オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

エリヤの昇天

2016-08-14 16:34:49 | 礼拝説教
2016年8月14日(日)主日礼拝(2列王記2:-)岡田邦夫

 「こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現われ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。」2列王記2:11

 リオ・オリンピックたけなわ。参加することに意義があるとはいえ、メダルを得た人は天にも昇る気持ちでしょうし、敗れた人は奈落の底に落ちたような気分でしょう。しかし、ほんとうに天に上った人の話がきょうのエリヤの昇天です。「こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現われ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った」(2:11)。神話のような記述ですが、預言者エリヤの生涯を見ていくと、「天へ上って行った」という事はあり得ると思えてきます。大事なことはそれが何かを物語っていること、言い換えれば、神のみ旨が語られている、「旨語っている」ことを聞き取ることです。

◇奈落に向かっていく
 アハブ王が王妃に迎えたイゼベルがイスラエルの真宗教をバアルの偶像宗教にしてしまおうと最悪の強硬策。ナボテ所有のブドウ畑が欲しくなり、言いがかりをつけ、ナバルを殺させ、取り上げてしまうという横暴。預言者エリヤは天からの火を降す「奇跡」でバアルに勝利し、主の預言者たちを守ります。また、アハブ、イゼベルに対し「犬どもがナボテの血をなめたその場所で、その犬どもがまた、あなたの血をなめる。」と預言(1列王21:19)。その預言通り、アラムとの戦いで、アハブは悲惨な最期をとげ、犬が彼の血をなめたのです(22:38)。
 その子アハズヤも偶像バアルに仕え、邪魔なエリヤを抹殺しようとしますが、神の火がまた下り守られます(1:11-16)。神の怒りを買い、エリヤを通して、死が宣告。たった在位2年でした。こうして、罪深い悪王たちは奈落の底に突き落とされていくのでした。

◇天に向かっていく
 しかし、エリヤは天に上げられたのです。その様まで見せてくれたのです。エリヤがベテルに行くが弟子のエリシャにはついてくるなと言うのに、ついていくのです。ベテルでは預言者集団がきょう、あなたの主人は死ぬと預言。エリヤがエリコに行くがエリシャについてくるなと言うのに、ついていく。エリコの預言者たちも、あなたの主人は死ぬと預言。ヨルダン川を渡るがついてくるなと言うが、ついて行ったのです。ヨルダン川のほとりに二人が立ち、遠く離れて、預言者50人が見守っている。エリヤ、最後の厳粛な時がきたのです。聖書をそのまま読みましょう(2:8-13)。
 エリヤは自分の外套を取り、それを丸めて水を打った。すると、水は両側に分かれた。それでふたりはかわいた土の上を渡った。渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」すると、エリシャは、「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように(後継者、伝承者となること)。」と言った。エリヤは言った。「あなたはむずかしい注文をする。しかし、もし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことがあなたにかなえられよう。できないなら、そうはならない。」こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現われ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。エリシャはこれを見て、「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち。」と叫んでいたが、彼はもう見えなかった。そこで、彼は自分の着物をつかみ、それを二つに引き裂いた(悲しみの表現)。それから、彼はエリヤの身から落ちた外套を拾い上げ(事実であった証拠)、引き返してヨルダン川の岸辺に立った。
 エリシャは信仰の目、霊の目で見たので、エリヤの天に昇りゆく姿が見えたのです。信仰者は現実をしっかり見るものです。人は死ぬものであること、死で終わりだという事を。同時に、天の現実を、神の国の現実を、超越した世界を信仰の目、霊の目でみる者です。死で終わりではなく、その先がある、イエス・キリストが待ち受けている望みがあるのです。
 人は生きたように死ぬと言われていますが、エリヤはその典型です。火をもって答える神を神として、奇跡を起こす預言の生涯でしたが、死ぬ時も、火の戦車と火の馬が現れ、たつまきに乗って天へ上って行ったのです。エリヤらしく天に昇り、主のみもとに召されていきました。主にある者は信仰に生きたように召されるのです。エリヤは凱旋して天に迎えられたのです。華々しさや、目立ったことがなかったとしても、信仰の戦いをもって生きたキリスト者は天には凱旋者として迎えられるのです。

◇先に向かっていく
 今日歌います黒人霊歌「馬車よ、下りてこい」は信仰者の召天へのあこがれの賛美歌です。一方、エリヤの生涯を音楽にしたメンデレスゾーンのオラトリオがあります。交響曲で独唱、合唱が聖書の言葉とそれに関連しての言葉が中心になります。2時間以上の壮大な作品です。「見よ、火の車と火の馬が現れ、エリヤは嵐の中を天に昇って行った」で終わらず、続きがあります。エリヤの再来のように、ひとりのしもべ、救い主が現れるところまで歌い、アーメンで終わります。
 イエス・キリストが受難に入る前に、山に行き、白く輝く姿に変えられ、そこに、モーセとエリヤが現れ、三者会談となりました。エクソダス、脱出、人類の死の滅びからの救済の話だったようです。三者の共通点は神の民の存亡の危機でした。モーセの時も、エリヤの時も、イエスの時も。だからこそ、奇跡が大変多く、また、壮大でした。三大危機における三大奇跡の時代でした。だからこそ、十字架、復活における救済の奇跡、エクソダス、罪と死からの脱出、人類の滅びからの救済の話が話し合われたのでしょう。
 今頃、夜空を見ますと、夏の大三角形という星座が見えます。私はそれを見るとイエスの姿代わりの三者会談を思い巡らします。エリヤの召天(昇天)とつながってきます。エリヤは現実に死んで終わったけれど、終わってはいない、天において神と共に時を超えて存在していたのだ。神の壮大な物語り、旨語りがそれを証ししているのだなあと思うのです。神はあなたにはあなたにふさわしい信仰生涯をたどらせ、そう生きたように、天に召してくださるのです。地上のはかない現実もこの目で見つめつつ、イエス・キリストのおられる天の愛と恵みと栄光に満ちた現実を信仰の目で見上げながら、地上に遣わされたものとして、生きてまいりましょう。エリヤの神はわが神なり。イエス・キリストの神はわが神なり。

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