヴィクトリア勲章ナイト・グランド・クロス等)が任命されたことは、桂内閣に安定感を与えた。

 明治以来の各内閣を見れば、元老とか老政治家の入閣が多かったが、桂内閣では、それらは一切除かれていた。

 それで、世間では、どことなく軽量の内閣という印象を与えた。ひどいのになると、「第二流内閣」、「三日天下」、「緞帳内閣」、「小山縣内閣」などと呼んで、冷評する評論家もいた。

 政党側の反応としては、政友会以外は、桂内閣に対して特に甚だしい反感を持つ者はいなかった。お手並み拝見という態度だった。

 非政党派の中には、桂首相がいちはやく、「立憲君主主義でいく」と声明したことに、好感と同情を以て迎えた者もあった。

 桂内閣の大きな政治問題は二つあった。一つは、前内閣が崩壊の原因であった財政問題である。もう一つは、北清事変にともなって起こっていた支那問題であった。

 ともに重大で困難な問題だった。これらの解決の重責を担っていたのが、桂内閣だった。桂太郎首相としては生涯を通じて、最も大きな第一試練に立った。

 明治三十四年十二月、第十六帝国議会が開会されることになっていた。桂内閣としては、まず、政友会対策に頭を悩ました。

 伊藤内閣は快く退陣したのではなかった。財政問題の行き詰まりで、進退きわまって、心ならずも辞したのだ。そのあとを継いだのが、桂内閣である。政友会としては、感情的にも桂内閣に反感を持っていた。

 当時、伊藤博文は外遊中だった。伊藤は、桂内閣が成立した時、また、今回外遊に出る時も、政友会の党員に「決して派閥や感情をもって政府に反対するようなことがあってはならぬ」と言っている。

 だが、政友会は、主義の上から、桂内閣とは相容れないものがあった。政友会は政党主義をとっているから、当然の理論から政党内閣を要求する。

 ところが、桂内閣は超然主義の内閣である。超然内閣は、議会の支持なしに組閣される内閣で、政府が政党の意向にとらわれずに、”超然“として公正な政治を行うべきであるという主義の内閣。

 大日本帝国憲法は、一八八九年二月十一日、明治天皇により公布され、一八九〇年十一月二十九日に施行された欽定憲法だ。

 超然内閣は、この大日本帝国憲法公布の翌日、鹿鳴館で、当時の黒田清隆(くろだ・きよたか)首相(鹿児島・薩摩藩士・薩英戦争・戊辰戦争・五稜郭の戦い・維新後開拓次官・欧米旅行・開拓使長官・陸軍中将・参議兼開拓長官・全権弁理大使・日朝修好条規締結・西南戦争・征討参軍・開拓長官・農商務大臣・内閣総理大臣・枢密顧問官・逓信大臣・枢密院議長・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・オスマン帝国美治慈恵第一等勲章等)が、前述の超然主義としての内閣を演説したことから、こう呼ぶようになった。

 この超然主義である桂内閣は、政党内閣を受け容れることはできなかったし、桂内閣の閣員の中には、前内閣の時、貴族院にいて財政問題等で散々伊藤内閣をいじめつけた者が多かった。

 だから政友会としては、面白くなかった。政友会の内部は、統一されたものではなかった。伊藤博文は模範的政党ということを説いていたが、実際はそうはいかなかった。

 伊東の片腕となってその政治的才腕を発揮していた星亨が暗殺された後、政友会内部では、派閥の争いが顕著になってきたのだ。

 星亨は、とかく批判の多かった政治家だったが、その政治力は抜群で、政友党党内の各派をよく統一して、兎に角一大政党としての態を保たしめていた。また、山縣内閣の時も星は政府と政党の間に立ち、提携させていた。

 桂太郎内閣では、その星亨は、もういなかったし、伊藤博文も外遊中であり、政府と政友会が、議会で激突することは事前から想像に難くなかった。






616.桂太郎陸軍大将(36)この困難な政局に井上が首相になっても成功はおぼつかない

2018年01月12日 | 桂太郎陸軍大将
 さらに、伊藤博文首相は、政友会を背景に国政を行なってきたが、渡辺蔵相事件や星事件で、社会の批判が厳しく、政友会と貴族院の反目も強まって来ていた。

 そのような政局で、桂大将に期待するところがあった伊藤首相は、その日、自分の苦しい立場を語った。だが、その政局を以前から予測していた桂大将は、深く立ち入らず、葉山に帰って来た。

 明治三十四年五月二日、第四次伊藤内閣は、崩壊した。財政方針をめぐる内閣府統一の理由で、伊藤首相が辞表を提出、他の閣僚もこれにならったのだ。

 伊藤首相が辞職した日に、枢密院議長・西園寺公望が総理大臣代理を命じられ、五月十日、臨時総理大臣に任命せられた。

 西園寺公望(さいおんじ・きんもち)は、京都出身。学習院で学び、祐宮(後の明治天皇)の近習になる。慶応三年<十九歳>岩倉具視の推挙で参与に就任。戊辰戦争では山陰道鎮撫総督、会津征討越後口大参謀として各地を転戦。

 明治元年<二十歳>維新後新潟府知事。開成学校でフランス語を勉強。明治三年<二十二歳>官費でフランス留学、ソルボンヌ大学で学ぶ。明治十三年<三十二歳>帰国後、東洋自由新聞社長。明治十四年<三十三歳>参事院議官補。伊藤博文憲法調査欧州歴訪随員。

 明治十八年<三十七歳>駐ウィーン・オーストリア=ハンガリー帝国公使。明治二十一年<四十歳>駐ベルリン・ドイツ帝国公使兼ベルギー公使。明治二十四年<四十三歳>賞勲局総裁。貴族院副議長、法典調査会副総裁。

 明治二十七年<四十六歳>文部大臣。明治二十九年<四十八歳>外務大臣。フランス留学。明治三十一年<五十歳>文部大臣。明治三十三年<五十二歳>臨時総理大臣、枢密院議長、政友会総裁。

 明治三十九年<五十八歳>第一次西園寺内閣。明治四十三年<六十二歳>第二次西園寺内閣。大正五年<六十七歳>元老。大正七年<六十九歳>第一次世界大戦講和会議首席全権。大正九年<七十一歳>公爵。大正十三年<七十五歳>から最後の元老として首相選定等政界に大きな影響を与え続けた。昭和十五年死去<九十歳>、国葬。従一位、公爵、大勲位菊花章頸飾。フランスレジオンドヌール勲章グランクロワ、ロシア聖アレクサンドル・ネフスキー勲章大綬章等。

 後継内閣について、山縣有朋元帥と西園寺公望臨時総理は召されて善後策を命ぜられた。元老会議は、井上馨を後任に押すことになった。

 井上馨から会見の申し込みがあり、桂太郎大将は、鳥居坂の井上邸を訪問した。すると井上は「自分は総理の器ではないから、君に後を引き受けてもらいたい」と言った。

 桂大将は「そのようなことは断じてできない。今自分は首相になるつもりはないが、井上さんも、この際、断った方がよいでしょう」と答えた。

 長州の先輩である井上のことをよく承知していた、桂大将は、この困難な政局に井上が首相になっても成功はおぼつかないと思っていた。

 五月十五日、井上馨に大命が降下した。井上は組閣に取り掛かり、数日間奔走したが、失敗した。元老も誰一人井上の組閣を助けてくれなかった。

 五月二十二日、遂に井上は組閣を断念し、元老会議に報告し、大命を拝辞した。

 これを聞いた元老・山縣有朋元帥は、臨時首相・西園寺公望を訪れ、次の様に言った。

 「井上これを辞したる以上は、已むを得ず、然らば先ず松方(正義)に諮り桂にも内談して其任に当たらしむることを勧誘すべし、閣下は病気ゆえ如何ともすること能わず」。

 山縣元帥は、ここでいち早く桂太郎大将の名を挙げ、伊藤系官僚として有力候補になり得る西園寺公望に対して、病身を理由に引導を渡したのだ。

 五月二十三日、山縣元帥は、元老・伊藤博文に手紙を送って、桂太郎大将推薦のための布告を着々と打った。伊藤からの返書は、首相候補の選任は山縣元帥に任せるとの趣旨だった。

 元老会議は、桂太郎陸軍大将を後継首相に推薦することに決定した。

 五月二十三日夜、松方正義が桂大将を訪れ、元老会議の結果を語り、桂大将の奮起を説いた。ところが、桂大将は、「その器ではない。病気も回復していないので、近く外遊して、他日、国家の為に大いに奉公したい」と推薦を断念せられるよう答えた。

 翌日、今度は井上馨が桂大将を訪ねて、説得を行った。「国家の急を思えば一個の対面など考えてはおられず、重ねて相談に来た。まげて首相の大任に就いてもらいたい」と談じ込んだ。さすがに桂大将も井上の心情に同情した。

 五月二十六日、明治天皇から、桂太郎大将に内閣組閣の大命が下った。桂大将はしばらくの猶予を請うて、大磯の伊藤博文を訪ねた。

 桂大将としては、伊藤の進退如何が、総理大臣として任務を行う上に重大な影響があることを看取していた。伊藤は政友会の総裁である。政友会の去就は政局を左右する力を持っている。

 桂大将は、伊藤に総理留任をすすめた。だが、伊藤はその意思のないことを告げ、桂大将こそ、総理を引き受けるべきであると言った。






615.桂太郎陸軍大将(35)そのサーベルさえなければ、立派な政治家だが…

2018年01月05日 | 桂太郎陸軍大将
 だが、その後、政府に対する憲政党の官吏登用の要求問題が顕著になり、政府部内の憲政党を快く思わない連中が、旧官僚や実業家を集め、国民協会を解体して、新たに帝国党という新党を結成して、憲政党に対抗しようとする動きが出てきた。

 このことが、政府と憲政党の間の感情を損ない、両者の提携も、断絶するに至った。だが、この断絶は、政府よりも憲政党に打撃を与えた。

 というのは、政府はこれまで、すでに、憲政党を十分利用するだけ利用して、なすべき事業を成し遂げていた。これに対し、憲政党は政府に致命的な打撃を与える問題は持ち合わせていなかったのである。

 明治三十三年五月、山縣有朋首相は、勇退の決心をしていた。憲政党と山縣内閣の提携が破れてから、その意を強くしていた。そして、密かに後任首相に桂太郎陸相を考えていた。

 山縣首相は、諸元老に勇退の意を伝えたが、どの元老も後継首相になる者はいなかった。そこで、桂太郎陸相を推したら、諸元老も承諾した。

 六月初旬、山縣首相は、桂陸相を官邸に招いて、内閣を引き受けるようにと、その意向を質した。諸元老の承諾も伝えたが、桂陸相は固辞した。山縣首相の留任を希望したのだ。

 この様な成り行きから、山縣首相の辞職も決せず、後任首相も確定していないところへ、一大事が発生した。

 北清事変である。内閣更迭問題は吹っ飛んでしまった。北進事変は「義和団の乱」とも呼ばれる。中国の清王朝で、義和団(秘密結社)が排外運動をおこし、西太后がこれを支持した。

 明治三十三年六月二十一日、清国は欧米列国に宣戦布告したので、国家間の戦争に拡大してしまった。日本を含む欧米八か国は、八か国同盟を結成し、義和団に対抗した。

 八か国同盟軍は、二ケ月もたたないうちに、首都北京及び紫禁城を制圧した。清王朝は莫大な賠償金の支払いを余儀なくされた。

 北進事変後、桂陸相は病気になり、九月十五日から葉山で静養することになったが、九月二十一日、遂に辞表を提出した。だが、辞表は受理されなかった。

 明治三十三年九月二十六日、山縣首相は辞表を提出した。ついで大命は政友会党首の伊藤博文に降った。

 十月十九日、政友会を主力とする新内閣が発足した。第四次伊藤内閣である。桂陸相は留任であった。

 だが、葉山から帰京したものの、桂陸相は十二月十四日、再び辞表を提出した。自ら参内して、内大臣・徳大寺実則に会い、辞表の執奏方を請うなど、真剣だった。徳大寺も了解し、奏聞し、ただちに聴許された。

 伊藤博文首相も今度は、桂陸相の辞職を了承した。伊藤首相が後任問題を相談してきたので、桂陸相は、台湾総督・児玉源太郎中将を推薦した。

 十二月二十三日、桂陸相は辞任し、児玉源太郎大将が陸軍大臣兼台湾総督に就任した。

 伊藤首相が、桂太郎大将に向かって、「そのサーベルさえなければ、立派な政治家だが……」と言ったと、後々まで語り伝えられている。

 桂太郎大将が、これほど陸軍大臣の辞職を望んだのは、病気のせいもあったが、それ以外に次の三つの理由が考えられる。

 一、 伊藤首相の下で陸軍大臣になれば、伊藤首相の後継者となることになり、それを嫌った。二、伊藤内閣の前途に不安を感じていた。三、山縣有朋元帥に対する義理立て。

 桂太郎大将は、辞職が実現したので、再び葉山で静養することになった。以後七か月間、ほとんど、世事から離れて、静養につとめた。この頃、桂大将は次のような歌を詠んでいる。

 「伊豆の山相模の海を我家のにはの景色と見るぞ楽しき」。

 明治三十四年四月一日、桂大将は七カ月ぶりに東京へ行って、伊藤博文首相に面会した。以前伊藤に相談していた欧州への外遊の助力を請うためだった。

 だが、当時、政局は紛糾、伊藤首相は一大難関に直面していた。第十五議会で、北清事変に関わる軍事費補填のための増税案が、貴族院の反対で苦闘していた。