オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

受難のしもべ

2018-03-25 00:00:00 | 礼拝説教
2018年3月25日(日)棕櫚の主日礼拝(イザヤ53:1~12)岡田邦夫

「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」イザヤ53:5

 いきなりですが、福音書に出てくる、一つの事件から話を始めたいと思います。福音書に出てくる主の御業というのはほとんどがいやしや奇跡ですが、この出来事はそうではないものです(ヨハネ8:1-11)。主イエスが朝早く、神殿で民衆に囲まれ、教え始められた時のことです。律法学者とパリサイ人がひとりの女性を連れて来て、真中に置いて言いました。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか」。そのようにしろと言えば、教えとは違うと言って民衆は離れていくし、やめろと言えば、律法に従わない者だと告発できる。彼らのわなです。イエスを貶めるために女性を道具にしているのですから、ひどい話です。「しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。…彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた」。みな去って行きました。そして、こう告げました。尊敬語で婦人よと呼び、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」。そう告げたのです。
 主イエスのこの沈黙がこの女性を救ったのです。イエスはどうして、権威をもって罰しないと言えたのでしょうか。その答えはイザヤ書53章の預言にあります。この章は旧約聖書の中でも最も偉大な章と言われています。主イエスの受難を克明に描いた預言です。

◇こうするしかない…愛の必然性
 聖書全巻に貫かれているのは「救い」です。何から救われるのかというと、神に対して罪を犯した者たちが神の怒りをかい、裁きを受け、滅びてしまう。その滅びから救うというものです。その「神の怒り、神の裁き、滅び」などの言葉が聖書の中に、私の数えたところではごく大雑把で1200以上でてきます。旧新約聖書が約1200章ですから、1章に1回は出てくる程だという事を知らなければなりません。
神に選ばれたイスラエルの民も神に背き、歴史の上で裁かれ、ふるわれ、ユダが残りました。しかし、ユダの民も背信のゆえに、バビロンに囚われていくのだと預言されます。ある学者によると、この53章はユダの民のバビロン捕囚の苦難をさしていると言います。「しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた」などを見るとそのような面があります。イザヤ書の特徴の一つは旧約時代に起こることを預言しているとともに、その向こうの新約時代に起こることを預言しています。二重重ねの預言が見られるのです。先の出来事とは皆さんが良く知っておられる、救い主・メシヤの受難のことです。人類全体の救いに及ぶものです。

旧約においては動物のいけにえが代償としてささげられ、犠牲になったのですが、私たちの罪はそれでは間に合わないほど、根深いものです。神の御子・イエス・キリストご自身が代償として、犠牲にならなければならなかったのです。
主イエスは預言の通り、屈辱、呪いを受けられました。「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」。
背を鞭でうたれ、頭にいばらの冠をかぶせられ、両手両足を十字架に釘で打ち付けられ、ゴルゴダの丘に立てられました。これ以上ない激痛にさいなまれるのです。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」。

◇こうしてあげたい…愛の主体性
 預言なのに「~だった」と過去形に訳してありますが、それは原語、ヘブル語の文法によるものです。ギリシャ語でしたら、動詞は時制を過去、現在、未来と分けています。そういう発想をするからです。ヘブル語というと、動詞の時制は完了か未完了かと分けています。そういう発想をするからです。神のなさることは未来であろうと完了していると考えるので、預言も完了形なのです。「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」。十字架において完了しているのです。「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」。私たちの中でも神の御業は完了しているのです。私たちはそう信じるのが信仰です。「救いはこの身に成就しぬ。われいかで疑わん。主の御業を」です(新聖歌359)。
 メシヤは自らすすんで、贖いのいけにえになられたのです。主体的に神のみこころに従われたのです。「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」。この神の沈黙こそ、全き救いにつながるのです。初めに話した女性の件で、イエスは沈黙していましたのは、黙って、この女性の罪の攻めを自らに引き受けられたことを表しています。神の沈黙というのは無条件の引き受けなのです。

 さらに10節には神の内面、真情が発露されているのです。「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。」がそれです。この文が色々の言葉に訳されています。
新改訳は「主のみこころであった」、
口語訳(&バルバロ訳)は「主のみ旨であり」、
共同訳は「主は望まれ」、
文語訳は「エホバ(主)はよろこびて」。
これ程、多用な訳があるという事はきっと、人間の言葉では表せないほど、全身全霊で御父は御子を砕かれたということではないでしょうか。文語訳を見ると、私たちを救うためならと、ご自身のひとり子を砕くことを喜んでなされたのだと思わされます。これ程の愛がどこにあるでしょう。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、…御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう」(1ヨハネ3:1)。感謝があふれてきます。
11節も受難の御業を成し遂げた時の御思いを色々に訳されています。
「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。」新改訳
「彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。」共同訳
「彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。」口語訳
 「その心の試練ののち彼は光を見、それに満たされる」バルバロ訳
※参考までに:文語訳は「かれは己がたましひの煩勞(いたづき)をみて心たらはん」。ふりがなの「いたづき」は①病気、②苦労、骨折りの意味です。
漢字は火辺にわずらう、労働の労と書いて【煩労】はんろうと読み、心身をわずらわせること、また,わずらわしい仕事や苦労の意味です。
十字架の受難を振り返ってみた時に、完全に神のみこころにかなってなされたので満足されたのでしょうか。あるいは受難の後に多くの人が救いに導かれる実りや光が見えて満足されたのでしょうか。例えば、日本の伝統の漆職人は実に手間暇かけて、美しい作品を作っていきます。作品を見て、いい仕事してますね!と言われると嬉しいでしょうね。さらに、職人は人からどう評価されるより、自分がとことん納得のいく物を作りたいと言います。まして、神が救いの御業をなさるにあたって、とことん、御子を打ちたたき、納得なさるまで、イエスに「わが神、わが神、どうして、私をお見捨てになったのですか」と言わさせるまで、手を抜かなかったのです。十字架は神の満足の業なのです。
私たちは母の胎から産みの苦しみの中で生まれてきました。半端ではない産みの苦しみをしたのに、生まれた赤子を抱いた時には、お母さんはもう産みの苦しみを忘れているらしいです。私たちは十字架の難産を通して、神の子として生まれたのです。しかし、救われた私たちを見て、その受難も忘れて、満足されておられるに違いありません。

 この週、主の受難を偲び、イースターを待ち望みましょう。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。