オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

凛として生きる

2015-01-04 00:00:00 | 礼拝説教
2015年1月4日 年頭礼拝(使徒の働き4:23ー37)岡田邦夫


 「こう彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。」使徒4:31

 今年与えられたみ言葉は「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」です(イザヤ書60:1)。聖書の歴史の中で新しい時代の幕開けであり、輝いていた時代は出エジプトの時代、もう一つはイエスと使徒の時代だったと言えます。私たちもモーセに帰れ、使徒に帰れを合い言葉に信仰に励んでいく時に、神の前に輝いていくことでしょう。
 もし、イエス・キリストが十字架にかかり、復活し、救いの道を開いたとしても、使徒たちがいなかったら、福音は世界に広まらなかったでしょうし、私たちも救われてはいなかったでしょう。といってイエスの弟子たちは優れた人たちだったでしょうか。「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た」というような人たちだったのです(使徒4:13)。しかし、彼らは「天下をかき回してきたこの人たち」と言われるほど、世界に影響を与えたのです(17:6口語訳)。

◇輝く方を持っていた
 120人の人たちが祈っているとイエス・キリストの約束通り、聖霊が弟子たちの上に降りました。すぐさま、イエス・キリストの福音を語り出し、三千人の人が洗礼を受けるということが起こり、麗しい教会が形成されていきました(2章)。ペテロとヨハネが「美しの門」を通っていこうとすると、足の不自由な男の人が施しを求めてきました(3章)。するとペテロ、「金銀はない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエスの名によって、歩きなさい」と言って、手を取り立たせました。すると立って歩き出し、はねては神を賛美して、神殿に入っていったのです。
 「私にあるもの」はイエス・キリストご自身であり、その福音でした。その福音を誰の前でも証詞出来ました。この時も回廊に集まってきた人たちに、聖霊が降って最初に説教した「福音」を再び確信をもって語ります。すなわち、預言が成就して、救い主メシヤが来られ、苦難を受け、罪の贖いのため木にかけられたが復活されたのがイエス、悔い改めて、この方の御名を信じれば救われますというメッセージでした(3:12ー26)。それで、「みことばを聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった」ものですから、神殿当局者が困り果て、ペテロとヨハネを捕らえ、留置してしまいます(4:3-4)。翌日、大祭司一族が集合して、二人に尋問します。
 ここでもペテロは短く福音を述べ、大胆にもこう言い切ります。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」(4:12)。当局は返す言葉もなく、イエスの名によって語るな、伝道するなと命じます。これにも大胆に答えます。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません」(4:19ー20)。結局、罰するすべもないので釈放されます。
 この頃、アスリートが試合で調子よかったりすると、自分は「持っている」という意味ありげな言い方をします。しかし、キリスト者は福音を持っている、キリストと聖霊を持っているのです。必要な時、導かれる時、内側から語り出すのです。奥琵琶湖のキャンプ場建設の時に、世話をしてくれた地の方が私たちを「キリストさん」と言って、町長に紹介してくれました。私たちは持っているのです。
 誰もが同じ福音、同じお方をいただいているのです。1コリント15:1~5を後でご覧ください。また、付記の表1も参考にしてください。福音を別のいい方で使徒的宣教と言います。

◇輝き方を知っていた
 使徒というのは特別な職務です。イエス・キリストの福音を正しく、また、生き生きと伝えていく使命がありました。「私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません」と正しく伝え、それが新約聖書になりました。それと同時に信仰の生き方も伝承される必要がありました。これも後で付記の表2をご覧ください。
 「使徒の働き」という書名のとおり、初代教会の歴史なのですけれど、重要なのは使徒がどう働いたか、どう生きたかが重要なのです。私が使徒の働きを読んで解ったことはペテロの経験や働きとパウロの経験や働きが全くいっしょだということです。後に使徒になったパウロも、使徒ペテロが生きたように生きたのです。さかのぼれば、イエス・キリストが生きたように、使徒たちは生きたのです。主は私を信じなさいと言い、また、私に倣いなさいと言いました。私たちはその継承者なのです。主が生きたように、使徒たちが生き、使徒たちが生きたように、先人達が信仰に生きてきた、それを引き継いで私たちも、福音に生きていくのです。私たちが使っている日課の中に良く出てくる言葉があります。周りの人は革表紙の聖書は見ないが、キリスト者の生き様という聖書を見ていると。福音を持っているのですから、それを輝かせてまいりましょう。初代教会の原点に帰って…。

 話は変わりますがキリシタン禁制が解けた明治のクリスチャンの生き方に私はあこがれます。私の出会った明治生まれの先輩の先生たちは凛(りん)としていました。教団の指導的立場におられた車田秋次、米田豊、山崎貞治の諸先生、私の母教会の本郷善次郎先生…、持っているものを持っておられたし、生き方が毅然としていました。話してみれば普通の方です。しかし、信仰者として凛としておられました。今の私たちはそれと同じにはなれないでしょうが、この時代の中で、持っている生ける主、生けるみ言葉を確信し、信じている者らしく、凛と生きてまいりましょう。それは「こう彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした」とあるような、教会の祈りの中で出てくるのです(使徒4:31)。
 司馬遼太郎の「坂の上の雲」がテレビドラマ化されました。そのオープニングで流れていたのが『Stand Alone』(作詞:小山薫堂 / 作曲:久石譲)で、このような歌詞でした(一朶(いちだ)=ひとかたまり)。
  ちいさな光が 歩んだ道を照らす
  希望のつぼみが 遠くを見つめていた
  迷い悩むほどに 人は強さを掴(つか)むから 夢をみる
  凛(りん)として旅立つ 一朶(いちだ)の雲を目指し
  あなたと歩んだ あの日の道を探す
  ひとりの祈りが 心をつないでゆく
空に 手を広げ ふりそそぐ光あつめて
友に 届けと放てば 夢叶(かな)う
  はてなき想いを 明日の風に乗せて
   わたしは信じる 新たな時がめぐる
   凛として旅立つ 一朶の雲を目指し
歌詞の良し悪しは別として、私は信仰的にイメージして歌ってみると何かワクワクしてくるのです。「神に」 手を広げ ふりそそぐ光あつめて 友に 届けと放てば 夢叶(かな)う。…わたしは「主」を信じる 新たな時がめぐる 凛として「信仰に」旅立つ 雲「の柱」を目指し。「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」のあなたの光とはシオンの光、ここにおられるあなたの光なのです。それぞれが自分の光が神から来ているのです。この年、ぶれないで、凛と信仰に生きていきましょう。


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