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オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

「敬天愛人」(けいてんあいじん)

2018-01-28 00:00:00 | 礼拝説教
2018年1月28日(日)伝道礼拝(マタイ5:43~48)岡田邦夫

「敬天愛人」(けいてんあいじん)
「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:43~44)

今回のNHK大河ドラマの主人公は西郷隆盛。彼が好んで書いた「敬天愛人」は聖書の「あなたの敵を愛しなさい」に大きな影響を受けたのではないかという見解があります。長崎大学附属図書館には西郷が読んだと推測される「新約全書」が納められています。
 会津戦争において、庄内藩等は政府軍に敗れ、鶴ヶ城は落城。総司令官の西郷は荘内藩主の切腹をとどめ、ロシアからの攻撃に備え武器は持っているようにと指示した。彼の器の大きさに感嘆したとか…。「敵となり味方となるのは運命である。一旦降伏した以上、兄弟と同じと心得よ」と言ったという。そういう彼の言動から、新約全書を読んだと推測されるのでしょう。
 120年前になりますが、内村鑑三が日本人を海外に知らしめるために英文で「代表的日本人」を書きました。そこに西郷隆盛をあげてこう記しています。「敬天愛人の言葉には、キリスト教でいうところの律法と預言者の思想が込められており、私としては西郷がそのような壮大な教えをどこから得たのか興味深い所である」。「西郷にとって、天は全能であり、不変であり、きわめて慈悲深い存在であり、天の法は、守るべききわめて恵み豊かなものとして理解していたようだ」。
 以上はあくまで推測ですが、明治維新において、西洋文明を取り入れようとした時、キリスト教の影響があったことは皆さん、ご承知のことです。


◇素晴らしきかな、愛の教え
「敬天愛人」の元だと推測されている聖書を見てみましょう。「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」。究極の倫理道徳です。理想です。これが世界中で実行されれば、争いも戦争も無くなるでしょう。
この言葉には続きがあります。「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」(5:45)。自分を愛してくれる者を愛するのはあたりまえ、敵をも愛するのが神の子なのだと言うのです。実に良いことを言っています。敬天父、慈愛に富む天の父を敬えばこそ、人を愛せる、赦せる、祈れるというわけです。
これはイエスが丘で話されたので、山上の垂訓と言います。この垂訓は多くの人に愛されてきました。新約聖書を開いて、最初の系図、読みにくいので躓きますが、この垂訓にくると良い教えだな、最高の教えだなと思うのです。そして、奇跡などは躓く人もいます。それで引き戻して、山上の垂訓に行くのです。維新以降の知識人にはそのような人が結構いるようです。私、若い日に友人の影響で、ロシアの文豪、巨大な魂とも言われたトルストイに憧れたことがありました。ある時、新聞にその翻訳者がトルストイからもらったという新約聖書が紹介されていました。ロシア語ですが、山上の垂訓にはいっぱい線が引いてあり、ほかは愛などもアンダーラインが引かれていました。
山上の垂訓はそのように人を引き付けるものがあるのです。感心するのです。こうであったらいいのにと憧れるのです。

◇素晴らしきかな、愛の奇跡
 ところが、現実の世界をみると、垂訓のようにはいかないと躓くのです。世の中は真逆だと思わされ、失望し、あきらめたりするのです。敵をも愛せよと言って、そうはいかない世界情勢であり、世の中であると思い知らされるのです。垂訓が高い規範だからです。しかし、その目が自分に向くようにと聖書は迫ってきます。私自身はというと、友人とキリスト教の集会に行ったことがきっかけで、聖書を開いてみるとそのような心境になっていきました。世の中の濁流にはのまれたくないと思って、周囲を批判し、悲観していました。ところが、山上の垂訓を求める気持ちで読んでみると、ショックでした。
 「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。…偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます」(7:1-5)。自分は人を裁いていた。自分のことを棚に上げ、梁があるのに、人のちりを大きく見ていた。偽善者だ。そう思わされ、押し出されるようにして、教会に求めて行きました。赦されなければならないのは自分であるので悔い改め、赦してくださるのはイエス・キリストであることを信じ、救われました。
 私の姉は銀行に勤務しながら、あるグループで勉強会をしていました。ところがそのグループの一人の女性がある理由で自殺してしまいました。それがショックでグループは解散しました。姉は求めて富士見町教会という教会に行きました。母親は教会に行くのは反対でした。しかし、姉は見合いをして、結婚。教会に行かなくなりました。後に、その母親が晩年、クリスチャンになり、立場が逆転。その母の影響で、姉は坂戸教会で受洗しました。
今日、お話しするのは富士見町教会でのことです。」
ある職場にいたaさんとbさんは仲の良いOLでした。ある日、aさんがコンテストに応募したところ「ミス青森」に選ばれました。すると職場の空気は一変、ミス青森で盛り上がり、aさんはちやほやされます。bさんは嫉妬心が抑えきれず、トイレに呼び出し、aさんの顔に硫酸をかけてしまったのです。aさんは入院。皮膚移植をするも、醜い顔になってしまいました。電車に飛び込んで死んでしまおうと思いつめたのですが、病室の窓から外を見ると教会が見えたので、夜、病室を抜け出し、訪ねました。迎えたのは島村亀鶴牧師。事情を聞いて、こう言いました。「醜いのは顔ではありません。心です」。そこから、悔い改め、イエス・キリストを信じ、救われます。洗礼式の時、牧師は聞きます。「bさんを赦せますか」。会堂はシーンとなり、会衆は息をのみます。彼女の口から「赦します」。洗礼式は感動でした。
刑務所にいるbさんに自分が罪ゆるされたようにイエスを信じてくださいと何度も手紙を書きましたが、返事は皆無。しかし、出所後、再開した時のことです。bさんは恐るおそる言います。「あなたが手紙を何度もくれたのは、私を誘い出して殺すつもりなんでしょう。私にはもう前途の希望もありません。殺すなり、何なりとあなたの思う存分に、したいようにしなさい」。bさん、必死に言います。「それは違います、わたしは本当にあなたを赦しています」。それを聞いて、Bさんに大粒の涙があふれ、ワーっと泣き出し、「どうか赦して下さい」とaさんの胸にすがったのです。その後、二人は一緒に住み、一緒に教会に行くようになったのです。

 これは考えられない奇跡です。赦せないものを赦すというのは人にはどうしても出来ないことです。しかし、人は創造者の顔に泥を塗るような、硫酸をかけるような罪を犯しています。聖なる神には赦せない存在です。その赦せない御思いを御子イエス・キリストにぶつけられたのです。それが十字架。その苦しみの中で敵を愛し、迫害する者のために祈られたのです。神の敵であった私たちのために「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」ととりなしをされたではありませんか。そして、死後、復活、昇天。全き赦しがなされたのです。
 この神の愛が身に沁みれば、敬天愛人、自分の敵を愛し、迫害する者のために祈るという福音の奇跡がおきていくのではないでしょうか。

キリスト者にふさわしく

2018-01-21 00:00:00 | 礼拝説教
2018年1月21日(日)主日礼拝(エペソ5:1~8)岡田邦夫

キリスト者にふさわしくキリスト者にふさわしく
「愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」(エペソ5:1~2)

アニメーション映画「この世界の片隅に」がヒットしました。呉及び広島を舞台に戦時のなか、悲惨な状況にもかかわらず、けなげに美しく生きる女性の物語です。原作者は世界の片隅の片隅に生きた一人の人を描きたかったと言っていました。そこには何も負けない人間の尊厳を思わされます。私たち、キリスト者は世の片隅に生きているのかも知れませんが、神の国においては尊厳をもって生かされているはずです。
パウロの手紙は前半が恵みの教理で、後半がそれに基づく倫理という構成になっています。両者を分けてはならないし、その順序が大切だからです。エペソ人への手紙は特にはっきりしていて、1~3章が教理、4~6章倫理です。

◇召しにふさわしく
 教理から倫理に展開するつなぎの言葉に注目してみましょう。4章1節「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい」。主の囚人というのはパウロがその身が投獄されてはいるが、異邦人宣教のためキリストに心が囚われているという意味でしょう。「召されたあなたがた」なのだから「その召しにふさわしく歩みなさい」なのです。どう召されたのでしょうか。世界の基の置かれる前から、選んでくださり、きよい神の子にしようと定め、御子の贖い、赦しという天からの大いなる恵みをいただいたのです。神のご計画は天にあるものも地にあるものも一つに集めること、言い換えれば、すべての者が一つになり神の家族となり、キリストをかしらとする一つからだ、教会となることです。
 これでもかと強調します。「からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです」。だから、「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい」(4:2-3)。
 ところが、ひとりひとり違うわけですから、「私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました」(4:7)。「それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです」(4:14 -15)。キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられ、ついに、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。この大目標、大目的のため、私たちは召されたのです。「その召しにふさわしく歩みなさい」なのです。

◇愛されている子どもらしく
 もう一つ、つなぎの言葉に注目してみましょう。5章1節「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい」。神に倣うなど、私たちにはとてもおよばないことです。何かにたとえるものが見つかりません。特殊なことです。いいかどうかわかりませんが、美智子さんは一般人から、皇太子と結婚されました。憲法では天皇は象徴の勤めがあり、皇后もそれにふさわしい生き方をしなければなりません。国民の模範的振る舞いが求められます。私たち、キリスト家に召され、キリスト家の皇太子の資格が与えられ、神の国を継ぐものとなったのですから、それにふさわしく生き、ふさわしい振る舞いが必要です。
 ここでは古い生き方を捨て、新しい生き方をしなさいと告げます(4:21-24)。偽り、憤りを捨てよ。悪魔に機会を与えるな。盗むな、施せ。人の徳を高めよ。聖霊を悲しませるな。「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」(4:32)。聖徒にふさわしくあれ。今の機会を生かせ。聖霊に満たされて、賛美せよ。神に感謝せよ。「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」(5:1-21要約)。

 多義に渡って言われていますが、その中心は「愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました」(5:2)。そのひとつの側面を述べましょう。パウロの生き方です。3章7~8節 「私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられた」。聖徒たちのうちで一番小さな私という立ち位置に立つことです。そうです。イエス・キリストは小さくなられたのです。馬小屋で生まれました。大工の子として育てられました。辺境の地、何のよきものが出ようかという、ガリラヤで伝道されました。貧しい者、病めるものと共に生き、活かしました。最後の晩餐で弟子たちの足を洗いました。ユダヤの当局に犯罪人にされ、ピラトの前で死刑を宣告されました。ゴルゴダの丘で2人の犯罪人と共に十字架刑に処せられました。誰も助けてはくれず、私たちの罪を身代わりに負われたので、神からも見捨てられました。息を引き取り、黄泉にまで下りました。とことん小さくなられ、仕えてくださったのです。すべては愛から出たことでした。それゆえ、死からよみがえらされ、神の右にまで引き上げられました。
 神の国の逆説です。小さい器にこそ、計り知れない豊かな恵みが満ちて、それを誰かにお届け出来るのです。愛の逆説です。私、求道中の時、有名な「キリストに倣いて」を読んで、そんな高尚な生き方に憧れましたが、それは私には遥か届かない生き方でした。しかし、神の皇太子にしていただいたということがどんなに素晴らしい恵みかを思うと、それにふさわしく生きたいと思う自分に気付きました。とても、シンプルなことです。「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい」(5:1)。

共に天上で座につかせて下さった

2018-01-14 00:00:00 | 礼拝説教
2018年1月14日(日)主日礼拝(エペソ2:1~10)岡田邦夫

「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」(エペソ2:5~6)

 「ありがとう」を漢字で書くと、有と難で「有難う」という風になります。元々は、読んで字のごとく滅多にない、珍しくて貴重だ、という意味の「有り難し」という言葉でした。「有り難し」とか「有り難き」といった言葉自体の歴史は古く、平安時代の随筆「枕草子」において「ありがたきもの」というのがありますが、これは上述の「滅多にない」という本来の意味に近く「この世にあるのが難しい」という意味で使われておりました。
 私たちがいただいた救いの恵みというのは、本当にあり得ないこと、有り難きこと、感謝しても感謝しきれないことです。それを言っているのが今日の聖書です。

◇神の怒りの下で…罪過と罪との中に死んでいた
 テレビで何かのテーマで番組が進行し、「ことの真相は…」「驚愕の事実が…」と見せ場を作っているものがあります。しかし、私たちは他人事ではなく、私たち自身のこととして、イエス・キリストによる救いの出来事が驚愕の事実なのです。毎週、礼拝ごとに語られていくべきものなのです。エペソ人への手紙2章にスポットライトをあてて見てみましょう。
 まず、神の目から見た人間の霊的な現実は実に悲劇的なのです。何とも気付かずかずに生きていますが、身震いするような恐ろしい状況に置かれているというのが神の前の人間の真相です。すでにクリスチャンになった者たちに以前はこんなだったと告げます(2:1-3)。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊(サタン)に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」。
 サタンに従い、神に対して不従順であり、神に反逆し、自己中心に生き、神の怒りを受け、滅びに向って生きている、霊的には死んだ者でした。最悪の状態でした。受け入れがたいけれど、それが事実でした。

◇神の愛の中で…復活して天上に座している
 次の衝撃の事実は神の愛です(2:4-5)。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―」。私たち人間が絶対許せないとカンカンに怒っていて、その人を愛せるでしょうか、許せるでしょうか。しかし、神は計り知れない大きな愛をもって、十字架において、私たちの罪をお赦し下さったのです。それが計り知れない恵みです。あわれみです。
母から聞かされたことです。私の父は早く両親に死に別れ、親戚の家にあちこち養子に行くのですが、落ち着かない。そこで、職を手に付けさせ、板前になります。仕事が終わると花札賭博にふける。借金が重なると、包丁一本と風呂敷包みで夜逃げをし、次の店に行くという有様。ひと一旗揚げようと、英会話の本を懐に入れて、横浜港から密航しようとしたら、親戚に見つかり、呼び戻される。それを知った馴染みの客、岡田というかくしゃくとした女性が現れた。「銀ちゃん、小石川にうなぎ屋をだしな。嫁さんも世話するよ」。口を出したが、金も出してくれた。場所が良くなくて、店はたたむことに。決心した。養子にしてくれた彼女の経営する工場で地道に働こう。あれだけきれいにしていた手は、石鹸であらっても落ちないほど真っ黒になった。
ふてくされて生きていて、親戚のやっかいものだった自分を拾い上げてくれた彼女の愛情を生涯忘れることはなく、神のように手を合わせていた。私がクリスチャンになって、伝道しましたが、そちらの思いが強すぎて、受け入れてはくれませんでした。残念でしたが、愛は人生を変えるのと知らされました。まして、神のどれほど大きな愛で私たちを愛しておられるでしょうか。
 さらに、ここには思いもよらぬ救いの事実が述べられているのです(2:5-6)。死人がよみがえるなど、人類史上、それこそあり得ないことです。ところが、主キリストは死人の中から栄光のからだよみがえり、天の神の右に座られたのです。それは天にお帰りになっただけではなく、私たちをともなうためでした。驚きの真正の救いです。「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」。

◇神の御霊の中で…神の作品、み住まいになる
 以上は自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではなく、恵みのゆえに、信仰によって救いをいただいたのです。
では神にとってはというと、「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです」(2:10)。レオナルド・ダ・ヴィンチが、死ぬまで手放さなかった絵が3枚ありました。「聖アンナと聖母子」「モナリザ」「洗礼者ヨハネ」です。お気に入りだったのでしょう。私たちはイエス・キリストによって造られた神のお気に入りの作品です。決して、手放さないのです。
 父は血のつながりではない養子になりました。法的に親子でした。イスラエルは神に選ばれ、契約が結ばれ、神の民となった民でした。契約の民としての約束があり、律法(割礼を含む)がありました。神に近いものでした。その意味で私たち異邦人は神に遠いものでした。「しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです」(2:13)。この両者を隔てている規定(古い律法)という壁をご自身の犠牲をもって打ちこわし、敵意を廃棄され、平和の関係に導かれたのです。私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです」(2:18)。実に神の家族です。
 また、私たちは、キリスト・イエスご自身を礎石にし、使徒と預言者を土台にし、キリストにあって、組み合わされ、成長し、主にある聖なる宮(神殿)となるのです。「御霊によって神の御住まいとなるのです」(2:22)。もはや神の怒りはまったく消え、神の平和が満ちた、神にとって、居心地の良いみ住まいとなるのです。聖にして、無限の神がどうやって住まわれるのでしょう。私たちには不思議でたまりません。驚愕のみ業が進行中なのです。
 まずはこの大いなる恵みを知ることです。そうするとそれにふさわしい生き方が出来ていきます。パウロの祈りを私たちの祈りとしましょう。「また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」(3:17b-19)。

キリストのからだなる教会

2018-01-07 00:00:00 | 礼拝説教
2018年1月7日(日)主日礼拝(エペソ1:15~23)岡田邦夫


「神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:22~23)

 教会の辺りは人家が少ないので夜はたいへん暗いです。先週、家内と二人で冬の寒さが身に染みながら道を歩いていて、東の方を見ると、相野の山のうえに大きな満月がまばゆく輝いていました。暗いからこそ、輝きがわかるのです。
 今から三百数十年ほど昔にイギリスに貧しい家庭に生まれ育ったバニヤンという人がいた。ピューリタンの影響をうけ、熱心だったため、牧師でないのに説教をした。それらの理由で、三回にわたり牢獄に入れられた。合わせると十二年半もの獄中生活。その時に書いたのが「天路歴程」、キリストを信じる者がいかにして、罪ゆるされ、力を与えられ、守られ、導かれて天の国へと歩んでいくか、その歩みを書いたものである。これは聖書についでよく読まれた作品である。
 パウロは復活のイエス・キリストに出会って回心し、異邦人使徒に召されます。バルナバに目をかけられ、伝道旅行が始まり、教会から遣わされ、小アジアからヨーロッパへ伝道旅行を展開していきました。そして、騒乱罪で訴えられますが,彼がローマ市民権を持っていたので、囚人船に乗せられ、地中海を渡り、ローマに到着、そこで獄中生活を送ることになります。その獄中で書いたのが獄中書簡と呼ばれるエペソ、ピリピ、コロサイにあてた手紙です。獄中からでありながら、いえ、獄中からだからこそ、天にも引き上げられるような霊的に格調の高い書簡です。アメージング・グレイスな書です。

◇歴史を超えて
 囚われの身で自由ではないけれど、瞑想は自由、そこに神の啓示がくるから、遠大な話になってくるのです。手紙は織物を刺繍のように織って綴っていくようのです。まず、挨拶の「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」が横糸とすれば、縦糸は「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように」です(1:2-3a)。恩恵の糸と頌栄の糸です。
① 過去(1:3b-6)
まず、恩恵というのが計り知れないのです。どんな億万長者にも勝る天来の祝福なのです(-5)。「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」。その救いの祝福に与った私たちは創造の前から選ばれ、意図されたことだった言うのですから、驚きです。「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです」。
 そして、頌栄「それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです」(1:)。
② 現在(1:7-11)
神の豊かな恵みによって、「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けて」おり、奥義を知らされています。それはキリストにあっての神の立案であり、時が来ると実現するというもの。天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです」。
そして、頌栄「前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです」(1:12)。
③ 未来(1:13-14)
「あなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます」。「これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです」。


◇常識を超えて
 パウロが受けたこの大いなる啓示の言葉があまりにも遠大過ぎるので、知恵と啓示の御霊が与えられて、心の目が開かれ、よくわかりますようにと祈ります。彼自身も「目からうろこ」、聖霊によって開眼した経験があるからでしょう。「神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを」(1:18-19)。

◇個人を超えて
 救いは個人的です。一人一人が信じて救われ、天に名が記されるのですが、教会の一員になる、神の家族になるのです。年末の25日に病床洗礼を受けられ、28日に召天された方の葬儀がありました。家族葬ということでしたが、教会員も参列致しました。信じてから4日間ですが、三田泉教会の会員、イエス・キリストの血でつながった神の家族です。そう意味では、地と天の家族葬だったとも言えましょう。
 これまで、「私たち」「私たち」と繰り返し、言われてきました。一人の私であり、全体の私たち共同体です。教会という共同体、キリストをかしらとするそのからだである命の共同体です。かしらは天に属する方です(1:20-21)。「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました」。
 教会はというとかしらとは切っても切れない結びつきをしているからだです(1:22-23)。「神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」。
 先ほどの方が受洗できたのは、長男であるクリスチャンがどれほどお母さんのために祈られたでしょうか。それと共に一度もその方にはお会いしたことない三田泉教会員が祈り会などで心を合わせて祈ってきました。召される間際で当人の意志で受洗されたのはキリストをかしらとする教会の祈りを神がお聞きになられたのです。式文の葬儀の祈りにこうあります。「あなたは……を母の胎に宿る前から選び、時を定めてこの地上に使命を与えて生れさせ、その生涯を祝福して導いてくださいました。またあなたは深い摂理のみ手に導かれ、…救いに与り…」。91歳の最後の最後の時、イエス・キリストの神が奇跡を起こされたのです。人にはできないことをされたのです。私たちは欠くもあり、弱さもある普通の人間です。しかし、キリストをかしらとする天につながっている、からだなる教会共同体です。上にも横にもつながっていて、過去にも未来のもつながっているのが、キリストのからだなる教会です。いっしょに霊の目が開かれて、救いの奥義がどれほど素晴らしいものかが解るという共有体験をしていきましょう。いっしょに祈り、奉仕をし、神の御業を共有体験をしていきましょう。そして、いっしょに私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえてまいりましょう。

新しい歌を主に向かって歌え

2018-01-01 00:00:00 | 礼拝説教
2018年1月1日(日)元旦礼拝(イザヤ42:10~13)岡田邦夫


「新しい歌を主に向かって歌え。地の果てから主の栄誉を歌え。」(イザヤ42:10共同訳)

 新年あけましておめでとうございます。新年で何がおめでたいのかと、正月気分に浸りながら、おちょくる人がいます。かつて、数え年という年齢の数え方があって、1月1日にみな一斉に一つ年をとるという風習です。暦が新しくなったことよりも、人の年が新しくなった、ここまで皆、生きて来られた、もう一年一緒に生きていきましょうという意味合いで、「新年齢おめでとう」だと思います。
 牧師は定年延長年、サッカーなら勝負がつかなかったので、延長戦。それでも勝負がつかなければ、PK戦になる。はたしてどうなるか、やってみなければわかりません。昨年、励まされた書がありました。105歳で召される7ヵ月前に一か月の間(昨年の今頃)、インタビューをされたものが本になった、日野原重明さんの「生きていくあなたへ」です。死に行く人が生きていくあなたへのメッセージというものです。その最後のことばが一編の詩のようでした。私、それを通して思いめぐらしてる時に与えられたのが、このみ言葉です。「主に向かって新しい歌を歌え」。

◇永遠の命
 日野原さんは「命の授業」を全国の10歳の子供たちにしてきました。子どもに問います。「命はどこにあると思う?」色んな答えが出て最後に先生は伝えます。「命というのは君たちが使える時間の中にあるんだよ」。そして、その時間を人のために使うように、時間が終わった時神様の天秤にかけられ、人のために使った時間が多い人が天国に行けるんだよ…と。そうして、先生は「命」のことを伝えて来られました。
 命というのはいつも新しくされているものです。昨日の私と今日の私では、ずいぶん細胞が新しくされているので、違うものです。命の特質は新しさといえます。信仰も生きたもの、たえず新しくされていくのです。そこに新しい歌が生まれるのです。主日礼拝ごとに、信仰の旅路において「主に向かって新しい歌を歌え」なのです。福音の伝道師パウロは強調しています(ガラテヤ6:14-15)。「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です」。大事なのは新しい創造、信仰者が十字架によって新しく造られていくことなのです。
 愛の宣教師ヨハネは誰でも新しく生まれなければ神の国に入れないと言い、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)。この永遠の命も新しさなのです。
 召されゆく日野原さんの最後の言葉は“クラークさんは「ボーイズビーアンビシャス」という「言葉」を遺して北海道を去ったけれども、私は「キープオンゴーイング」。この「言葉」を若い人と一緒に、みなさんと一緒に口にして、みなさんと一体化して行動すること。感謝な気持ちで、キープオンゴーイング。…さらに、前進また前進を私達は続けなくちゃならない。喜びと感謝でキープオンゴーイング。(p208-209)”
 永遠の命は無限に動く自働機械ではない。永遠に向かって新しくされていく命なのです。だから、新しく歌い続けるのです。


◇主の晩餐
 命の源泉は食事、活動、休息です。信仰の命を新しくするのも食事、活動、休息です。食事はみ言葉の糧、霊の糧。活動は礼拝、奉仕。休息は安息日、静思の時などです。それらは習慣化されるとともに、その都度、新鮮な思いでのぞんでまいりましょう。重要なのは新しく造られることです。新しい歌を歌うことです。
 ままた、日野原さんの言葉を借りましょう。“苦しみが強かっただけに、今の感謝は以前の感謝よりも何倍も何倍も大きなものとして、私をリバイバルさせてくださった。リバイバルの思いが、私にとって大きな自己発見ですね。苦しみを越えていくそのダイナミックさっていうのを、感じるのです。それが大きな自己発見。(p193-194)” リバイバルは生き返り、信仰復興です。苦難を通して、その思いにかられるのです。
 ではそのリバイブされる源泉は何でしょう。主の晩餐です。最後の晩餐の時に弟子たちにパンを差し出し、これはわたしのからだであると言われ、ぶどう酒を差し出し、これはわたしの血であると言われ、弟子たちがそれに与ったのです。後々、記念として行うよう命じられたのが聖餐式です。それでカトリック教会は聖餐を中心のミサをし、プロテスタントは聖餐の意味するところの福音の言葉を中心として礼拝をしています。
 どちらも重要なのはイエス・キリストが最も重要なのは十字架と復活の福音であり、そこからずれないように、そして、絶えずそこから永遠の命に預るようにと命じられたことだと思います。形においても、言葉においても、十字架と復活の福音に与り、信仰が絶えずリバイブされることを主がお望みなのです。
 私、中学年の担任の先生には良くしてもらいました。私はめだたないぞんざいですから、友達からは「岡田、生きてるか」と声をかけられ、通知書には書きようがないので「真面目」の一言。でもその先生は違っていた。クラスで学習部を作ると言われ、私は数学部に選んでくれた。数学の問題を見つけてきて、それをプリントしてクラスに配るというもの。そんな風なのでクラスのみんなは生き生きしていた。牧師になってから、その先生がクリスチャンだったことを知りました。夜勤になると、校舎の屋上で聖歌「カルバリ山の十字架」を涙を流して歌っていたと言います。きっと生徒の一人一人のため祈っていてくれたに違いない。それで生徒の個性が読めていたのに違いないと思います。かなり想像ですが、いずれの日にか生徒の誰かが信仰を持つように祈っていてくれたので、私は救われたのではないかと思いめぐらすのです。何しろ、主の十字架の福音に涙する方ですから…。そこに源泉をおいておられた聖徒だったから…。
 新しい歌は十字架と復活の福音に与るところから、湧き出てくるのです。2018年の私たち、新しい歌を主に向かって歌いましょう。
「新しい歌を主に向かって歌え。
地の果てから主の栄誉を歌え」。



神はすべてを益に

2017-12-31 00:00:00 | 礼拝説教
2017年12月31日(日)年末感謝礼拝(ローマ8:26~30)岡田邦夫

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)

 ローマ人への手紙は金の指輪のようなものだ。そして、8章は宝石のダイヤモンドのように輝いているとある人が言いました。しかも、この章の終わりの方は最高潮、クライマックスという印象を受けます。年末感謝で導かれた「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」というのも計り知れない祝福の言葉です。そのことを「私たちは知っている」というのも恵みです。

◇経験知
 神は最善以下をなさらないという言い方に私は違和感を覚えます。以下というのはそれ自身を含むので、むしろ、神は最善しかなさらないと言った方がいいと思うのです。「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」は当然なのですが、私たちがそれを「知っている」というのが重ねて素晴らしいことです。
 今年を振り返って、どんな神がすべてのことを働かせて益としてくださったことがありましたか。私は思い出すのが、9月の四国聖会の御用に行く時のことでした。台風が日本を横断するコースになってしまって、飛行機は飛ばない、電車も不通で行けそうにない。当日の夜中に車で行けば、行けるかのせいがある。チャレンジをした。朝4時半に出発。通行止めを迂回しながら、行ったのだが、集会には15分遅れてしまった。ところが主催者側は集会を15分遅らせて祈って待っていてくれたのである。神のジャストでした。
個人的なことですが、自動車の免許の更新で認知症の検査と高齢者講習を受けなければならない年になりました。先ほどのことなどあって、教習所の予約が遅れてしまって、認知症の方は終わったのですが、どの教習所も混んでいて、講習の予約が期限までにはとれそうにないということになった。免許更新できないかのではとパニック。専用の警察の窓口があったので、電話したが、話し中でかからない。何回もかけて、やっとつながった。淡路島の洲本なら空いているとのこと。クリスマス前の忙しい20日に行って受講。間に合った。
 そして、クリスマス準備に明け暮れる。そんな中、教会員の一人から母親が危篤かもしれないというメール。持ち直したよう知らせがきた。とにかく、24日のクリスマス礼拝と祝会を迎えた。あれもこれも最善でイブ礼拝まで済んだ。翌25日、彼からメールが来た。昨日、前夜式で話しましたのを載せます。

 “Yさんのご生涯の最後の一瞬に牧師として立ち会わせていただいたことをお話しいたします。12月20日に容体が悪化し危なかったのですが、点滴をして持ち直し、また少しは食べられるようになったものの予断をゆるさない状態との知らせを受けました。そこで、25日、点滴も終わった午後4時に、牧師夫婦がお伺いし、神から強く押し出されるような思いで、「Yさん、洗礼は天国に行く切符です。イエス・キリストを信じて洗礼を受けますか」と問いますと、ハッキリ「はい」と答えられました。牧師が「父と子と聖霊との名によって汝にバプテスマを施す」と宣言。「アーメンですか」と問うと「アーメン」と確かな答えがありました。
26日、息子さんが昨日のことを覚えているか聞いたところ、覚えているとの返事、ご自分の意志で受洗されたことを確信。詩篇23篇を読んで聞かせました。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。…たとえ死の陰の谷を歩むことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから…。」28日、危篤状態で、夜8時に牧師夫婦が訪問すると、呼吸がかなり浅くなっているものの大変安らかな様子でした。洗礼証書を読み上げ、息子さんと牧師夫婦が話しているうちに、静かに呼吸が止んでいました。主が魂を平安の内に御許にお召してくださったと私たちは確信しました。午後8時35分のことでした。”

 この受洗と召天は御霊の導き、神の奇跡としか言いようがありません。神の寸分類のない計算された軌跡でした。三田泉教会としての受洗式、葬儀は天国への壮行会といってもよいのではないかと思うのです。

◇聖霊知
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」は経験して知っているというだけでなく、すべてのことなのです。私たちの感じるラッキーを遥かに超えた「益」なのです。国益を遥かに超えた「御国益」なのです。続く聖句がそれを述べています。
「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました」(8:29-30)。その神の働きとは父なる神の創造の働き、御子の贖いの働き、聖霊の救済の働き、マクロの働き、ミクロの働き、ジャストの働き、調和の働き、全能の働き、枚挙にいとまはないのです。あなた一人のための最善であるとともに全聖徒の最善でもあるのです。
 「神の行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない」のですけれど(伝道3:11)、ひとり子を犠牲にされるほどのことをしてくださったことを思う時、これからのこともすべてのことを働かせて益としてくださるのだと信頼できるのです。聖霊がそう促してくれる、確信を与えてくれるのです。2017年365日、神がすべてのことを働かせて益としてくださったと感謝しましょう。また、新しい2018年も、その後も神がすべてのことを働かせて益としてくださることを信じ、知っていますと告白しましょう。

「高き所に栄光が、地の上に平和が」

2017-12-24 00:00:00 | 礼拝説教
2017年12月24日(日)クリスマス礼拝(ルカ福音書2:8~20)岡田邦夫

「すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。『いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。』」(ルカ福音書2:13~14)
 
 「メリークリスマス(Merry Christmas)」。このメリーは日本語にすると「笑い楽しむ、笑いと楽しみを誘うような、お祭り気分の」という意味です。クリスマス祭を陽気に楽しもうというわけです。

◇良い知らせを傾聴する
 アメリカから来ていた宣教師が日本でのクリスマス、違和感を感じると言っていました。クリスマスにアメリカではクッキーやキャンデーのような日持ちのするお菓子を用意します。休暇を楽しむため手のかかる、しかも生のデコレーションケーキを作らないといおうのが習慣です。でも、日本ではデコレーションを食べるのがポピュラーです。それで、子ども達にはイエス様の誕生会なのよと言って、デコレーションケーキを食べていたと言います。
 そのようにイエスは2000年前、私たちと同じように母マリヤから、普通に生まれたのです。しかし、天から降りて来られた、遣わされて来たので、降誕と言います。私たちを救うため、神の御子が人となられたのです。といいましても、見た目は私たちと何ら変わらない新生児です。しかし、この方が救い主であるという歴史の上のビッグニュースをヨセフとマリヤ以外に野宿で夜番をしていた羊飼いたちに知らせたのです。普通のことではないので、天使が登場します。
「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです」。
聖書によると私たちは迷える羊です。神から離れた羊です。神のもとに帰らなければ、狼や獣の餌食です。迷い出た羊は自力で帰れません。神の子が迷える羊を探し出し、神のもとに引き戻すために来られたのです。さらに深刻なのはすべてのものと人を造られた神、創造者から離れているということです。その罪深さゆえに、人は空しくなり、不安を抱えるのです。死を恐れるのです。神の裁きがあるからです。しかし、救い主はその私たちをその罪から救うために、私たちの身代わりとなられたのです。悔い改めてキリストを信じるだけで、赦され、神のもとに帰った喜びを得ることができるのです。そういう、すばらしい喜びの知らせ、すなわち、福音を羊飼いたちは聞いたのです。

◇良い知らせを賛美する
すると、天使の合唱隊が賛美します。
「いと高き所に、栄光が、神にあるように。
地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
 その福音によって、平和は来るのです。神に敵対していたものがイエス・キリストを通して、和解し、神との平和をいただくのです。そこから、人と人との間の平和に広げていくのです。イエスは十字架で死ぬために生れてきたのですが、また、復活するために死なれたのです。私たちを死後の復活に導き、死に勝利させるために、天に帰られたのです。これこそが福音です。復活されたキリストが弟子たちに現れた時に「平安があるように」とあいさつされました。原語では「シャローム」です。平和とも平安とも訳せます。また、シャロームは健康とか繁栄とかも含まれる満たされた状態を意味します。復活の希望があるとき、平安ですし、満たされるのです。

◇良い知らせを体験する
ある方の話をしましょう。親がクリスチャンだったのですが、反抗期に教会から離れ、わざわざクリスチャンでない人と結婚した。成功を求め働き、ずいぶん金儲けに走っていった。それを見て、奥さんの方が不安になり、母親の言っている教会に行き、熱心になってしまった。不景気で商売はダメになり、彼はやけになり仕事をしない。子どもを預け、妻が働きにでる。彼は自分の誤りに気付き、教会に帰り、悔い改めて、人生の回れ右をして、洗礼を受けたのである。30歳の回心である。
ところが、二番目の子が二歳の時、はしかで40度の高熱が一週間続き、もう治るかと思った時、急に熱が下がり、大きくひきつけを起こした。病院にいってもひきつけを繰り返す。医師も八方手を尽くすが悪くなる一方。医師から宣告される。「残念ですがこの子は助かりません。もし生命力があったら助かるかも知れないが、脳をやられているので後遺症がすごく残りますよ」。
がくぜんとなる。恐ろしくなる。妻と手を取って「神様!」と必死に祈る。無茶苦茶な祈りもする。二人で、三日三晩、不眠不休で食べずに祈った。最後に「どうか神様、この子が助かるなら僕の命はいりません」と祈った。すると、神の静かなみ声が心に語りかけてきた。「お前はこの子の死ぬのがたまらない。自分が死にたいぐらい。私はお前を愛している。お前が滅びに行くのがたまらない。だからわたしが、お前の代わりに十字架にかかって死んだ。どうしてそれがわからないのか?」と。真理の光が心の奥底に差し込んだ。
「ああ、イエス様、わかりました。あなたの十字架で、滅びからすくわれました」と答えた。喜びでこころが満ちたのである。「助けてくれ」が「わかった、わかった」に代わった。翌日、子どもがパッと目を覚ました。視線が合っている。すっかり回復し、何の後遺症もなかった。神の奇跡である。
 癒されたことは奇跡ですが、不安と絶望の中で、自らの命を犠牲にしてまで私を愛しくださったイエス・キリストの愛がわかって、平安、シャロームが与えられたことは何とも素晴らしいことです。どうかお一人お一人にこの平和、平安が与えられますように。
『いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように』。


エッサイの根から若枝が生え

2017-12-17 00:00:00 | 礼拝説教
2017年12月17日(日)アドベント第3主日礼拝(イザヤ書11:1~10)岡田邦夫


「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」(イザヤ書11:1)

 私の父は元々、中村銀次郎だったのですが、両親が早く亡くなり、養子にいって、岡田になったと聞かされてきました。先日、ある番組で、「~村」とつく名前の由来の話を聞きました。“鎌倉時代、地主のもと、農民たちは奴隷のような生活を送っていた。鉄製のクワや鎌が安価になり、農民も所有できるようになったので、農民達は地主の手を逃れ、協力しあって荒れ地を開墾し、血縁ではなく地縁による共同体、「村」が出来た。それから上村、竹村などの名をつけるようになり、その中心となったのが中村だ…と。清水克行先生の説によると、関が原の戦いや本能寺の変より、「村」の成立が日本の歴史上に与えた影響は大きいという。”名前から見えてくる歴史があるようです。
 聖書において、重要な名前が出てきます。今日、お話しするところのイザヤ11:1の「エッサイ」です。

◇ここから始まる…エッサイの子
 かつてイスラエルはサムソンなど「士師」(さばきつかさ)という、霊に満たされた者が時々現れては国を治めていた時代がありました。無政府状態になったりすることもあり、外敵に弱いものでした。そこで民衆は士師サムエルに我々を治める王がほしいと訴えます。主の許可を得て、王国制度を取ることになります。サムエル(預言者でもある)は主に導かれ、サウルを即位させますが、やがて、彼は神の御心に沿わず、失脚していきます。サムエルは次の王を見出すため、ベツレヘムに行きます。主に示されて、エッサイとその子たちを呼びます。7人の息子たちに次々に面会するものの、「主が選んではおられない」と言うのです。残るは羊の群れの番をしていた末っ子のダビデ。主は「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ」と告げ、王に選び、立てるのでした(1サムエル16:12)。ここに選びの不思議があります。私たちもそうではないでしょうか。どうして自分のようものを選ばれたのかわかりません。主は無いに等しいものを選ばれたのです。
しかもです。ダビデが王として働きをなすうちに、主が約束されたのです。「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」(2サムエル7:16)。後に彼自身も大罪を犯しますし、後のダビデ王朝もその民も神に従わないことが多くあります。しかし、王座はとこしえまでも堅く立つというのです。これもまた、選びの不思議。

◇ここからこそ始まる…エッサイの根株から新芽
選びの民も神に背を向け、ついに神の懲らしめを受け、バビロンに捕らえ移され、祖国を失うことになります。民族は消滅の危機。木が切り倒されるように民はふるわれる。しかし、望みがあるとイザヤは預言します(11:1)。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」。それこそ、ダビデの元まで切られ、エッサイの根株しか残らなくなってしまう。そんな究極の絶望に陥っても、新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶと「希望」を約束するのです。まずはバビロンから帰ってくるのですが、その先を約束しているのです。
事実、ダビデの子孫から、救い主・イエス・キリストが新芽となられ、預言が成就したのです。新約聖書を見てみましょう。「エッサイにダビデが生まれた。…生まれ…ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤから生まれた」(マタイ福音書)。「この処女は、ダビデの家系のヨセフといういいなずけで、マリヤといった」(ルカ福音書)。
パウロは神の啓示を受けて、見事に綴ります。「この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです」(ローマ1:2-4)。ダビデの子孫としてお生まれになったのは治められる私たち人間と同列に立たれたのです。また、選ばれた者の代表として神の国を治める王になられたのです。
主は福音によって治められるのです(ローマ15:8-13)。「私は言います。キリストは、神の真理を現わすために、割礼のある者のしもべとなられました。それは先祖たちに与えられた約束を保証するためであり、また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。こう書かれているとおりです。…イザヤがこう言っています。『エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方である。異邦人はこの方に望みをかける。』(イザヤ11:10)どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように」。神の国の福音による支配は始まったのですが、まだ、世界は真に治める者がおらず、弱肉強食の状況に置かれています。皆さんが思っておられるように、国際面でも身近なところでも、目を覆うばかりに争いが絶えません。私たちの平和への努力、平和への祈りが必要です。しかし、本当の平和をもたらすのは神なのだとイザヤは預言します。

◇ここで終わる…エッサイの根から旗
「その日」が来るとエッサイの根株からの新芽、若枝であるイエス・キリストが再臨され、絶対公正の裁きがなされるのです(11:3-5)。「正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す…」。裁きの後、絶対平和が訪れるのです(11:6-9)。「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う」。神のあわれみを受け、救いに選ばれた私たちの究極の将来はこの絶対平和の世界です。それを約束されているのです。望みを持ち、信じていきましょう。また、私たちは神の信任を受けて、福音宣教の使命に選ばれています。望みを持ち、使命が果たされるよう祈って、奉仕していきましょう。
 「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」のです。主は言われます。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残る」のです(ヨハネ福音書15:16)。

ひとりのみどりごが与えられる

2017-12-10 00:00:00 | 礼拝説教
2017年12月10日(日)アドベント第2主日礼拝(イザヤ書9:7)岡田邦夫

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」(イザヤ書9:6)

 凍てつく冬の夜空に輝く星はどんな宝石よりも美しいのではないでしょうか。愛媛の教会で牧会をしていた時、家庭教師を頼まれて、ある家に夜お伺いしていました。空き地に車を止めるのですが周りは田んぼで街灯がなく、月が出ていないと、ほんとうに真っ暗でした。一寸先は闇(3cm)状態で不気味で、恐れを感じました。しかし上を見れば、星が輝き、その多さに感動していました。イザヤの生きた時代はまことに小さな国ユダは大国の餌食になる寸前の一寸先は闇の状況に置かれていました。しかし、預言者は星ではなく、神の輝きを見ていました。闇に輝く預言の言葉を私たちに告げたのです。

◇闇から光へ
 こう告げます。「異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」(9:12)。
 アッシリヤ帝国は勢力を拡大し、諸国を飲み込んできて、地中海の海沿いも、ヨルダン川の東部も、ゼブルンとナフタリを含むガリラヤも征服し、属州にしてしまいました。そこは北イスラエル王国のあったところ、今は異邦人が移住させられてきているのです。そして、人々は死の危険にさらされていたのです。そして、南ユダ大国に迫ってきたのです。イザヤの見た国際情勢はそんな国家存亡の危機の時だったのです。
 国家存亡に危機といえば、日本では明治維新のころと書いた、一つの歴史小説を思いだします。司馬遼太郎の「坂の上の雲」です。私はこのタイトルが気に入っています。維新を経て近代国家の仲間入りをしたばかりの日本。三人の男を軸にその明治という時代を生きた者たちを描いた歴史小説です。「あとがき」でこのタイトルについて書いています。「このながい物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。やがてかれらは日露戦争というとほうもない大仕事に無我夢中でくびをつっこんでいく。…楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつけて坂をのぼってゆくであろう」。
これは歴史小説です。歴史を題材にしながらの小説は著者自身の時代を映す鏡、時代の気分を表現しているものと思います。この小説は1968年(昭和43年)から約4年間、産経新聞夕刊に連載されたものです。このころ日本は国民総生産(GNP)が世界第2位となったような好景気の時。問題もあったがおおむね明るかった。その時代感覚でのもとで、読む者は気持ちを沸き立たせたに違いありません。
しかし、預言書は文学の形をとっていますが、小説ではありません。ですから、時代に決して流されません。時代におもねることもしません。津波のように押し寄せる大国の前になすすべもない、一寸先も闇という時代です。希望的観測を語る偽預言者の言葉もただただ虚しいだけです。そんな中でもイザヤは星空ではなく、神の輝きを見て、預言します。近未来にはエルサレムは破壊され、ユダの人々はバビロンに捕囚されていくけれど、しかし、その先に神の光が差し込むと告げます。近未来には帰還すること、そして、そのずっと先に争いの絶えぬ人類にも救いの光が輝くと希望の預言をします。
「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」(9:12)。照ったという言い方は過去預言といい、神は預言を必ず成し遂げるのですから、未来であっても過去形で書くのです。また、愛媛にいた時、敬愛する牧師の言われた言葉を忘れることが出来ません。「どんなに長くてもトンネルには出口がある」。先生は可愛いお子さんをガンで亡くされ、ご自身も病気をされ、長い試練の中を通られ、それを主によって乗り越えてこられたことからの言葉でした。暗いトンネルには明るい出口があるのです。

◇混乱から平和へ
 この預言は何と約730年後に成就します。救い主・イエス・キリストがおよそ30歳になられ、洗礼者ヨハネから洗礼を受け、荒野で40日試みを受けたあと、宣教を開始され、公生涯に入られます。その時です。マタイ福音書4:12~17に証言されています。
「ヨハネが捕えられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、『ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。』この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』」。まさに神の“事実は小説にまさる”です。
 それは救い主の誕生から始まるのです。クリスマスです。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる」(9:6)。太陽の光は暗黒の深海まで届きませんが、神の救いの光は人間界の暗黒の土底まで届かせるのです。そのため人の子となってくださったのです。その方は権力を押し付けるのではなく、主権はその肩にあり、その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえるのです。
その救い主イエス・キリストの名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれるのです(9:6)。絶対的権力をお持ちの神でありながら、弱く迷いやすい私たちに寄り添う不思議な助言者(ワンダフル・カウンセラー)です。すべての民を神の家族として御許に集め、父の権威と愛を兼ね備えて治め、永遠に変わらず真実を貫かれるお方です。十字架にかかり、神と人の間にある罪を赦して、平和に導き、十字架において、人と人との間にある敵意という隔て中垣を取り除かれるのです。人間という罪に迷える羊を神の義に導くために、良い羊飼いとなって、自らの命を十字架の上で捨てられたのです。神との平和、人との平和、魂の平和はこの犠牲によってのみ、成り立つのです。
神の御子が犠牲になるなど、人間的に言えば理屈に沿わない、割に合わないことですが、私たちを救い、平和(すべてを満たすシャローム)に導きたいという神の熱心がそうさせたのです。そうさせているのです。「今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」のです。太陽の光は明るさだけでなく、熱エネルギーをもたらします。父・子・聖霊の三位一体の神は私たちに対してたいへん熱心なのです。
「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる」(9:6)。


インマヌエルの主

2017-12-03 00:00:00 | 礼拝説教
2017年12月3日 アドベント第1主日礼拝(イザヤ書7:14、8:8)岡田邦夫


「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。…インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる。」(イザヤ書7:14、8:8)

 ある旧友の牧師が突然訪ねてきたことがありました。柏原の方に用事があって来たのだが、三田は帰り道なので、なかなか会う機会もないのでということでした。懐かしく語り合いました。引退はしたけれど、前から続けているキリスト教の老人ホームの訪問は続けていて、自分は日本の歌を歌い、賛美歌を歌い、聖書の話をしているとのこと。それを披露しますと言って、私達夫婦の前で歌い出しました。その一つが「知床旅情」、森繁久弥が北海道のロケ地において即興で作詞作曲したものです(1960年・ヒットは1970年)。実はこの牧師の奥様がだいぶ前に病気のため召されまして、その悲しさ、寂しさの中で、この歌に出会い、歌詞を讃美歌にかえて歌うことで、それを乗り越えてきたのだと証ししておられました。
 森繁はその前にもう一つ作っていました。「オホーツクの舟唄」です。前半で冬のオホーツクの厳しさに耐え、後半で大漁の喜びを歌います。その中に「春を待つ心 ペチカに燃やそう 哀れ東(ひんがし)に オーロラ哀し」
「誰に語らん このさみしさ ランプの灯影に 海鳴りばかり」
と、美しいオーロラを見ても哀しい、誰に語らんこのさみしさ…そこには人間存在の悲しさや寂しさが歌われていると私は思います。そういう寂しいと感じている者にこそ神は訪問者として訪れてくれるのだと思います。

◇わかるは…共感のインマヌエル
 主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産む…イエス・キリストの降誕の預言です。それが成就したのです(マタイ福音書1章)。それはインマヌエルと呼ばれるため、インマヌエルとなられるためでした。インマヌは共にいる、エルは神ですから、「神われらとともにいます」という意味です。神が共にいてくれるために主は人となり、伝道なさり、十字架にかかり、復活され、昇天されたのです。果てしなく寂しい孤独の魂に寄り添うために来られたのです。
 先日、11月22日はいい夫婦の日、ある人が男女は違うので、違いを知って、良い関係を得ましょう。その違いは人の話に対しての応答の言葉でわかります。男は「なるほど」といい、女は「分かるは」(また、「かわいい!」)。夫婦に限らず、人と人がわかりあうということが難しいながら、勤めていく必要は感じます。しかし、人となられ、あらゆる試練に合われたイエス・キリストはインマヌエルとなられ、私たちのすべてをわかってくださるのです。私に対して、全能者なのです。悲しみの人でしたから、孤独の私の悲しみ、寂しさをわかって、いっしょにおられるのです。女子会流に言えば、「わかるは」と共感してくださいます。どうして私をお見捨てになったのですかという天涯孤独なられたからこそ、絶望の淵にいる者の友となってくださるのです。
 失敗したり、失恋したり、物事がうまくゆかず、落胆しているときにこそ、傍らに来て、肩を抱き、一緒にいるから、大丈夫と声をかけてくださるでしょう。決して捨てないよ、味方だよと力強く言われるでしょう。時には無言で優しく臨在してくださるでしょう。涙で枕を濡らすとき、その枕の中にインマヌエルでしょう。もちろん、嬉しい時、喜ばしい時も、一緒に喜んでくれるでしょう。神の家族、神の子なのですから。
 神の懐で喜びも哀しみも幾年月過ごせる人生は幸いです。インマヌエルの人生、何にもかえがたいものです。

◇なるほど…共有のインマヌエル
 主イエス・キリストはしばしば、「まだ、わからないのか」と弟子たちに問いかけています。インマヌエル・神ともにいますということは、相互にわかり合えることが必要です。神のお気持ち、神の御心をわかることがまた、神を喜ばすことです。私たちが神と共にはいられない、神との間を断絶させているのが罪です。これは自分でどうすることもできないのです。聖なる神に断罪されるしかないのです。イエス・キリストは罪を犯しませんでしたが、罪の誘惑のもとにおかれました。公生涯に入るときに、サタンの誘惑を受けました。また、十字架の苦難の前に、ゲッセマネで祈られた時に、試されました。しかし、私たちに勝利を与えるために勝利されました。
 大胆に申しましょう。イエスは私たち罪びとの共犯者になられたのです。いえ、罪のひとかけらもないのに、共犯者にさせられたのです。十字架刑に処せられたことをマルコは「罪びとのひとりに数えられた」と証言していますからです。また、事実、十字架につけられた時、右と左に重罪人と一緒に処罰されたのです。主は罪のひとかけらもないのに、共犯者にさせられたのです。それは罪びとの私たちにかわって、神から断罪されたのです。私たちは悔い改めて、神に立ち返り、イエス・キリストを信じるだけで救われ、きよめられるのです。信仰でなるほどとわかってほしいのです。
 主はどれほど、あなたを愛しているかをわかってほしいのです。人が罪を犯すことも、罪の思いを持つことも全くなかったのに罪の汚れを身に受け、泥まみれになったのです。その聖なる御体の犠牲だからこそ、罪の赦しは完璧なのです。人となられたのですから、罪を犯す者の気持ちもお分かりくださっています。しかし、いつでも神に立ち返るように十字架と復活の主はそばにいて弁護者としていてくださいます。私に対して全能の神であることをわかってほしいのです。

 きょう、私たちはどんな状況にあったとしても、心の中で「インマヌエル」とお呼びしましょう。インマヌエルの主よ、信じます、望みます、愛しますと告白しましょう。