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オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

切り株が残るように

2018-04-15 06:13:35 | 礼拝説教
2018年4月15日(日)主日礼拝(イザヤ書6:6~13)岡田邦夫


「そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」イザヤ書6:13

 先週、三田泉教会でイザヤ書からの話の中で、ヤコブがみ使いと相撲をとった話をしました。民族としてイスラエルとなった由来の出来事です。イスラエルという言葉の意味は「神と争う」というような意味ですが、由来からですと、神と組み合う、神と向かい合うという「相撲」のイメージです。その時、ヤコブは「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた。」と言っています。預言者イザヤもこの6章で「私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た」と言っています(6:1)。イザヤも神と向き合い、真っ向、取り組んだのです。
 ところで、日本の相撲の話ですが、行司が土俵の両力士に「はっけよい のこった」と声をかけています。その言葉はどんな意味なのでしょうか?「はっけよい」の由来は諸説ありますが、多いのは「発気揚々が詰まった言葉で、力士に気を吐けと喝を入れている」と解説されています。立ち合いで両力士が当たってからの行司の最初の掛け声が「はっけよい」で、力士が組み合って動かなくなった時も「はっけよい」と声をかけます。それに対して「のこった」は、その言葉通り「まだ土俵に残っている」という意味で、押されている力士を応援する掛け声です。ですから、両力士が動き回っている時に行司が掛ける言葉は「はっけよい」ではなく、「のこった、のこった」だけとなります。
 イザヤが直面したのは強大なアッシリヤ帝国の軍隊が北からやってきて、次々に小さな国を打ち破り、同胞の北イスラエル国も破れ果てていました。残されたユダ王国は圧倒的な力に対応できるはずもなく、滅亡か!?という危機の時でありました。ユダの民は生き残れるのかという問題でした。解説者や占い師のように、一歩退いてものをいうのではなく、イザヤは預言者として、その時代の土俵に上がり、取り組んだのです。そこで、別の意味で、神の「残った、残った」の声をきたのです。正確に言うと「残りの者」のメッセージをいただいたのです。

◇残るもの…切り株
 テレビで野生動物の生態の番組が良くあります。環境に適応すること、食物を確保すること、敵から身を守ること、縄張りや子孫繁栄のため戦いなど、いかに生き延びるか、命あるものの戦いが映し出されます。人も生き物、同じです。いかに生き延びるかの戦いがあります。社会の中で生き残りをかけた戦いがあります。教会もこの時代の中で、生き残りをかけた戦いがあります。今日、イザヤの言葉を通して、私たちは生き残りの希望を得たいと思います。
 ユダ王国でも信仰的なウジヤ王に信頼していたのですが、亡くなってしまって(BC742年)、イザヤはかなりショックで、神殿で神のみ前に出たのです(6:1)。必死に祈ったからでしょうか、翼をもったみ使いセラフィムが現れ、賛美します(6:5)。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」敷居の土台が動き、神殿は煙でいっぱい。神の顕現です。彼は心底、汚れた者だと罪を告白しますときよめのお言葉をいただきます。そして、神の任命を受けます(6:7)。
 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」
「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」
「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
そして、「行って、この民に言え。」とメッセージを託されます(6:9-13)。心かたくなな民で神の言葉を聞こうとしないけれども、それでも語りなさい、というような言葉です。そして、預言の言葉が告げられたのです。
「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、主が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」
やがて現れるバビロン帝国軍を主が遣わし、民は捕囚されていき、エルサレムの町は荒れ果てる。ふるわれて十分の一が残るが、それも切り倒されると言うのです。もはや生き残れないのです。しかし、その後に救いの言葉が告げられています。神に背を向け、散々罪を犯してきたのですから、滅び去って当然でしょうが、神のあわれみで残されるのです。「切り株」が残されるのです。株は残って命があるから、そこから新しい芽が出てくるのです。

◇残るもの…聖なるすえ(裔)
 イスラエルは振るわれて、十分の一が残り、それも振るわれ、ついに切り株になる。その切り株とは最後まで神に忠実な者たちのこと、「聖なるすえ(裔)」です。その切り株から新しい芽を出すのが救い主・イエス・キリストなのです(11:1)。「エッサイ(ダビデの父)の根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」
 春になると桜前線が北上して、日本全国一斉に「桜」が咲きます。その桜のほとんどがソメイヨシノだといいます。二種の桜を人が交配させてできた一本の木でした。たいへん美しい花を咲かすのでした。交配させてできたものなので、種では増やせませんが、接ぎ木で増やして、全国に植えていったというわけです。最初は一本の木でしたが、その枝を切って、他の桜の木に接ぎ木するように、私たちの古い人が切られ、イエス・キリストも十字架で切られて、接ぎ木されると、新しい人になるのです。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなるのです(2コリント5:17)。そのようにイエス・キリストを信じた私たちは聖なるすえなのです。「それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。」(ローマ11:5)というように一方的な神の恵みなのです。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」とあったように、十字架の祭壇でなされた贖いが私たちにおよんで「聖なるすえ」とさせていただいたのです。
 イエス・キリストが接ぎ木されているなら、すなわち、キリスト・イエスにあるなら、キリスト・イエスの栄光、神の栄光という聖なる花を咲かすのです。神は聖なるすえを増やし、この聖なる花を世界中に咲かせたいと願っておられます。「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と訴えています。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と答えていきましょう。復興支援ソング「花は咲く」(作詞:岩井俊二、作曲:菅野よう子)の歌詞、一節後半にこうあります。“花は 花は 花は咲く いつか生まれる君に 花は 花は 花は咲く 私は何を残しただろう”これをキリスト者として、私たちは信仰復興ソングとして歌いたいです。「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」(9:7)と信じて…。

雪のごとく白くならん

2018-04-08 00:00:00 | 礼拝説教
2018年4月8日(日)主日礼拝(イザヤ書1:13~20)岡田邦夫


「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。」イザヤ書1:18~19

 今日から、イザヤ書の愛読箇所からメッセージすることになりました。イザヤはBC770頃生まれた預言者で、女性預言者の妻と子どもが二人いたようです。当時、小国ユダは巨大なアッシリヤ帝国に滅ぼされそうな危機にありました。さらに、後になるとそのアッシリヤをバビロン帝国が倒し、バビロンを、ペルシャ帝国が倒すという大きく、世界が動いていく時代を迎えようとしている時でした。イザヤはこのような危機の時代と向き合わなければなりませんでした。そういう状況で、彼が真に向き合ったのは歴史を超越した聖なる神でした。そこで啓示を受けて、大いなる預言が語りだされたのです。ちなみに聖書全体は66書、イザヤ書は66章なので、イザヤ書は聖書の縮図だとさえ、評されています。単なる数合わせだけでなく、内容的にそう言えるでしょう。

◇はじめに関係があった。
イザヤ書の書き出しが壮大です。「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ」(1:2)。この壮大さは前述のように、イザヤが壮大な神に出合っているからです。その顕著なものが6章の「神を見た」という経験です。
ところで、イスラエルという名前の由来が創世記に記されています。ヤコブが家族を引き連れて、メソポタミアからの帰る途中、兄エサウに再開することになりました。復讐されることを恐れ、ヤボクの渡しで祈っていた時、天使が現れ、格闘をしたのです。その時、主は「もうヤコブとは呼ばない。イスラエルだ」と言われ、祝福されました。民族の名となります (32:28)。イスラエルのヘブル語の意味は「神が支配する」「神と争う」「神が勝つ」だと言われています。神と組み合った、正面から向き合った、対峙したと解釈するのがいいと思います。なぜなら、こう記されているからです(32:30)。「そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。『私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた。』という意味である」。神の民とは主なる神と向き合って生きる者たちなのです。
対峙という言葉を使いましたが、相対するの「対」に、山辺に寺と組み合わせた「峙」(ジ)と書きます。訓読みでは「そばだつ」。山がじっと動かずに待っているようにそびえていることです。「対峙」は山などが、向かい合ってそびえること、対立する者どうしが、にらみ合ったままじっと動かずにいることを意味します。私たちは人間関係で、対峙することは避けたいものですし、適当な距離感をもって付き合いたいものです。人同士が対峙して、信頼関係を深めるのは、互いに敬意や真実や愛が求められるでしょう。
しかし、神が私たち(私)に対峙するようにと求めておられるのです。顔と顔とを合わせて神を見るようにです。それはお母さんが赤ちゃんの顔を見つめ、赤ちゃんもお母さんの顔を見つめる。そういうイメージでしょうか。イエスが言われたように、神のみ前には悔い改めて幼子のようになることです(マタイ18:3)。「イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。』」と、わたしとあなた、一人称と二人称の向き合い方をしてくださるのです(43:1)。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」という愛の対峙をしてくださるのです(43:4)。放蕩息子はあるがままの姿で帰っていくと、父は待っていて、走り寄り、(顔と顔を合わせてから)抱きしめました(ルカ15:20)。

◇まことの関係になった。
 イザヤが聖なる神と向き合った時に、汚れた者であることを示されましたが、主によってきよめられました。主は愛する民に向って、背信の罪を指摘します。「『子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。
牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない』。ああ。罪を犯す国、咎重き民、悪を行なう者どもの子孫、堕落した子ら。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った」(1:3-4)。
 人は関係の中に生活をしています。二つの関係性があります。「わたしとあなた」という人格的な関係、「わたしとそれ」という、利害関係や単なる雇用関係、便宜上の関係などの非人格的な関係があります。ユダの民が主なる神を「それ」にしてしまっているのです。罪を犯しても、形だけのささげ物で赦されると思っているのです。「もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙――それもわたしの忌みきらうもの。新月の祭りと安息日――会合の召集、不義と、きよめの集会、これにわたしは耐えられない」(1:13)。
 ですから、「わたしとあなた」という人格関係を取り戻すために、悔い改めを迫ります。「洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ」(1:16-17)。「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられるのです(1:18)。これこそが、対峙しようではないかということです。
 主と対峙するのはしんどいことですし、悔い改めるのには勇気がいります。しかし、その先にあるのは並外れて素晴らしい福音があるのです。主の御口が語りだすのです。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる」(1:18-19)。イエス・キリストの十字架の血によってきよめられるのです。緋は二度染めの赤です。罪がこの身にすっかり染み付いてしまっていても、純白にしてくださるのです。命の洗濯などという言葉がありますが、イエス・キリストの命による洗濯で、洗い落とせないものはないのです。この神の言葉を信じましょう。
 研修会に招かれて、札幌に行ったことがあります。その時は何十年ぶりかの大雪で、道路は両側に雪かきされ、その雪で道は半分の幅になっていました。それが泥で汚れているので、きれいとは言えませんでした。しかし、研修後、スキーのジャンプ場に連れて行ってくれました。ジャンプ台の上の方まで行き、下の方をみると真っ白な雪景色。こんなにも白いのかと感心し、感激しました。その白い輝きで目が痛くなりました。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」。イエス・キリストはあなたの魂をまばゆいばかりの雪のように白くしてくださるのです。今、幼子のように素直になって、イエス・キリストの十字架の血潮を信じましょう。
 そして、「わたしとあなた」という関係性を親密にしていただき、「イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。』…わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」との生ける御声を聞きましょう。

復活の神秘を告げる

2018-04-01 00:00:00 | 礼拝説教
2018年4月1日(日)イースター礼拝(1コリント15:35~49)岡田邦夫
「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。…終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」1コリント15:51~52

 まずはキリスト教のジョークです。
 ひとりの純朴なクリスチャン女性が牧師に聞いた。「先生、クリスチャンが召されて天国に行ったら、知恵遅れの人も障害のある人も赤ちゃんも…みな、完全な成人のからだになると聞いていますが、何才ぐらいなのでしょうか?」牧師は答えた。「私にはわからないなあ。何才なのだろう。きっと、天国のことだから、みな天才になるんだよ!」

◇ミニストリー・復活の宣教
これはジョークなのですが、天国はあるのだろなァ、死んだら行けるのだろうなァというような漠然としたものではなく、死んでもよみがえるのだ、復活はあるのだ!というのが福音、救いなのです。神がパウロを通してはっきりと告げています(15:3-4)。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けた(福音の)ことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと」です。
そこで、二つの疑問の声があり、それに答えていくのがこの章です。

◇ヒストリー・復活の事実
 「どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか」(15:12)。
 もし、死者の復活がないなら、キリストの復活もなかった。キリストの復活がなかったら、私たちの宣教も信仰も実質がない。そればかりかその宣教は偽証になり、信仰はむなしく、私たちは哀れな者となってしまいます。
 「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」(15:20)。歴史の経緯としては、死がアダムを通して来たように、復活はキリストを通して来たのです。今後の展開はまず、初穂であるキリストの復活、次にキリスト再臨の時にキリスト者が復活、そして、終わりが来て、御子は最後の敵である死を滅ぼし、神がすべてのすべてとなるのです。
復活は歴史の上に起こった事実であり、歴史を越えて起こっている神の事実なのです。それで、こう勧めます。「目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。私はあなたがたをはずかしめるために、こう言っているのです」(15:34)。

◇ミステリー・復活の神秘(奥義)
 もう一つの疑問です。「死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」(15:35)。この問いは冒頭では牧師がジョークで答えてしまったのですが、この章ではパウロに啓示された復活体のことが明記されているのです(15:37-49)。
わかりやすく種まきにたとえます。「あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません」。説明がその時代のものですから、今風に解釈してみましょう。例えば、リンゴの種をまくと種が土の中で死んで、リンゴの種自身が再生したりはしないように、死者の復活は生前と同じからだに再生するわけではありません。また、リンゴの種はリンゴの木になるものであって、ナシの木にはならないように、生前とは関係のない別のものになってしまうものではなく、同じ人間でありつつ、天のからだに変えられるのです。死者の復活もこれと同じです(15:42-44、47、52、54)。
「朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、
弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、
血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。
第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、
第二の人は天から出た者です。
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
    その時『死は勝利にのまれた』のみことばが実現します」。
 「神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから」(15:57-58)。

 先ほど、「第一の人は地から出て、土で造られた者」と出てきましたが、詩篇ではこう歌われています。「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです」(139:13)。
 その組み立てられ方が最近の研究でわかってきたことがあります。まず、一つの受精卵から始まる。父親の遺伝子情報をもつ染色体と母親の染色体が合わさる。およそ2時間後には受精卵は分裂を開始する。赤ちゃんの体づくりのプログラム情報は細胞の中にすべて用意されている。その細胞が体づくりに躍動するために、メッセージ物質が放出され、そのメッセージを受けて、臓器などができていく。まず、受精卵が「ここにいるよ!」というメッセージ物質を母親へ向けてだすとそれに答えて母体が子宮に着床させる。それから、細胞から「心臓になって!」というメッセージ物質が出されると心臓が出来ていき、「肝臓になって!」というメッセージが出されると、肝臓が出来ていく。次々とメッセージ物質が出され、ドミノ倒しのようにスイッチが入り、臓器が造られていき、人体となっていくのである。
 神が「私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられた」生命の神秘です。神が「生きよ!」とメッセージを下さって、私たちは生まれてきたのです。そして生かされているのです。さらに素晴らしいことは、主を信じる者に永遠の命が与えられていて、終わりのラッパのなる時に、神のメッセージ言語が発せられ、一瞬で復活の「栄光のからだ」に再創造されるのです。地上でのからだでさえ神秘なのに、新天地で神と共に永遠に過ごせる「栄光のからだ」というのは私たちの想像をこえたものです。
クリスチャンにとって、彼の世で聞くメッセージをこの世で先に聞けるのです。そこに永遠の命の躍動があるのです。ですから、日々に、主日ごとに神の言葉、救いのメッセージの言葉を聞いて生きることは永遠の命にとって最も重要なことなのです。無駄などないのです。神の言葉に生きることが神の業なのです。それに全力を注いで参りましょう。

受難のしもべ

2018-03-25 00:00:00 | 礼拝説教
2018年3月25日(日)棕櫚の主日礼拝(イザヤ53:1~12)岡田邦夫

「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」イザヤ53:5

 いきなりですが、福音書に出てくる、一つの事件から話を始めたいと思います。福音書に出てくる主の御業というのはほとんどがいやしや奇跡ですが、この出来事はそうではないものです(ヨハネ8:1-11)。主イエスが朝早く、神殿で民衆に囲まれ、教え始められた時のことです。律法学者とパリサイ人がひとりの女性を連れて来て、真中に置いて言いました。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか」。そのようにしろと言えば、教えとは違うと言って民衆は離れていくし、やめろと言えば、律法に従わない者だと告発できる。彼らのわなです。イエスを貶めるために女性を道具にしているのですから、ひどい話です。「しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。…彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた」。みな去って行きました。そして、こう告げました。尊敬語で婦人よと呼び、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」。そう告げたのです。
 主イエスのこの沈黙がこの女性を救ったのです。イエスはどうして、権威をもって罰しないと言えたのでしょうか。その答えはイザヤ書53章の預言にあります。この章は旧約聖書の中でも最も偉大な章と言われています。主イエスの受難を克明に描いた預言です。

◇こうするしかない…愛の必然性
 聖書全巻に貫かれているのは「救い」です。何から救われるのかというと、神に対して罪を犯した者たちが神の怒りをかい、裁きを受け、滅びてしまう。その滅びから救うというものです。その「神の怒り、神の裁き、滅び」などの言葉が聖書の中に、私の数えたところではごく大雑把で1200以上でてきます。旧新約聖書が約1200章ですから、1章に1回は出てくる程だという事を知らなければなりません。
神に選ばれたイスラエルの民も神に背き、歴史の上で裁かれ、ふるわれ、ユダが残りました。しかし、ユダの民も背信のゆえに、バビロンに囚われていくのだと預言されます。ある学者によると、この53章はユダの民のバビロン捕囚の苦難をさしていると言います。「しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた」などを見るとそのような面があります。イザヤ書の特徴の一つは旧約時代に起こることを預言しているとともに、その向こうの新約時代に起こることを預言しています。二重重ねの預言が見られるのです。先の出来事とは皆さんが良く知っておられる、救い主・メシヤの受難のことです。人類全体の救いに及ぶものです。

旧約においては動物のいけにえが代償としてささげられ、犠牲になったのですが、私たちの罪はそれでは間に合わないほど、根深いものです。神の御子・イエス・キリストご自身が代償として、犠牲にならなければならなかったのです。
主イエスは預言の通り、屈辱、呪いを受けられました。「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」。
背を鞭でうたれ、頭にいばらの冠をかぶせられ、両手両足を十字架に釘で打ち付けられ、ゴルゴダの丘に立てられました。これ以上ない激痛にさいなまれるのです。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」。

◇こうしてあげたい…愛の主体性
 預言なのに「~だった」と過去形に訳してありますが、それは原語、ヘブル語の文法によるものです。ギリシャ語でしたら、動詞は時制を過去、現在、未来と分けています。そういう発想をするからです。ヘブル語というと、動詞の時制は完了か未完了かと分けています。そういう発想をするからです。神のなさることは未来であろうと完了していると考えるので、預言も完了形なのです。「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」。十字架において完了しているのです。「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」。私たちの中でも神の御業は完了しているのです。私たちはそう信じるのが信仰です。「救いはこの身に成就しぬ。われいかで疑わん。主の御業を」です(新聖歌359)。
 メシヤは自らすすんで、贖いのいけにえになられたのです。主体的に神のみこころに従われたのです。「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」。この神の沈黙こそ、全き救いにつながるのです。初めに話した女性の件で、イエスは沈黙していましたのは、黙って、この女性の罪の攻めを自らに引き受けられたことを表しています。神の沈黙というのは無条件の引き受けなのです。

 さらに10節には神の内面、真情が発露されているのです。「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。」がそれです。この文が色々の言葉に訳されています。
新改訳は「主のみこころであった」、
口語訳(&バルバロ訳)は「主のみ旨であり」、
共同訳は「主は望まれ」、
文語訳は「エホバ(主)はよろこびて」。
これ程、多用な訳があるという事はきっと、人間の言葉では表せないほど、全身全霊で御父は御子を砕かれたということではないでしょうか。文語訳を見ると、私たちを救うためならと、ご自身のひとり子を砕くことを喜んでなされたのだと思わされます。これ程の愛がどこにあるでしょう。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、…御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう」(1ヨハネ3:1)。感謝があふれてきます。
11節も受難の御業を成し遂げた時の御思いを色々に訳されています。
「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。」新改訳
「彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。」共同訳
「彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。」口語訳
 「その心の試練ののち彼は光を見、それに満たされる」バルバロ訳
※参考までに:文語訳は「かれは己がたましひの煩勞(いたづき)をみて心たらはん」。ふりがなの「いたづき」は①病気、②苦労、骨折りの意味です。
漢字は火辺にわずらう、労働の労と書いて【煩労】はんろうと読み、心身をわずらわせること、また,わずらわしい仕事や苦労の意味です。
十字架の受難を振り返ってみた時に、完全に神のみこころにかなってなされたので満足されたのでしょうか。あるいは受難の後に多くの人が救いに導かれる実りや光が見えて満足されたのでしょうか。例えば、日本の伝統の漆職人は実に手間暇かけて、美しい作品を作っていきます。作品を見て、いい仕事してますね!と言われると嬉しいでしょうね。さらに、職人は人からどう評価されるより、自分がとことん納得のいく物を作りたいと言います。まして、神が救いの御業をなさるにあたって、とことん、御子を打ちたたき、納得なさるまで、イエスに「わが神、わが神、どうして、私をお見捨てになったのですか」と言わさせるまで、手を抜かなかったのです。十字架は神の満足の業なのです。
私たちは母の胎から産みの苦しみの中で生まれてきました。半端ではない産みの苦しみをしたのに、生まれた赤子を抱いた時には、お母さんはもう産みの苦しみを忘れているらしいです。私たちは十字架の難産を通して、神の子として生まれたのです。しかし、救われた私たちを見て、その受難も忘れて、満足されておられるに違いありません。

 この週、主の受難を偲び、イースターを待ち望みましょう。

この川が流れる所では

2018-03-18 00:00:00 | 礼拝説教
2018年3月18日(日)主日礼拝(エゼキエル書47:9)岡田邦夫

「この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。」エゼキエル書47:9

子どものころ、家に風呂がないので、銭湯に行きました。正面にペンキで富士山の絵が描かれていました。東京の神田にある風呂屋が大正元年(1912年)、客の子供に喜んでもらおうと、洋画家に富士山の絵を描いてもらったのが初め。それが好評で、関東周辺に広まっていったといいます。湯船が正面ペンキ絵の下にあるのは、絵の中にある、海、川、湖の水が真下の湯船と同一空間にあり、富士山で清められた水の中に身をゆだね、体を清める、という心理をもたらすものかもしれません。

◇どこから来て
ところが、聖書の舞台というのは荒涼たる砂漠地帯です。限られた泉や川の周辺しか、緑がない世界です。水は命の水であり、人に命を与える働きをします。水が湧き出て川となり、大きな川なるというのは大いなる神の恵みであり、夢のような風景です。それが今日のエゼキエル書の黙示です。黙示は黙示録の黙示で、天の動画と言えます。ただ、聖霊により、信仰によらなければ、真相は見えない、聞こえないというものです。
エゼキエルは祭司の家系であり、バビロンに捕囚されていったユダの民の一員でした。エルサレムが陥落する前と、包囲されている間と、陥落して民が捕囚されてからと、3期にわたって、預言活動を続けていました。その捕囚となって25年目に神々しい「神殿」の幻を見たのです(40:1-2)。神殿は神の国の幻です。神殿は神の恵みの源です。47章1節にこう書きだされています。「彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた」。その恵みの川、命の川は、始め、足首の深さから、ひざに達し、やがて腰、ついには大河となってとうとうと流れていきます。この預言は現実となっていきます。聖霊が弟子たちに降り、その大河は荒野である世界に流れゆくという歴史をたどってきたといえましょう。まさに大河ドラマです。
また、これは霊的な流れです。主イエス・キリストは神の国は近づいたと宣言され、大声でこう言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7:37-38)。
私たちは四国の愛媛の教会で7年、牧会していました。水道代を払ったことがありません。井戸水だからです。西日本で一番高い石鎚山が雨水をたっぷり含み、長い年月をかけて濾過されて、ふもとに湧き出てくるので、かれることはないし、消毒しなくても使えました。上なる神殿の敷居の下から流れ出た命の水は主を信じる者の心の奥底に流れ、そこから流れ出るのだと主が言われたのです。これが聖霊の恵みなのです。

◇どこへ行くのか
 命の川はどこに流れていくのでしょうか。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海にはいる。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる」(47:8)。海は死海のこと、アラバはその死海に至る荒れ地。死海はその名の通り、塩分が25パーセントで生き物が住めない湖。しかし、この命の水が注ぎ込むとその海の水が良くなり、あらゆる生物が生き、非常に多くの魚が住むようになるという幻です。しかも、大海のように、魚の種類も豊富となり、川の両岸は多種の果樹で覆われ、毎月、実がなり、葉も薬となり、命に満ちているのです。
この世は霊的死海です。イエス・キリストが来られ、永遠の命の流れが私たちにおよんだのです。エペソ2:1、5によれば、クリスチャンは罪過と罪の中に死んでいたが、恵みにより信仰によりキリストと共に生かされ、救われたのだと告げています。

 母教会に神学生(修養生)がミッションに来ていました。日曜の夜の伝道会で説教をされ、その中で証詞をされました。自分は校長の息子で、期待されて東大を受験したが落ちた。浪人して再挑戦したが駄目だった。ストレスで酒を飲むようになり、ひどい依存症になってしまい、入院することになった。良くなったので退院し、家路にむかった。電車に乗ろうと駅のプラットホームに立った。売店が目に入るやいなや、店頭の酒に手を出して、一気に飲んでしまった。振出しに戻ってしまった。同じことの繰り返しだった。ある日、すがるような思いで、教会に行った。女性の伝道者が迎えてくれ、福音を聞き、救われた。不思議とアルコールから解放された。その後、献身し、東京聖書学院に入学した。彼はある時、ミッションである教会に行った。訪問するように言われ、一人のおじいさんを訪ねた。貧しく、ボロ屋に住んでいたが、恵まれた顔で迎えてくれた。どうして、そんなに恵まれた顔をしているのかと聞くとこう言ったという。「水は低いところに、低いところに流れるものだよ!」。その言葉が心に染みたと証しされ、み言葉を取りつぎました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(マタイ5:3)。
 神の命の大河は低いところに、低いところに流れていくのです

 豊中泉教会で牧会をしている時に、T姉が三田市に家を建て、引っ越すことになしました。「先生、お言葉を下さい」と言われますので、祈って、このみ言葉が与えられ、三田に送り出すことになりました。「この川が流れる所では、すべてのものが生き返る」(47:9)。定礎式には教会からは牧師と役員とバイオリニストが行き、バイオリンの奏楽で行われ、それがご近所に響き渡りました。家が建ち、家庭集会が開かれると、十数名が集まり、いよいよ教会堂が必要となりました。1998年に古い農家を買い取り、礼拝が出来、集会が出来、牧師が住めるように改装して、開拓を始めました。そのバイオリンの賛美歌を聞いていたというご近所の方が家庭集会に来られ、教会が出来てから、救われ、ご主人も救われました。後に、T姉のご主人も救われ、献身し、今は関東の教会で牧会されています。何人もの兄弟姉妹が加えられて、「この川が流れる所では、すべてのものが生き返る」のみ言葉のように今の教会となっています。
開拓当初の三田市の地図には教会はカトリック教会と日基の保育園が載っているだけでした。しかし、2001年の地図にはもう一つの教会と「三田泉キリスト教会」が、新たに載っていて、最新版もそうなのです。他にも教会はあるのに、農家を改装した、教会らしくない会堂ですのに、なぜなのか不思議です。この周辺には教会はここしかないのですから、この命の川の流れが流れ続けますよう、私たちは祈っています。新年度から、牧師はみのお泉教会と兼牧になります。牧師の数が足りなくなってきた、歴史の流れですが、この時こそ、神の恵みの流れを思い、祈り、主に仕えていきたいと願います。永遠の命の大河はどこから来て、どこへいくのでしょうか。「この川が流れる所では、すべてのものが生き返る」のみ言葉がなおも、実現していきますように…。

わたしは決してあなたを離れず

2018-03-11 00:00:00 | 礼拝説教
2018年3月11日(日)主日礼拝(ヘブル13:1~17)岡田邦夫


「主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。『主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。』」ヘブル13:5―6

 先週、日本ホーリネス教団の牧師たちは召集状をいただき、年会に出席し、最後の聖別派遣式で各地の教会に任命を受け、派遣されました。牧師というのは神の召命を受け、使命をいただいて派遣されていくものです。

◇この世を離れて…二度目をめざして
 教会の原語は召し集められたものという意味で、私たちはイエス・キリストに呼ばれ、召されて、集まってきたのです。毎週の礼拝もそうなのです。初めに招きの言葉、招詞が告げられます。神の招きを受け、集められたのです。そして、礼拝が進行し、最後に祝祷、それは派遣の祈りでもあります。
 また、クリスチャンが使命を終えて、死んで天国に行くのが「召天」です。この頃、終活ということが言われており、それは確かに必要ですが、死んだ後のこと、死後への魂の備えはさらに重要です。このヘブル人への手紙はこう言っています。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(9:27)。しかし、私たちの救いのために、御子は苦難を全うされ、天の聖所の大祭司となられました。そして、ただ一度、入られ、ご自身の血をもって永遠の贖いを成し遂げられました(9:17)。「キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです」(9:27-28)。

◇イエスから目を離さないで…信仰の成熟をめざして
 すでに初臨のキリストによって救われているのですが、再臨のキリストによって、救いは完成するの「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟(完成)を目ざして進もうではありませんか」と勧めます(6:1カッコは口語訳)。これが本当の終末の生き方、終活です。
 成熟(完成)を目ざすにはまず、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」ことです(2:2)。
 そして、いっさいの重荷とまつわりつく罪を捨てるのです。忍耐をもって走るのです(12:1)。この「忍耐」をある英語の聖書はパースィブィランスと訳しています。堅忍の努力というような錬り強さを意味します。それがどんなに
厳しい試練でも得るものがあるので粘り強く耐えるのです。「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」(12:11)。忍耐の先にあるもの、信仰者のゴールにあるものは実に輝けるものです。それに近づいているのです(12:22-24、28)。
  シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、
無数の御使いたちの大祝会、天に登録されている長子たちの教会、
万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、
新しい契約の仲介者イエス、(キリストの注ぎだされた血※)
揺り動かされない御国     ※アベルの血よりもすぐれたことを語る
 このような永遠の都をめざし、さらに、前向きに神に喜ばれるいけにえをささげる生活を勧めます(13:16)。それは…
 兄弟愛をもて。苦しめられている人を思いやれ。不品行を避け、よい夫婦たれ。金銭を愛すな、持っているもので満足せよ。善を行い、分かち合え。異なる教えに迷わされるな。みことばを話した指導者を思い出し、また従え。キリストのはずかしめを身に負え。そして、賛美のいけにえを絶えずささげよ。

◇あなたを離れないで…御国の完成をめざして
 このように永遠の都をめざし、信仰に成熟をめざす聖徒たちを主は私たちのこのような霊的巡礼の旅の同伴者です。「主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。『主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。』」(13:5-6)。
 中学生キャンプでスタッフの奉仕をしている時に、中野雄一郎牧師がこのみ言葉から説教されたのを忘れることが出来ません。先生はご自分の証しをされました。陸上の選手でしたが、昔のこと、16歳の時に結核を患ってしまい、入院しました。もう運動はできないと思うと自暴自棄になっていました。ある朝、ラジオをつけると、たまたま、世の光かルーテルアワーか私、忘れましたが、とにかく福音放送が流れて来ました。この聖書の言葉が少年の乾いた心に入ってきて、気が付いたら、ラジオにしがみついて聞いていたとのことです。それから、教会に行き、救われました。「自分ほど救われて喜んだ人を見たことはない。」と語っていました。そして、『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』は大変強い言葉で、決して、決して、決して捨てないのだと力を込めて、キャンパーに語っていました。「決して、決して、決して…」の響きが私の心に今も残っています。

 イエス・キリストは人に捨てられ、身代わりに罪を背負ったので、神に捨てられました。「わが神、わが神。どうしてお見捨てになったのですか。」と叫ばれ、ついに息を引き取られ、墓に葬られ、ハデスにまで下りました。三日目によみがえらされました。使徒がこう証言しています。「それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です」(使徒2:31-32)。受難による贖いの使命を全うされた御子を父なる神は見捨てられなかったのです。ご自身が見捨て置かれなかったからこそ、決して、決して、決して、私たちをお見捨てにならないのです。
そして、その愛は永遠に変わらないのです。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(13:8共同訳)。


「あしあと」Footprints 
マーガレット・F・パワーズ

ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
私は砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。
それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。
一番あなたを必要としたときに、
あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」
主はささやかれた。
「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。
あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」

信仰によって生きる

2018-03-04 00:00:00 | 礼拝説教
2018年3月4日(日)主日礼拝(ヘブル11:1~12)岡田邦夫


「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(ヘブル12:2)

 先週、こんな夢を見ました。山の手線の日暮里駅を降りて、山の手側の道を、子どものころ、通っていた小学校に向って、歩いているのです。これはパソコンのストリートビューで見た景色そのままです。ところが途中で建物の中の廊下を歩いており、そこは大聖堂の中らしいと思い、駅に引き返そうと建物を出ると迷って辺ぴなところに出てしまって、心配になったところで目が覚めた、という夢でした。どうして、このような夢を見たのか、すぐわかりました。説教の準備のためと思い、寝床でこのヘブル11章を読んで、どう話したらよいのかと悩み、プレッシャーがかかったまま、寝てしまったからだと思われます。
 それから、私の中ではこの章から色々教えられました。大事なのは「迷わず信仰によって生きる」ということだと示されたのでした。

◇信仰を色彩にたとえると…
 まずは基本です。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」(11:6a)。主イエスは、あなたの信仰があなたを直したとか、このような信仰を見たことがないとか、信仰がないのはどうしたことか等と、何よりも信仰が大事なことだと告げています。それは「神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」(11:6b)。その信仰とは、目に見えない、望んでいる事がらを確認し、確信することです(11:1要約)。
 クリスチャンは皆、この同じ信仰に立っています。「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです」(エペソ4:5)。しかし、それぞれは信仰の色合いは多種多様です。「昔の人々はこの信仰によって称賛されました」と言って、信仰偉人伝のように物語っていきます(11:2)。
 豊中泉教会で英会話をしていた時に、イギリスから来ていた教師が良く言っていました。イギリスには雨がよく降り、緑がきれいなので、緑にも色々な名前の緑があるのだと英語で言っていました。そういえば、シャネル口紅を開発しているフランス人が最高の「赤」を求めて日本にやってくるというドキュメントの番組を見ました。京都で江戸時代から続く染屋を訪ねます。そこでは伝統的な植物染により日本古来の鮮やかな色文化を再現することに挑戦し続けています。そこで、紅色、桃色、桜色など、名前がついた50種類の赤を見せられ、ヨーロッパにない深みのある赤に出会い、そのフランス人は感動します。それは口紅などに使われていた「紅」です。これが乾くと光線の加減でわずかに金色に光るのです。この話は続きますがここまでにします。
 信仰は一つ、本質は同じですが、ここの信仰の色合いが違います。信じる個々が違うからです。11章を見ていきましょう。
アベルの信仰から始まり、エノク、ノアと進み、アブラハムの信仰に至ります。「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました」(11:8)。サラ、イサク、ヤコブの信仰の彩りをそえ、こう括ります。「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです」(11:13)。
 次に移ります。モーセの信仰は大輪のコスモスのよう、ラハブの信仰は野に咲く可憐なすみれのよう、同列に並べられています。そして、士師たち、預言者たちの信仰が描かれて行きます。この11章は旧約に生きた信仰者たちが厳しい現実のもとで、神に喜ばれる道を行き、目に見えない、望んでいる事がらを確認し、確信して、人生をかけたのです。それは一本の長い絵巻物のようです。
 ところで、私たちの信仰も色々な色合いがあるようです。何を求めて教会に来られたか、動機は色々で、真理を得たい、安心を得たい、生きがいを得たい、問題を解決したい、あるいは周囲が信仰者でその影響から、信仰を持ったので、信仰もその傾向、その色合いがあるのではないかと、私流に考えています。いずれにしても、それぞれの色合いが違うのですから、互いにその色を認め合い、「配色」の良い信仰者の群れにしていきたいものです。そして、先ほどの「紅」のように、お互いに信仰の色合いを深いものしていただき、御霊によって福音の光を輝かさせていただきたいものです。

◇信仰を競争にたとえると…
 この章の最後に、信仰者のつながりを明確に描いています。「この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです」(11:39-40)。駅伝レースのように、信仰のタスキを私たちは渡され、ゴールに向かって走っていくのです。私たちはアスリートなのです。しかも、神の国あげての応援があるのです。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」(12:1)。そして、これは個人戦というよりは団体戦です。
 この度の冬季オリンピックで話題になったものに、スピード・スケートでパショート(追い抜き)というのがありました。3人一組でスピードを競い合うものです。ところがアイススケートはアスリートだと自動車並みの時速40~50キロぐらいのスピードが出るので、風圧がものすごく、走るのに力がいります。しかし、その後ろにつくと風圧が無くなって、勝戦は日本とオランダでした。オランダ・チームは個々では早い選手3人をそろえてきましたが、日本チームは個の特性を生かしつつ、チームで走る練習を重ねてきたそうです。結果は日本が金メダルでした。個では負けていても、チームでやれば、個が個以上の力を発揮して勝ったというのを私たちは目撃しました。

 信仰の競争もパシュートのように団体戦で、チームワークが勝利の秘訣です。信仰は見えませんから、誰が先で誰が後かというようなことはわかりませんから、とにかく、励まし合っていくことです。向かい風をも受けましょうという気概、遅れていると思われる人への気遣いを持ちたいものです。
 何といっても先頭はイエス・キリストです。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい(「見つめながら」共同訳)。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました」(12:2)。あの「十字架のはずかしめ」の向かい風を全部受けられたのです。
後に続くペテロのために風よけになられたのです。「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ福音書22:32)。その後、使徒たちは無学な普通の人達ですが、イエスから目を離さないで、チームで走りました。ですから、周囲からこう見られたのです。「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た」(使徒4:13)。
 私たちもその後に続き、信仰の競争(馳場・はせば)を走っていきましょう。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました」(12:2)。
楽に走れるというものです。それで、三人縦に並んで滑り、上手く先頭を後退して走るわけです。そして、最後にゴールした選手のタイムが早い方が勝ちです。この度、女子の決

勇気を出しなさい

2018-02-25 00:00:00 | 礼拝説教
2018年2月25日(日)伝道礼拝(ヨハネ16:25~33)岡田邦夫

「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

 冬季オリンピックが終わろうとしています。選手たちの活躍がテレビなどを通して伝わってきて、一喜一憂していた方々もおられると思います。選手の力量や技術が上だったから勝ったのだとか、風や相手の影響とか、心理的な原因で負けたのだとか、クールに見たりする見方があります。一方、とにかく、選手がメダルを取ったのが自分のことのように嬉しいとか、取れなくて残念とか、ホットに見る見方があります。それこそ、一喜一憂です。競技が終わって、勝者も敗者も握手したり、抱き合ったりして、相手の健闘をたたえ、リスペクト(敬意)する姿に感動します。また、メダルが取れようが取れまいが、ハードな練習を重ねてきた選手にエールを送りたくなります。
 どうして、スポーツに興奮するのでしょうか。人それぞれでしょうが、多くは自分の人生に重ね合わせて見ているからではないでしょうか。人生は戦いです。どう勝つかが重要なことです。

◇ホットな意味で「勇気を出しなさい」
 イエス・キリストが私たちを滅びから救うため、身代わりになって十字架にかかって死にに行くのですが、その最後の別れの時、すなわち、過ぎ越しの祭りという祭りの夕食の時のことです。最後のメッセージを弟子たちに語り、その最後の最後の言葉が、これです。
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」。別な訳では「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。
 人生には大なり小なり、患難があり、その患難に悩まされるのが常です。人となられた神の御子が。あなたがたはこの世ではなやみがあると言われるのです。人生とはそういうものなのだと、覚めて言われるのではありません。ご自身が人と同じ姿になられ、同じ経験をし、理解がある、気持ちがわかるという、私たちと同一線上で、お気持ちを込めて言われるのです。
 私、東京聖書学院を卒業し、東京である教会の副牧師をしていました。結婚もし、子どもも与えられたのですが、副牧師で仕えなければならない立場で、悩んでいました。ある時、三多摩のある教会の集会に行くことになり、家内は主任牧師の世話もあるので、子どもを連れていきました。するとその牧師が「ああ、岡田先生!」と迎えてくれたのです。その「ああ」の中に、私達夫婦の大変なのはわかっているという響きに聞こえたのです。励ましを得たのです。後に、その牧師は教団委員長になられました。そして、会いますと、変わらず、「ああ、岡田先生!」なのです。立場をこえて、牧師同士、検討し合っていることにリスペクトしている、敬意を表している様に私は聞こえて、また、励まされるのでした。
 主イエス・キリストはあなたが患難にあい、悩んでいる時、神の御子ですから、敬意ではなく、親心のような思いで、暖かく思っていてくださるに違いありません。主は悩みに勝たせたいのです。

◇クールな意味で「勇気を出しなさい」
 ある、アスリートが優勝した瞬間、「勝った」と叫んだそうです。しかし、それは相手に勝ったのではなく、自分に勝ったという意味だったと言っていました。オリンピックともなればなかなか平常心ではいられない、相当のプレッシャー、精神的重圧がかかります。委縮したり、押しつぶされそうになります。それをはねのけ、勝ったというのですから、大変な精神力です。
 人生で何に勝つかが問題です。イエスは世に勝つことを言われました。単なる世界とか、世間とかいうのではなく、サタン、悪の霊の支配する世です。神に対して、人に対して、悪い思いを起こさせたり、罪を犯させたり、不信仰に落ちいらせたりするのです。しかし、悪いことをすれば気持ちの良いものではありません。良心が痛みます。それは神のささやきです。警告です。神のところに帰ってくるようにとの神の声です。
 いったん犯した罪は消えるものではありません。過去を思い出して、心が痛むのです。それは神の招きです。それは神によって赦される道があるからです。私も若い時、真面目で通っていました。通知表にはそう書かれていました。ところがこれからの人生、どう生きたらいいか、悩んでいた時に、教会に行きました。すると、私の中に、世界の終わる時になされる神の審判で、自分は神の前に立てるかどうか、心配になりました。その後、青春を謳歌していたのですが、一人になると、神の前に立てるかどうか、気になってきて、たまらない虚しさに襲われたのです。
 そんな時に、また、教会に行きました。イエス・キリストがその私の罪を身代わりに背負って、十字架で死んでくださった。悔い改めて信じれば赦されるというメッセージを聞いて、そのまま、信じたのです。そうして、最後の審判の時、キリストにある私は大丈夫なのだと確信したのです。人生には青春の悩み、老後の悩み、色々ありますが、主イエス・キリストはご存じです。しかし、神は私たちの魂の悩み、心の良心の痛みから解放されて、神のみ前に歩むように願っています。
 罪は罰せられなければなりません。罰せられれば解決です。しかし、人が罰せられては滅んでしまいますから、身代わりのいけにえが必要でした。イエス・キリストは私たちの身代わりのいけにえになったのが十字架の死です。ですから、そのことを信じるだけで、赦しをいただき、救われるのです。世に勝ったのですとはそのことです。
 そうして、根本的なことが解決すれば、本当の勇気をいただけるのです。背伸びをしなくても勇敢に生きられるのです。

試みに合われた大祭司

2018-02-11 00:00:00 | 礼拝説教
2018年2月11日(日)主日礼拝(ヘブル4:14~5:10)岡田邦夫


「私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」(ヘブル4:14)

 アメリカに行くのを渡米、外国から来た人を渡来人、渡ると書きます。海を渡るからです。イスラエル人の別名「ヘブル人」は「(ユーフラテス)川の向こうからきた者」を意味します。川を渡ってきた遊牧民ということです。きょうお話しするヘブル人への手紙のヘブル人はユダヤ人を読者に想定していると思われます。手紙の趣旨はユダヤ教に比べてキリスト教がはるかに優れているということです。
 「我、太平洋の橋とならん」は新渡戸稲造の使命でした。それにしても太平洋は広く、当時は船での渡米は遠かったです。その架け橋になるなどとは大胆な志でした。しかし、もっと、遥かに遠いのが天の神に対する地の人です。その架け橋となるのが「祭司」です。旧約聖書ではその祭司たちの代表が大祭司です。それに対して、イエス・キリストは完全な「大祭司」だとこの書は主張しているのです。

◇御子の接近
 御子イエス・キリストはいかに優れた方であるかを書き進めていきます。 まず、御子によって世界は造られたのであり、御子は神の本質の完全な現れであり、御子の言葉が万物を保っているのであり、御子は罪のきよめを成し遂げ、「すぐれて高いところの大能者の右の座に着かれ」たのです(ヘブル1:2-3)。
 天には御使いたちがいますが、御子は御使いより遥かにまさる方です(1:4)。御子は万物をしたがわせ、み使いにも仕えさせる方ですが、「み使いよりも、しばらくの間、低くされた」のです(2:9)。そして、御子イエスは私たちを救うために、死なれたのです。しかも死の苦しみをすべての人のために味あわれ、その苦しみを全うされたのです。神が多くの子たちを栄光に導くためでした。それゆえに、御子は栄光と誉れの冠をお受けになったのです(2:9-10要約)。そうして、「聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」と言うのですから、それはそれは圧倒的な恵みです(2:11)。天の神と地の人に架け橋ができたのです。
 重ねて告げます。「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです」(2:17-18)。
 私たちにこう命じます。「そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」(3:1)。「考えなさい」は口語訳は「思いみるべきである」。原語の意味合いでは両方あるようです。このような「大祭司」のことを頭でしっかり考え、心で深く思いみることです。
 牧師や神父は聖餐の時にガウンを着ます。中には派手なものもあります。宗教的心理から、そうしているのかも知れませんが、このヘブル書から言えるのは福音書を読むとイエスは派手なことが一つもないのです。ユダヤ教の大祭司のような祭服も着ていないのです。ガウンは見せるものではなく、身を隠すものです。牧師の人間的な姿を隠し、大祭司を思いみるようにするためです。

◇聖徒の接近
大祭司、イエス・キリストのことを頭でしっかり考え、心で深く思いみるだけでなく、「近づこうではありませんか」と勧めます。
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(4:15-16)。考えて、思いみて、素晴らしい恵みと分かるだけでなく、事実、今、なんのためらいもなく、自分のダメさ加減もわかっていながら、大胆に恵みの御座に近づけるとは何ともありがたい、嬉しい、安心できるものです。
それは大祭司ご自身が罪のために、ささげ物としていけにえになられたからですし。「彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです」(5:1-2)。私のどんなことでも、何でもかんでも思いやってくださる。ああ、何という愛でしょうか。
まだ、あります。「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです」(5:7-10)。メルキゼデクはアブラハムのところに出てくる祭司で、永遠の祭司という意味で使われています。
最も低い私たちに近づかれた大祭司は、最も高い神の右におられるのです。イエス・キリストが十字架につけられた時に隣の犯罪人が求めると「あなたはきょう、パラダイスにいます」と引き上げられました。大祭司は最も低いところから最も高い所までひきあげる架け橋になられたのです。
「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(4:15-16)。

大能の力によって

2018-02-04 00:00:00 | 礼拝説教
2018年2月4日(日)二か所礼拝(エペソ6:10~20)岡田邦夫


「邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。」(エペソ6:13)

 最近、外国人が日本に来て、他の国に比べて日本人の規律のよさに感心する様です。明治時代、同じような質問をされて、書かれたのが新渡戸稲造の「武士道」。旧5000円札の人。彼は「少年よ、大志を抱け」で有名な札幌農学校を出た人でクリスチャン、留学中に出会ったメアリーと結婚します。その奥さんや周りの人から「日本は宗教教育がないのに道徳観念を持っているのはなぜか?」と聞かれ、即答できず、書き上げたのが英文の“BUSHIDO”(武士道)。翻訳されて今なお読まれている日本人論です。武士はいなくなったけれど、その精神性というのは規律の良さなど、今も広く私たちに引き継がれている様です。
 今日は日本人論を述べようとしているのではなく、その中の一点だけを参考にしようというものです。源頼朝が鎌倉幕府を開いた時より、武士が世の中の中心に躍り出ます。武士は戦う事が専門、しかし、世の中の中心に立って勝手しては社会が成り立ちません。そこで確立されていったのが、今でいうフェア・プレイの精神、武士道という道徳律です。そもそも、武士は戦うものであり、守るものであることが前提です。そのように私たち、クリスチャンも神の国の中心に躍り出たものです。

◇守るべきもの
 では、私たちは何を守り、何と戦うのか、エペソ人への手紙から学びたいと思います。私たちは世の造られる前から神に選ばれており、イエス・キリストの贖いにより救われ、神との和解がなされ、神の国を継ぐものとなりました。神のご目的はそれらの者たちが一つになることです。ですから、教会はイエス・キリストにあって一つのからだであり、それゆえ、一致を目指さなければなりません。多様性を持ちつつの一致です。そうさせない、私たちの罪深さがあります。そうさせてくる元凶、すなわち、私たちのほんとうの敵を知ってこそ、守れるというものです。

◇戦うべきもの
サタンです。「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」(6:10-12)。エデンの園で「これを食べると神のようになるぞ」というサタンに誘惑にエバとアダムは負けました。初代イスラエルの王サウルは神の声に従わずサタンの声に従い、敗北しますが、その逆が次期王ダビデでした。イエスの弟子、イスカリオテのユダはサタンに魂を売り渡し、主を裏切ってしまいます。他の弟子たちは揺れ動くものの、守られて、主の御声に従っていき、使徒の働きをしていきます。
敵は隣にいるのでも、前にいるのでもなく、上にいるのです。天にいるもろもろの悪霊です。それを意識すべきです。バニヤンの「天路歴程」はクリスチャンという名の者が様々な誘惑をくぐり抜けて天国に行くという寓話です。信仰者の人生はサタンの策略を見抜いていく、賢く生きていくものではないでしょうか。

 パウロはサタンに弱い私たちに策を教えます。「ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい」(6:13)。御国の「武士」としての最強の武具が神から提供されます(6:14-17)。「では、しっかりと立ちなさい。
 腰には真理の帯を締め、
胸には正義の胸当てを着け、
足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、
信仰の大盾を取りなさい。…悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
救いのかぶとをかぶり、また
御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
これが武装したキリストの武士です。
この中で、サタンは神の言葉を最も恐れます。イエスが公生涯に入られるときに40日断食した後、サタンの試みに合われます。その時、主は御言葉を突き付けました。3つの誘惑にそれぞれ「~と書いてある」と言って勝利しました。サタンは私たちを傲慢にさせるか、落胆させるか、生ぬるくさせるか、あの手この手です。ですから、聖書を愛読し、その中のみ言葉を信じ、覚えるとよいでしょう。み言葉によって、傲慢が謙遜に、落胆が確信に、生ぬるさが熱心に変えられるでしょう。

 弱い私たちはとにかく何つけても、祈ることです(6:18)。「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい」。パウロは自分も祈ってほしいと書いています。私たちは祈ってもらうことも必要不可欠です。
「邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい」(6:13)。