私はマスコミ様が口にする人権を、まったく信用していない。
例えば今月、世間を騒がせた座間市のアパートから発見された9人の遺体と、その殺人だと思われる白石容疑者の事件なぞは、マスコミ様の人権感覚がいかにおかしいかを示す典型的な事例であろう。
この事件の異常性はともかく、私を呆れさせたのは、マスコミ様の異常さである。
自殺願望があるとされた9人に被害者だが、呆れたことに事件発覚後、次々とその顔写真などがTVで報じられ、新聞紙面に載る始末である。この国のマスコミ様は、相変わらず犯罪被害者の人権には興味がないようだ。
警察からの連絡ならまだしも、マスコミ様に勝手に「もうあんたの家族は殺されてますよ」と知らされる遺族の悲しみなんて、まるで関心がないのだろう。
抗議したって、報道の公共性を盾にしらばっくれるのがマスコミ様だ。私に言わせれば、大衆の興味を惹くには、被害者の顔写真は強力な宣伝力があるのだから、勝手に公開しても問題なし、とマスコミ様は考えていらっしゃるのだろう。
日頃、人権、人権と騒がしい自称良心的言論人のお方々も、マスコミ様を非難するかの如き愚行をして、自らの発言の場を失うのは嫌なのか、被害者及びその家族の人権には無関心であらせられるようだ。
私はこの手の輩が口にする「人権」なんて、まったく信じられない。まぁ、自らを省みるのが大嫌いな人たちなので、今後も同じことを繰り返すことは、ほぼ確実である。
最近、ますます見る番組も、読む新聞も少なくなり、遂には新聞を取るのを止めてしまった。TVはCSのドキュメンタリー番組だけだ。これで全然困らない。
私は健全な民主主義には、権力を監視し、情報を有権者に知らしめるマスコミが必要だと考えていますが、今日のマスコミ様で、この任に耐えうる内容の報道をしているものが、いったいどれだけあるのか?
ネットの情報も玉石混合で、どちらかといえば胡散臭い、あるいは程度の低いものが多いことを考えると、日本の政治が低迷するのも必然なのでしょうね。
私がまだ小学生の頃、家の近くには、安いオンボロアパートが沢山あった。そこには所謂学生運動家が沢山住んでいた。
母に連れて行かれたキリスト教の集まりには、その学生運動家たちが数人参加しており、児童たちの面倒をみてくれた。讃美歌を歌ったり、聖書を暗唱したり、あるいはクリスマス向けに子供芝居の練習をしたりして楽しい時間であった。
そこで私はマルクス主義の啓蒙を受けた。虐げられた労働者階級の怒りと、それを糺すための革命の必要性は、幼い私の心に熾火のような熱い思いを灯してしまった。
この革命の実現には二つの方法があり、主流は話し合いと選挙により多数派となり、議会を制して平和的な社会主義革命を起こすことだ。しかし、少数ながらも、その方法ではダメで、やはり武力による革命こそが日本に真の変革を実現できると信じている人たちもいた。
当時、既に70年安保闘争に敗れており、その絶望感から強引な武力革命を志向する若者たちが増えていたように思う。子供ながらも、私は武力革命こそが、最も現実的な方法であると考えていた。
だから自然と武力革命志向の強い学生運動家のお兄さんたちの元に集うようになった。
・・・いや、ウソじゃないけど、真実ではない。まだ10代前半の私は相手にされていなかったのが本当のところだ。実際は、その学生運動家のガールフレンド(教会のシスターでもある)の傍で、彼女たちのお手製のサンドイッチやクッキーを食べていただけである。
今、気が付いたが、私って多分お邪魔虫だったみたい。二人の時間を邪魔していたなんて、当時は気が付かなかった。
もっとも邪険にされたわけでもないし、彼らが愛読していた本などは、よく貸してもらっていた。革命とは無関係な本が多かったのも確かだが、ロシア文学などに触れたのは、私にとっては貴重な財産となっている。学校の図書室には置いてない本は、ほとんどが彼らから借りて読んだものだ。
もっとも途中からハードボイルド・ミステリーの本に夢中になったのは事実だが、それでも資本主義社会の矛盾とか、虐げられた人民の苦悶とかに対する義憤を抱くようになったのは、この時の読書のおかげであろう。
彼らのオンボロアパートの部屋は、お洒落とは程遠かったが、本だけは古本屋なみに沢山あった。いや、積まれていた。もっとも若いだけに、壁には今でいうところのアイドルや、グラビアモデルの写真(ピンナップとかいった)が張ってあった。
天地真理や吉沢京子、吉永小百合、アグネス・ラムら女性が多かったが、一枚だけ髭面の外人男性のポスターがあった。それが表題の書の主人公であるチェ・ゲバラであった。
カストロと共にキューバ革命を導いた戦士であり、南米の虐げられた人民の為に戦う英雄だと教えられた。武力革命を夢見る日本の学生運動家にとっては、まさに実在するヒーローであった。
表題の書は、まだ革命も知らず、医学生であったゲバラが友人と、中古のバイクに乗って南米各地を旅した記録である。比較的裕福なアルゼンチンでは知ることの出来なかった貧民たちの暮らしぶりが、若き日のゲバラに深い印象を与えたことが良く分かる。
ゲバラは、書によって革命を知ったのではなく、実際に見聞を深めることで、人々を救うための手段を模索するうちに革命にたどり着いた、いわば叩き上げの革命戦士であった。
誤解されがちなのだが、テロとは政治目的の武力による表明行為。一方、革命とは社会の変革をもたらすこと。テロがアピールを目的とするのに対し、革命はは結果こそが大切。
マルクス主義の栄光は地に落ちたが、社会的弱者のために戦ったゲバラのことは、是非とも覚えておいて欲しいものです。彼はテロリストではなく、革命戦士でした。テロと革命は似て非なるものなのですから。
銀座に職場がある私にとって、昼食をどうするかは、わりと悩ましい問題である。
何度か書いているが、銀座は地価が高い。つまり家賃が高いので、必然的に高額な家賃が、飲食店の固定経費として経営を圧迫する。だから、銀座の街で、安くて美味い飲食店はあり得ない。
もちろんお店も努力している。夜の高額な食事の未使用分などを使って、お得なランチメニューを出している店だって結構ある。1000円前後だが、考えようによっては非常にお得だと云える。
夜なら数千円する献立の食材の一部を、昼間に格安で食べられると考えれば、確かに悪くない。事実、味もたいへんに美味しい。でも、ランチに千円以上出すのは、さすがに毎日だとキツイ。
千円前後のランチメニューを出す店が主流なのだが、実は少し足を延ばして新橋や築地まで行けば、もう少し安い店がかなりある。でも、時間がもったいないので、そうそう行く訳にもいかない。
以前は、松阪屋のデパ地下のお弁当が豊富にあったのだが、今じゃGINZA6とかいう高級路線のテナントビルに替わっている。仕方ないので、コンビニのお弁当売り場へ赴くことになる。
実は少し前までは、お弁当専門店が裏通りに数店あった。でも、今はほとんど潰れてしまった。やはり安い値段の弁当売りでは、家賃相場の高い銀座では採算に合わないのだろう。
そう考えていたのだが、どうやら私の考えは甘かったようだ。
先日、たまには美味しい肉でも食べようと思い、あるレストランに一人で行った時のことだ。カウンター席で、鉄板で焼かれる肉を見ながら、出されるのを待っていると、後ろの机席にいたOLさんたちの雑談が聞こえてきた。
「たまにはイイよねぇ、こんな贅沢もさ!」と楽しそうであった。私も内心肯きながら、それとはなしに耳を澄ませてしまった。
「うん、いつもご飯弁当とお惣菜だもんね」 「そうそう、一食当たり300円以下!、お金は節約できるけど、ストレスたまるよね」
どうやら、普段は家から御飯だけ弁当箱に詰めて社内の電子レンジでチン、おかずはお惣菜を買って済ませているらしい。今の若い娘は堅実だなぁと思いつつ、これではお弁当屋は大変だと痛感した。客単価300円以下では、とてもじゃないが経営が成り立たない。
そういえば、コンビニでもおかずだけの商品がよく陳列されていることを思い出した。なるほど、そのようなおかずだけの客の要望に応じてのラインアップなのかと納得した。
そして同時に思ったのは、これが今の消費不況の一面であることだ。アベノミクスは確かに日本の景気浮揚に大きく貢献した。しかし、それは株式投資家と、不動産分野に限定される。
私は安倍政権を一概に否定はしないが、その国内政策、とりわけ経済政策は部分的にしか評価できない。個人が飲食にかける費用を我慢しているようでは、国内景気はまだまだだと言わざるを得ませんね。
たしか自宅療養中であったと思う。
当時はどの街にも必ずあったレンタルビデオ屋で、何かいい奴はないかと棚を漁っていた時に見つけたのがスティーブン・キングのホラー小説「It イット」の映像化されたVHSビデオであった。
その時はまだ小説を読んでいなかったので、けっこう迷った。私の流儀として、先に原作を読み、後に映像を鑑賞することにしていたからだ。
ただ、その時は他に観たいヴィデオもなく、長過ぎる療養生活に飽き飽きしていたので、思い切って借りてみることにした。さすがに印象はうろ覚えだが、けっこう楽しんだ記憶がある。
当時は、それが映画化作品だと思っていたが、実はこれはTVドラマ作品のヴィデオ化されたもの。今回の「IT」こそが、初の映画化だとは知らなかった。でも、先週末映画館で鑑賞して、そのエンディングに唸りながら、無理ないなと思った。
これはネタばれではないと思うので書いてしまうが、表題の作品は「IT」の第一章である。当然に続編があるはずだ。ただし、映画作品としては、これ一作でもそれなりに完結している。
ちなみに、第一章と謳いながら、上映時間は2時間を超える。これは致し方ない。なにせ原作の小説は、文庫本版でさえ全4巻にもなる長編なのだ。それを一作の映画で納めるのは無理なのだ。
それなりに完結と記したのは、そのあたりの事情を勘案してのことだ。でも原作を読んでいる、もしくはTVドラマ版の「IT」を観たことがある方には、いささか不満が残るのは仕方ない。
実際、私はけっこう不満であった。なんで最初から第一章だと広告しなかったのか?営業上の理由だとは思うが、正直不信感を抱かれても仕方ないと思う。この映画、単体でも初見ならば十分楽しめる。
特に子供たちが力を合わせての活躍は、私も楽しめた。それだけに、映画会社の営業方針が気に食わない。不満を通り越して、怒りが湧いてくるほどである。
ホラー映画は、わりとマニアックなファンが多い。このようなだまし討ち的やり方は、マイナス評価の対象でしかない。
逆にキングの「IT」を読んだことがない、観たことがない人は、続編があるとご承知の上で楽しんで欲しいな。単体の映画としては、それほど悪くないのだから。
でも、熱心なホラー・ファンは、このような背信行為を容易には許さないゾ。
政府が景気を判断する資料は、必ず統計値を元に作成される。
統計値を用いるのは、特異な数値や個人の恣意的な判断を排する意味で有益だと思う。だが、統計値では平準化され、小さな差異は無視されてしまう弊害もある。
今年中盤の景気の特徴は、なによりも株式市場の上昇基調にある。不動産市場だって、ここ数年は活発であったことは間違いない。民主党政権の時とは大違いである。
しかしながら、敢えて指摘させてもらうと、個人消費の冷え込みはむしろ悪化しているかもしれない。
私は基本、事務職であるが、外回りが好き。顧客の元を訪問するときは、極力歩き回るようにしている。街の景気は、やはり自分の眼で見なくてはいけないと思っている。
10年前に比べて駅前商店街がシャッター通り化は進む一方だ。これは後継者難が最大の理由だ。しかし、新しく開業した飲食店が、5年持たずして閉店に追いやられるのは、やはり個人消費が冷え込んでいる証拠だ。
ここ数年、値下げした自動販売機が徐々に増えていることにお気づきだろうか。
沖縄発祥だと聞くが、オレンジ色の派手な自動販売機の設置台数が増えている。この自販機に置かれている缶ジュースは、どれも100円であり、なかには50円で売られているものもある。
実は缶ジュースは、けっこうな売れ残りがあり、小規模な小売店などは現金が欲しいので、バッタ屋などに横流ししてる。それを買い付けて、自動販売機の目玉として売っているのだが、当初は設置場所がなくて苦労したと聞く。
しかし、ここ最近の消費不況のせいで、安い自販機に対する需要が増え、その結果として100円自販機が飛躍的に増えている。元々正規のルートで仕入れている自販機でさえ、最近は値引き販売しているものが増加している。
おそらくだが、霞が関で快適なオフィスで経済政策を考える高級官僚さんたちは、このような下々の実情は知らないのだと思う。たしかに株価は史上まれにみる高騰ぶりだし、多くのタワーマンションが売れたのも事実だ。
しかし、個人の所得は伸びていない。だからこそ、安いものが売れている。130円で売られていた自販機の缶ジュースでさえ、今や値引き販売を強いられているのが、今の日本経済の一面でもある。
政治家やエリート官僚たちは、黒塗りのハイヤーの後席でふんぞり返っていないで、自分の脚で街を見て回るべきだ。街には統計数値に埋もれてしまった日本経済の惨めな部分が露呈している。
別に統計数値が間違っていると言っているのではない。あれはあれで有益な情報だ。しかし、平準化され、平均化された統計数値では、全ての経済事象は表現できない。
自分の足で歩きまわり、自分の眼で見て、街の景気を体感することを忘れないで欲しいものです。かつて政治家たちは、ドブ板選挙と揶揄されながらも、自分の脚で街を回り、肌で世情を味わっていたものです。
だから、政治家の靴はいつも汚れて、掏り切れていた。その点、今の政治家はお洒落です。綺麗なスーツに磨かれた革靴で、さっそうとしています。世情に疎くなったのも当然かもしれません。