ニセコ生活

2000年4月にニセコに移住、その生活を紹介します。

内紛

2010-12-27 03:16:57 | Weblog

しかし、時の政権の内紛を労組の親分が仲介に入るのか。こんなことでは世界の笑いものだな。だいたい、俺の時代は時の政権と対峙というか対決していた。くだらん政党の支持の元に「打倒」を叫んでいたのだ。それが政権側に廻ると言うことはどのような対応をするのか、労組は。

 

せっかく政権が交代したのに内紛とは情けない。政権交代イコール若い指導者だ。たまたま敵失、相手エラーで政権を取ったものだから若い指導者が出てこなかった。オザワが政権取った立役者とか言っていたが相手エラーで、タダ何となくこっちがいいだろうとなって政権が廻ってきた。これが今の政権にとっては致命的だな。その内紛に労組の長が間を取り持つというのは何か可笑しいのではないか。今更オザワでもハトヤマでも無いだろう。勿論カンでもない。足下がふらついていてはルック・ワールドどころではない。こんなことだから元気が無い野田日本は。打たれ強い若い新しいリーダーが欲しいな。

 

昼過ぎにニセコヴィレッジのスキーカウンターに行ったが随分人が、お客さんがいた。カウンターには34人の受付者がいたが大忙しだった。お客さんは日本人もいたが7割方は外国人だ。そのうちの半分くらいはアジア人、そんな感じを受けた。何よりも活気があったし、日本の元気がここにあった。やはり人が集まらないと活気が出ないな。

 

夕方、比羅夫に行ったが、ここも新しいネオンが沢山出来ており、何よりも人が道路の両サイドを歩いていた。人が歩いているのを見るのはおそらく比羅夫だけだろう。歩いている80%は外国人、そんな感じを受けた。でも、人が歩く、それも1人や2人ではない。何十人も歩いている。ここにも日本の元気がある、活気がある。いいことだ。

 

夜、テニス仲間スーパーショットの忘年会席上から電話があった。15年前ほどはテニスで結ばれた仲間だが、今は年に一、二回の飲み会だけ集まっているようだ。でも10人も集まるなんて元気ではないか。酒が飲めるだけでもいい。

 

1227日朝。3着から流しで買ったが惜しかった。jra口座にお金が有馬せん。まあ、でも、元気出して、明るく、笑顔で行こうぜ、どうせなら。

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argument (noga)
2011-01-01 21:26:12
持論・結論がなければ、議論する資格もないはずだが、相手かまわず言いがかりをつけて議論をしたがる人がいる。
折角、相手を議論で打ち負かしても、それに代わる自説を提案できないのは非建設的である。
議論では「破壊は建設なり」とは行かない。不毛の議論にしかならない。時間はいくらあっても足りない。

自説を述べればそれで万事発表は終わる。
さらに、自説に似た他説があれば、自説の優位性を述べることも有益なことである。
これは、人類の進歩につながる建設的な態度である。

考える人にならなければ、自説はできない。このような人は、とらえどころのない人と呼ばれている。
しかるに、丸暗記と受け売りの学力を使って議論をしかけようとしている。
真正でない学問をもって世俗におもねり、人気に投ずる言説をなすことを曲学阿世というが、こうした行いが横行している。
こうした行為は、あながち個人の責任には帰しがたいが、由々しい事実であることには間違いない。
イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

日本語には、時制というものがない。だから、未来時制もない。
自分達が努力して向かうべき理想の内容も語られることがない。いわゆる無哲学・能天気である。
未来社会の内容が明らかにならないので、われわれは未来社会の建設に着手出来ない。

日本人の世の中の把握の仕方は、現実の有様に関するものである。「世の中は、、、」の形式で表現される内容である。
現実の内容は、皆がほぼ一致する。一人から答を得たら、それで皆の答がわかる。
現実の内容は、変えられない。政治家には、政治哲学がない。
だから、日本人は閉塞感に襲われる。
英米人の世界観は、未来時制であり現実とは別次元の内容である。
これは人によって違うから、意見は一人一人聞かなくてはならない。
良い提案があれば、相互に協力して建設に励むことができる。

皆が同じ現実の内容を話すばかりでは議論はいらない。
「理屈などは、どうでもよい。現実は見ればわかる」ということになる。
議論をすれば、現実描写に関する個人的なケチの付け合いとなり喧嘩になる。
皆が仲良く生きてゆくには、問答無用で生活することである。
現実にばかり囚われては、別次元の世界が一向に見えてこない。向かうべき所に関する夢も希望もない。
それで、諦観も必要になる。

アングロ・サクソンの考え方が我々の現状の打開策となるであろう。
彼らのメンタリティを理解するために、我々には英語の勉強が必要である。
ある時、私はアフリカの学者から「日本では、何語を使って大学教育を行っているのか」と尋ねられたので、「日本の大学は、日本語を使う」としごく当然のように答えると、相手はびっくりしていた。
きっとその人は、日本語で学問ができるなどとはとても考えられなかったに違いない。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812
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