オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

切り株が残るように

2018-04-15 06:13:35 | 礼拝説教
2018年4月15日(日)主日礼拝(イザヤ書6:6~13)岡田邦夫


「そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」イザヤ書6:13

 先週、三田泉教会でイザヤ書からの話の中で、ヤコブがみ使いと相撲をとった話をしました。民族としてイスラエルとなった由来の出来事です。イスラエルという言葉の意味は「神と争う」というような意味ですが、由来からですと、神と組み合う、神と向かい合うという「相撲」のイメージです。その時、ヤコブは「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた。」と言っています。預言者イザヤもこの6章で「私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た」と言っています(6:1)。イザヤも神と向き合い、真っ向、取り組んだのです。
 ところで、日本の相撲の話ですが、行司が土俵の両力士に「はっけよい のこった」と声をかけています。その言葉はどんな意味なのでしょうか?「はっけよい」の由来は諸説ありますが、多いのは「発気揚々が詰まった言葉で、力士に気を吐けと喝を入れている」と解説されています。立ち合いで両力士が当たってからの行司の最初の掛け声が「はっけよい」で、力士が組み合って動かなくなった時も「はっけよい」と声をかけます。それに対して「のこった」は、その言葉通り「まだ土俵に残っている」という意味で、押されている力士を応援する掛け声です。ですから、両力士が動き回っている時に行司が掛ける言葉は「はっけよい」ではなく、「のこった、のこった」だけとなります。
 イザヤが直面したのは強大なアッシリヤ帝国の軍隊が北からやってきて、次々に小さな国を打ち破り、同胞の北イスラエル国も破れ果てていました。残されたユダ王国は圧倒的な力に対応できるはずもなく、滅亡か!?という危機の時でありました。ユダの民は生き残れるのかという問題でした。解説者や占い師のように、一歩退いてものをいうのではなく、イザヤは預言者として、その時代の土俵に上がり、取り組んだのです。そこで、別の意味で、神の「残った、残った」の声をきたのです。正確に言うと「残りの者」のメッセージをいただいたのです。

◇残るもの…切り株
 テレビで野生動物の生態の番組が良くあります。環境に適応すること、食物を確保すること、敵から身を守ること、縄張りや子孫繁栄のため戦いなど、いかに生き延びるか、命あるものの戦いが映し出されます。人も生き物、同じです。いかに生き延びるかの戦いがあります。社会の中で生き残りをかけた戦いがあります。教会もこの時代の中で、生き残りをかけた戦いがあります。今日、イザヤの言葉を通して、私たちは生き残りの希望を得たいと思います。
 ユダ王国でも信仰的なウジヤ王に信頼していたのですが、亡くなってしまって(BC742年)、イザヤはかなりショックで、神殿で神のみ前に出たのです(6:1)。必死に祈ったからでしょうか、翼をもったみ使いセラフィムが現れ、賛美します(6:5)。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」敷居の土台が動き、神殿は煙でいっぱい。神の顕現です。彼は心底、汚れた者だと罪を告白しますときよめのお言葉をいただきます。そして、神の任命を受けます(6:7)。
 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」
「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」
「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
そして、「行って、この民に言え。」とメッセージを託されます(6:9-13)。心かたくなな民で神の言葉を聞こうとしないけれども、それでも語りなさい、というような言葉です。そして、預言の言葉が告げられたのです。
「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、主が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」
やがて現れるバビロン帝国軍を主が遣わし、民は捕囚されていき、エルサレムの町は荒れ果てる。ふるわれて十分の一が残るが、それも切り倒されると言うのです。もはや生き残れないのです。しかし、その後に救いの言葉が告げられています。神に背を向け、散々罪を犯してきたのですから、滅び去って当然でしょうが、神のあわれみで残されるのです。「切り株」が残されるのです。株は残って命があるから、そこから新しい芽が出てくるのです。

◇残るもの…聖なるすえ(裔)
 イスラエルは振るわれて、十分の一が残り、それも振るわれ、ついに切り株になる。その切り株とは最後まで神に忠実な者たちのこと、「聖なるすえ(裔)」です。その切り株から新しい芽を出すのが救い主・イエス・キリストなのです(11:1)。「エッサイ(ダビデの父)の根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」
 春になると桜前線が北上して、日本全国一斉に「桜」が咲きます。その桜のほとんどがソメイヨシノだといいます。二種の桜を人が交配させてできた一本の木でした。たいへん美しい花を咲かすのでした。交配させてできたものなので、種では増やせませんが、接ぎ木で増やして、全国に植えていったというわけです。最初は一本の木でしたが、その枝を切って、他の桜の木に接ぎ木するように、私たちの古い人が切られ、イエス・キリストも十字架で切られて、接ぎ木されると、新しい人になるのです。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなるのです(2コリント5:17)。そのようにイエス・キリストを信じた私たちは聖なるすえなのです。「それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。」(ローマ11:5)というように一方的な神の恵みなのです。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」とあったように、十字架の祭壇でなされた贖いが私たちにおよんで「聖なるすえ」とさせていただいたのです。
 イエス・キリストが接ぎ木されているなら、すなわち、キリスト・イエスにあるなら、キリスト・イエスの栄光、神の栄光という聖なる花を咲かすのです。神は聖なるすえを増やし、この聖なる花を世界中に咲かせたいと願っておられます。「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と訴えています。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と答えていきましょう。復興支援ソング「花は咲く」(作詞:岩井俊二、作曲:菅野よう子)の歌詞、一節後半にこうあります。“花は 花は 花は咲く いつか生まれる君に 花は 花は 花は咲く 私は何を残しただろう”これをキリスト者として、私たちは信仰復興ソングとして歌いたいです。「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」(9:7)と信じて…。

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