のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

国際稀覯本フェア

2012-03-27 | 
いやはや。
N響アワーが終わってしまったではございませんか。
湿原!キューバしのぎ!ある晩ベルク!祖父とクリーム!
いやしかし、『芸術劇場』は去年潰してしまったし『美の壷』はBSにしまい込んでしまうし、何考えてんでしょうかNHK。来年あたり『日曜美術館』もBSプレミアムに収容ですかね。けっ。


それはさておき
京都市勧業館みやこめっせで開催されていた2012国際稀覯本フェア in Kyotoへ行ってまいりました。

小さなパーチメントに金泥で文字を記した15世紀の手書き時祷書の断片を見ては、書物がとんでもなく貴重なものであった時代に思いを致し、ペーター・シェーファー*1の工房で印刷された挿絵入りインキュナブラ*2をハハーと拝み、ニュートンの初版本には「このページををヴォルテールがめくったかもしれん」と妄想力を発揮してワクワクし、18世紀フランスらしい小口装飾や華麗な金箔押し(中には盛大にひん曲がっているものも)に職人の手作業ということを思い、19世紀の出版界を彩るカラー挿絵本の数々に目を楽しませ、さらには整理券を持っていなかったのに和紙についての興味深い講演に潜り込むこともでき、まことにおもしろくってためになる展示会でございました。

フェアというからには、販売目的の催しでございます。一応、薄っぺらい財布を普段よりも膨らませて乗り込んだものの、目玉商品が小口絵本コレクション(14点セット420万円)や『種の起原』初版(600万円)や嵯峨本『徒然草』(上下巻5000万円)であることからもお察しいただけるように、おおかたワタクシのような貧乏人に手が出せるものはございません。
小口絵本を出品していた雄松堂書店のお姉さんは商売っけのない大変いい方で、いかにもお金持ってなさそうな風体のワタクシに対しても熱心に説明してくださり、高価な商品を手に取らせてもくださいました。しかしワタクシとしては買えないことがはなから分かっているので長居するのも心苦しく、会話もそこそこに早々とブースを離れてしまいました。気が小さくていいことなんか一つもございません。

で、結局何も買わずに帰ったのかと申しますと。
おお、実はそうではございませんで。



1493年にその初版がアントン・コーベルガー*3の工房で印刷・出版された『ニュルンベルク年代記』*4の一葉でございます。たった一葉ではございますが、これが何とまあ、ワタクシでも手の届くお値打ち価格で売られていたのでございますよ。錦絵や植物図譜の図版ページ、きれいな青色で描かれたラフカディオ・ハーンの肖像(木版画と見えました)など、一枚もので比較的手頃なお値段の印刷物が並べられたワゴンの中、大したものでもなさげにひっそりと置かれていたこの一葉(とその値段)を発見した時、緊張のあまり動機は早まり頭に血が上り口の中がからからになりましたですよ。まあコート着っぱなしで暑かったせいかもしれませんけど。

時は西洋活版印刷術の誕生間もない頃、アルドゥス・マヌティウスがヴェネチアに印刷所を構えたり、ダ・ヴィンチがミラノで人力飛行を夢見たり、サヴォナローラがフィレンツェで焼かれたりしていたその頃の書物の一片、『美しきカントリーライフ』展でワタクシに深い感銘を与えたインキュナブラのお仲間が、急に手の届く所へ現れたのですから、そりゃ緊張もしようってもんでございます。
とはいえ、ずいぶん迷ったのですよ。こんなよいものを、のろさんのようなペーペーが持ってしまってよいのであろうか。もっとふさわしく学識ある人や、それなりの保存設備のある機関に買われるべきなのではなかろうかと。

残りのブースを一通り見てまた戻って来ますと、ハーンの青い肖像はもうございませんでしたが『年代記』は相変わらずひっそりと、他の小さめなペラもののを重ねた下に安置されておりました。
おお、おお、ワタクシが一回りしている間に、確かにそれなりの数の人々がこのワゴンを覗いて行ったに違いない、そもそもワタクシが会場に来たのは開催二日目の午後も遅くなってからだ、なのに誰もこの『年代記』を発見しなかったというのだろうか。

というわけで、これも何かの縁だろうというごく曖昧な言い訳に基づき、またこういうものを持つことによって気合いを入れようという気持ちもあり、えいやっと購入いたしました。
お店のかたはどちらかというと面白くもなさそうな様子で「本当は10万くらいしてもいいものなんですが...」とつぶやいてらっしゃいましたが、やっぱりのろみたいなペーペーに買われるのは嫌だったのかしらん。それなら初めから10万の値札をつけて、額縁にでも入れておけばよろしい。



16世紀になると銅版画の発達に伴って、書物の挿絵もそれまでの板目木版画から、より緻密な表現が可能な上に版の摩耗も少ない銅版画にとって代わられるわけでございますが、ワタクシは素朴さの残る15世紀の木版挿絵の方が魅力的に思えます。図像そのもの以上に、凸版の魅力というのもございます。

この圧力。

むかって右肩のFo CCXXVIII(=228)はページ数ではなく、折丁の数なのだそうで。

ああワタクシはがんばろう。
こういうよいものを手に入れたからには、その持ち主たることに恥じないよう、しっかりしなくてはならない。
はずだ。

*1ペーター・シェーファー(1425?-1503)
グーテンベルクの助手で、のちに資産家ヨハンネス・フストと提携して印刷・出版事業を行った。
と言うと聞こえはいいがその経緯は、活版印刷術の開発のためにフストからの投資を受けていたグーテンベルクが、その借金を返せなかったために抵当である印刷機や活字を差し押さえられ、そうした印刷用具一式をそっくり手に入れたフストが、娘婿であり印刷技術にも通じていたシェーファーと組んでグーテンベルク抜きで活版印刷業を始めた、というわりと生臭いお話である。とはいえ商標としてのプリンターズ・マークや奥付を初めて導入し、色刷りの『マインツ聖詩集』をはじめとした美本を印刷・出版するなど、出版界におけるフスト&シェーファー功績は大きい。

*2インキュナブラ(初期刊行本、揺籃期本)
西暦1450年前後の金属活字の開発以降、15世紀の終わり(1500年)までにヨーロッパで刊行された印刷物。

*3アントン・コーベルガー(1440年代-1513)
ニュルンベルクで製パン業を営む裕福な家庭に生まれ、1470年、同地に印刷所を開設した。コーベルガーの名が記載された最初の出版物である1473年の『哲学の慰め』以降、没するまでの40年間に、神学書を中心に、確認されているだけで236種の書物を発行した。コーベルガーの工房から出版された聖書13種のうち12種はラテン語、残りの一種はドイツ語で印刷されており、後者はニュルンベルクで印刷された最初のドイツ語聖書とされる。バーゼルやリヨンなどの印刷業者と提携し、パリやヴェネチアやブダペストといった主要都市に、出版物の販売と手稿の入手のために代理店を出すなど、国際的かつ大規模な営業を行った。最も景気のよい時には植字工、校正係、印刷工、彩色師、製本師など100人を超す熟練工を擁し、24台の印刷機を稼働させており、当時のヨーロッパで最も成功した出版人の一人であった。コーベルガーの死後は甥が商売を継いだが、出版業界の競争が激化したためか、はたまた二代目に創業者ほどの気概と商才がなかったためか、代替わりしてからわずか13年後の1526年に廃業した。

*4『ニュルンベルク年代記』
人文主義者で歴史家であったハルトマン・シェーデルの著作。フォリオ版(全紙を二つ折りにした大きさ)でラテン語版とドイツ語版の二種類が刊行された(拙宅に来たのはラテン語版)。約600ページに渡る本文は大小の挿絵で飾られ、限定版は挿絵に手彩色が施されている。単に『年代記』あるいは『万国年代記』とも呼ばれる。聖書の記述や聖人伝にもとづく世界史や欧州各地の地誌、自然誌などを記し、最終章には世界の終わりと最後の審判の概要まで描かれているというスグレモノである。挿絵の数は全部で1809点にも上るが、使われた版木は645枚であり、要するに同じ版木がキャプションのみ変えて何度も使い回されている。挿絵を提供した画家ヴォルゲムートのもとには1486~1489年の間、当時10代後半であったアルブレヒト・デューラーが徒弟入りしており、『年代記』の挿絵制作に参加していた可能性もある。ちなみにアルブレヒトの名付け親はデューラー家のご近所さんであったアントン・コーベルガーその人だったりする。

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