オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

アイ・ハブ・ア・ドリーム

2018-04-22 06:17:31 | 礼拝説教
2018年4月22日(日)主日礼拝(ピリピ2:12~16)岡田邦夫


「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」(ピリピ2:13)

「アイ・ハブ・ア・ドリーム(私には夢がある)」は職と自由を求めるワシントン大行進において、キング牧師がリンカーン記念館で人種平等と差別の終りを呼びかけた演説です(1963年8/28)。私は四国におりました時、それをもじって、次のような夢を週報に載せました(1979年12/30)。まだ、未熟な私、牧師が田舎の小さな教会で苦闘しながら、牧会していたころのことでした。
♰私は80年代に夢を描いています。
 クリスチャン・ホームのお父さん、お母さん、子どもたち、また、おじいさん、おばあさんが家族そろって、壬生川教会の礼拝に、何組も、何十組もが集っている、うるわしい日々を!
♰私は80年代に夢を描いています。
 子供から若者、壮年、お年寄りにいたるまで、種々な年齢層の人たちが壬生川教会に来られて、ここちよく、ハンデイ」をもつ人たちと共に喜びを分かち合う姿を!
♰私は80年代に夢を描いています。
 主のため、教会のために命をかけて献身する恵まれた信徒たちが、熱心に祈り、教会のために一心に奉仕し、壬生川教会が力強く前進している日々を!
♰私は80年代に夢を描いています。
 主をたたえる賛美にあふれ、器楽をもって、声をもって、壬生川教会の会堂に天使の声のように響きわたる姿を!
♰私は80年代に夢を描いています。
 集会ごとに神のみ言葉が生きて、力強く語られ、聖礼典が聖霊の感動のうちに行われ、集まるごとに、神のみ業があらわれる充実した日々を!

 この週報を見ても、誰もそれが絵にかいた餅のように思っていたでしょう。しかし、それから39年がたった今、教会は違いますが、四泉教会において、現実味を帯びています。夢を「願い」にさせ、「実現」に至らせたのは神であって、人ではないと聖書が告げています。「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」(ピリピ2:13)
 教会というところは、クリスチャンというのは「夢見る者」なのです。初めに教会が出来た時にこう告げられているからです。「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」(使徒2:17)
 創世記にヤコブの11番目の息子、ヨセフが「夢見る人」でした。「太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいる」という夢を語るのです(37:9)。これを聞いた兄たちは激怒します。父の寵愛を受けているから、なおさら。兄弟でたくらみ、野で殺そうとするが長男が待ったをかけ、通りかかった商人に売ってしまう。エジプトに売られ、奴隷となったヨセフ、良い仕事もするが事件に巻き込まれ、牢に入れられる。そこに入ってきた囚人の夢をヨセフが解いたことがきっかけで、エジプトの王の夢解きをし、一躍総理大臣になる。そして、飢饉対策をして、エジプトを救済するのである。穀物を買いに来た兄弟をヨセフが発見。ヤコブ一家が再開するのだがなにしろ、エジプトではナンバー2、一同ひれ伏すのです。「太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいる」が現実になった。ヨセフは仕返しはしない。神がヤコブの家族を救うために、私を先にこのちに遣わしたのだと信仰の告白、証しをしたのです。
 四国から豊中に転任になった時に神のみこころは何なのか祈っていると、「ヨセフは実を結ぶ若枝、泉のほとりの実を結ぶ若木、その枝は、かきねを越えるであろう」というみ言葉が響いてきました(創世記49:22)。今、垣根を越えて、四つの泉教会になっています。それは成功物語ではなく、神のみむね実現物語だと私は思います。「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」の通り、すべては神のなさったこと、私たちはその目撃者、証人なのです。

 しかし、そんなに調子よくはいかないのではというでしょう。祈り願っても、その通りにはならないことも多いのが現実でしょう。しかし、このみ言葉はご利益ではないし、人の思ったこととは違う実現を見ることもあります。その方が豊かな恵みであることがあります。ニューヨーク大学リハビリテーション病院の壁に書かれた「ある患者の詩」という詩を見ますとそれが言えます。作者は不明ですが、心打つもがあります。

「苦難にある者たちの告白」-ある患者の詩-

大事を成そうとして、力を与えてほしいと神に求めたのに、
慎み深く、従順であるようにと弱さを授かった。

より偉大なことができるように健康を求めたのに
よりよきことができるようにと病弱を与えられた。

幸せになろうとして富を求めたのに、
賢明であるようにと貧困を授かった。

世の人々の賞賛を得ようとして、権力を求めたのに、
神の前にひざまずくようにと弱さを授かった。

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるように命を授かった。

求めたものは一つとして与えられなかったが、
願いはすべて聞き届けられた。

神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、
心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた。

私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。

クリスチャンにとって「アイ・ハブ・ア・ドリーム(私には夢がある)」はこのような、逆説の恵みなのではないでしょうか。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。