のろや

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ロボットなひと

2009-06-10 | KLAUS NOMI
本日は
ロボットの日なんだそうでございます。
ロボットみたいな人の話をいたしましょうか。

PATRICK WOLFというシンガーソングライターが新曲"HARD TIMES"のPVでプレスリーとクラウス・ノミへのトリビュートをしてらっしゃるのだそうです。

PATRICK WOLF - "HARD TIMES"


おおっ
確かにちょっとノミっぽい!
でもって、いますよ、いますよ、何かカクカク動いている逆三角形のものが!
ああして両側にずらりと並んでいる様はなかなかに壮観でございますね。
ロボット風にカクカク動いているけれどもどう見ても人間がやってます的な動きの荒さというか不揃いさですとか、オブジェのように静止していてもゆらゆら動いてしまう「うそっこオブジェ」感もよろしうございます。蛍光色ともども微妙に安っぽく、とてもノミ的でございます。
CGで何でもできる昨今でございますから、完璧にロボットのような動きを再現することもやろうと思えばできたはず。それはそれで面白いものになったかもしれませんが、あまりノミ的とは言えないような気がいたします。

そう、あんな人間離れした恰好でカクカク動いてはいるものの、ノミはちっ とも本物のロボットには見えません。ロボットダンスが下手っぴいだからでございます。ヤツをこよなく愛するワタクシとて、「あれはわざと下手に躍っているのだ」などと言うつもりはございません。あれが精一杯だったのでございましょう。
そして、それでよかったと思います。当のろやで再三申しておりますように、あのみえみえな作り物感、まがいもの感はヤツの魅力のひとつだからでございます。

”COLD SONG”を始めとしたオペラナンバーは別として、ヤツのパフォーマンスはどれもこれも、昔のB級SF映画のようにわざとらしく、うきうきするほど馬鹿馬鹿しく、滑稽で、突拍子もなく、そしてほんの少し、もの哀しい。
本日のノミ話はヤツがうそっこロボットであることと絡めて、この「ほんの少しのもの哀しさ」にフォーカスしてみようかと。

ノミのことを知った当初は、のろがヤツの歌にもの哀しさを感じるのは、何を聴いてもその早すぎる死を思ってしまうからかしらん、と考えておりました。しかしノミが元気で歌っていた当時のプレスですでに「哀しき道化師」という言葉が一度ならず使われていることから考えても、ヤツのパフォーマンス、ひいては「歌う変異体クラウス・ノミ」という存在そのものが、演者の運命とは関わりなくそれ自体のもの哀しさを宿していると見てもよろしいのではないでしょうか。
そのもの哀しさは、ひとつには周りの世界とあまりにも馴染まないがゆえの孤立感の哀しみと見ることができましょう。
またひとつには、フランスのリベラシオン紙などが正しく表現しているように、道化師の哀しみであると申せましょう。
演者自身は決して哀しみを意図しておらず、それどころか観客を楽しませることに全力を傾けているにもかかわらず、観客の心に、いわば勝手に湧いてしまう哀しみ。

その哀しみとは一体何でございましょうか。
笑いを誘う挙動は、本当は観客を喜ばせるための真剣な演技であるということ。
そして観客の反応がどうであろうと、人目にさらされている限り、道化師の役を降りることは許されないということ。
いずれにしても、道化の顔の裏側にある、道化ならぬ人間の存在が哀しみと結びつくのでございます。

ノミのロボットと言うにはあまりに人間らしい動き、あまりに人間臭い歌声は、白塗りの顔とプラスチックのタキシードの向こうで一生懸命、大真面目にロボットを演じるひとの存在を示さずにはおきません。
だからこそヤツの歌もPVも、しばしば爆笑に値するくらい可笑しいにもかかわらず、一抹のもの哀しさをたたえているのではないでしょうか。

TH(トーキングヘッズ)叢書編集長の沙月樹京(鈴木孝)氏はヤツのロボット姿についてこうおっしゃっています。

なら彼は、人間性を捨てて機械になろうとしていたのか-----おそらくそれは正しくないだろう。彼は「シンプル・マン」なのだ。「シンプル・マン」は自分ができる範囲内のシンプルなことをするんだ、と彼は歌う。複雑で回りくどいことを目論んだりせず、歌を歌いたいならただ歌を歌っていようという単純な考えであり、その愚直さがロボット的な容姿に託されているのではないだろうか。 TH叢書No.18 p.99

ロボットが愚直さの象徴であるなら、それを更に愚直に、一生懸命に、それでもなおちょっと下手っぴいに演じざるをえなかったひと、そしてそんなナイーヴな姿でもって人々に大きなインパクトを与え、今もって与え続けているひとを何と呼んだらいいのでございましょう。
ヤツはその姿恰好のみならず、そのありよう自体が道化的であり、破壊的な可笑しさと、ほんの少しのもの哀しさを兼ね備えた存在であった/あるのであろうと思います。

ノミ自身がこうしたもの哀しさを意識していたかどうかは不明でございます。
しかし”SIMPLE MAN”の終盤あたりを見ますと、ああこのひと分かってやってたのかな、とも思うのでございます。

Klaus Nomi - Simple Man