オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

雪のごとく白くならん

2018-04-08 00:00:00 | 礼拝説教
2018年4月8日(日)主日礼拝(イザヤ書1:13~20)岡田邦夫


「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。」イザヤ書1:18~19

 今日から、イザヤ書の愛読箇所からメッセージすることになりました。イザヤはBC770頃生まれた預言者で、女性預言者の妻と子どもが二人いたようです。当時、小国ユダは巨大なアッシリヤ帝国に滅ぼされそうな危機にありました。さらに、後になるとそのアッシリヤをバビロン帝国が倒し、バビロンを、ペルシャ帝国が倒すという大きく、世界が動いていく時代を迎えようとしている時でした。イザヤはこのような危機の時代と向き合わなければなりませんでした。そういう状況で、彼が真に向き合ったのは歴史を超越した聖なる神でした。そこで啓示を受けて、大いなる預言が語りだされたのです。ちなみに聖書全体は66書、イザヤ書は66章なので、イザヤ書は聖書の縮図だとさえ、評されています。単なる数合わせだけでなく、内容的にそう言えるでしょう。

◇はじめに関係があった。
イザヤ書の書き出しが壮大です。「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ」(1:2)。この壮大さは前述のように、イザヤが壮大な神に出合っているからです。その顕著なものが6章の「神を見た」という経験です。
ところで、イスラエルという名前の由来が創世記に記されています。ヤコブが家族を引き連れて、メソポタミアからの帰る途中、兄エサウに再開することになりました。復讐されることを恐れ、ヤボクの渡しで祈っていた時、天使が現れ、格闘をしたのです。その時、主は「もうヤコブとは呼ばない。イスラエルだ」と言われ、祝福されました。民族の名となります (32:28)。イスラエルのヘブル語の意味は「神が支配する」「神と争う」「神が勝つ」だと言われています。神と組み合った、正面から向き合った、対峙したと解釈するのがいいと思います。なぜなら、こう記されているからです(32:30)。「そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。『私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた。』という意味である」。神の民とは主なる神と向き合って生きる者たちなのです。
対峙という言葉を使いましたが、相対するの「対」に、山辺に寺と組み合わせた「峙」(ジ)と書きます。訓読みでは「そばだつ」。山がじっと動かずに待っているようにそびえていることです。「対峙」は山などが、向かい合ってそびえること、対立する者どうしが、にらみ合ったままじっと動かずにいることを意味します。私たちは人間関係で、対峙することは避けたいものですし、適当な距離感をもって付き合いたいものです。人同士が対峙して、信頼関係を深めるのは、互いに敬意や真実や愛が求められるでしょう。
しかし、神が私たち(私)に対峙するようにと求めておられるのです。顔と顔とを合わせて神を見るようにです。それはお母さんが赤ちゃんの顔を見つめ、赤ちゃんもお母さんの顔を見つめる。そういうイメージでしょうか。イエスが言われたように、神のみ前には悔い改めて幼子のようになることです(マタイ18:3)。「イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。』」と、わたしとあなた、一人称と二人称の向き合い方をしてくださるのです(43:1)。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」という愛の対峙をしてくださるのです(43:4)。放蕩息子はあるがままの姿で帰っていくと、父は待っていて、走り寄り、(顔と顔を合わせてから)抱きしめました(ルカ15:20)。

◇まことの関係になった。
 イザヤが聖なる神と向き合った時に、汚れた者であることを示されましたが、主によってきよめられました。主は愛する民に向って、背信の罪を指摘します。「『子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。
牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない』。ああ。罪を犯す国、咎重き民、悪を行なう者どもの子孫、堕落した子ら。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った」(1:3-4)。
 人は関係の中に生活をしています。二つの関係性があります。「わたしとあなた」という人格的な関係、「わたしとそれ」という、利害関係や単なる雇用関係、便宜上の関係などの非人格的な関係があります。ユダの民が主なる神を「それ」にしてしまっているのです。罪を犯しても、形だけのささげ物で赦されると思っているのです。「もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙――それもわたしの忌みきらうもの。新月の祭りと安息日――会合の召集、不義と、きよめの集会、これにわたしは耐えられない」(1:13)。
 ですから、「わたしとあなた」という人格関係を取り戻すために、悔い改めを迫ります。「洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ」(1:16-17)。「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられるのです(1:18)。これこそが、対峙しようではないかということです。
 主と対峙するのはしんどいことですし、悔い改めるのには勇気がいります。しかし、その先にあるのは並外れて素晴らしい福音があるのです。主の御口が語りだすのです。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる」(1:18-19)。イエス・キリストの十字架の血によってきよめられるのです。緋は二度染めの赤です。罪がこの身にすっかり染み付いてしまっていても、純白にしてくださるのです。命の洗濯などという言葉がありますが、イエス・キリストの命による洗濯で、洗い落とせないものはないのです。この神の言葉を信じましょう。
 研修会に招かれて、札幌に行ったことがあります。その時は何十年ぶりかの大雪で、道路は両側に雪かきされ、その雪で道は半分の幅になっていました。それが泥で汚れているので、きれいとは言えませんでした。しかし、研修後、スキーのジャンプ場に連れて行ってくれました。ジャンプ台の上の方まで行き、下の方をみると真っ白な雪景色。こんなにも白いのかと感心し、感激しました。その白い輝きで目が痛くなりました。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」。イエス・キリストはあなたの魂をまばゆいばかりの雪のように白くしてくださるのです。今、幼子のように素直になって、イエス・キリストの十字架の血潮を信じましょう。
 そして、「わたしとあなた」という関係性を親密にしていただき、「イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。』…わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」との生ける御声を聞きましょう。

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