のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

あいちトリエンナーレ・レポ1

2010-09-18 | 展覧会
「美の壺」に郷里が取り上げられたので片手間に見ていたら、父が出て来て喋っておりました。まあ知らん間に立派になって。

さておき。
あいちトリエンナーレは名古屋市内のいくつかの会場において開催されております。到着時間が予定よりも遅れたこともあり、一日目は愛知芸術文化センターに的を絞ることといたしました。愛知芸術文化センターは美術館と劇場と図書館を併設した複合施設で、ここに来れば愛知県内の美術・音楽・演劇情報が一手にわかるという、なかなかに羨ましい施設でございます。以前申しましたように、美術館はビル内のフロアとしてあるよりも単独の建物であってほしいというのがワタクシの持論ではございますが、芸術に関する情報が集まっているという点では、この施設の有用性を認めぬわけにはまいりません。

10階の美術館フロアに入るとすぐに草間彌生の花(らしきもの)がお出迎え。取って喰われそうでございます。
登山 博文による、まず十畳敷きはあろうかというすがすがしい大きさの作品を経て進んでまいりますと、白い小部屋にフアン・アラウホの慎ましくも示唆に富む作品が並んでおりました。

一見、ちょと古びた図録が開いて置いてあるだけのようでございます。表紙には「フランク・ロイド・ライトの帝国ホテル」と。しかし近づいてみると、ちょっと様子がおかしい。実はこれ、上記のカタログ本を写真から小さな文字に至るまで、油彩で描きおこしたものなのでございます。文字が日本語であることは一目で分かるものの、所々かすれたように書かれ(描かれ)ているため、文章として判読するとなるとちと難しい。それに模写されているのは表紙を含めてもほんの数ページのことであって、後はスチレンボードか何かで厚みを出しているだけ。つまりここに展示されているのは、図像や文のレイアウトといったデザイン的要素を愛でることはできるものの、ライト建築の記録と考察というカタログ本来の機能は失われている、なんとも奇妙な物体なのでございます。

機能から解放されたものの美にフォーカスしたんかなと思ったのですが、解説パネルによると「帝国ホテルの一部が明治村に移築され、本来の機能と文脈を失って幽霊のようなイメージとして機能していることを、幾度ものイメージの複製を通じて提示しています」とのこと。とすると、むしろ本来の役割を失ったものがご大層に展示されていることの滑稽さと違和感を表現したものと申せましょうか。
また、模写、と言っていいのかこの場合分かりませんが、平面のものをそのまま描き写すという行為が持つ、アート/表現としての可能性についても改めて考える土壌を与える作品ではないかと。

次回に続きます。