のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『ヴォルテールの世紀』

2011-07-16 | 
この所リアルな夢を一晩にいくつも見るのでさっぱり寝た気がいたしません。
先日など、「”寝た気がしない”をキーワードにネット検索した所、どうでもいい広告やツイッターばかりヒットして来るのでひたすらイライラしている」という夢の途中で目覚めました。もうなんなんだか。

それはさておき

保苅瑞穂著『ヴォルテールの世紀 -精神の自由への軌跡-』が面白くて面白くて。



帯の文言
激しくも伸びやかなる「精神」
18世紀に燦然と輝く「自由」への軌跡
権力や盲信との闘い。農奴解放のための奔走。そして、共同体の建設。啓蒙の世紀を代表する作家を稀代の政治家でもあらしめたのは、この時代のヨーロッパでこそ生み出されえた「精神の自由」を目指す行動と言葉の力にほかならなかった。膨大な書簡とともに激動の後半生を描く本書は、その力を甦らせる。

18世紀を代表する作家、啓蒙思想家、または本人の自嘲的な言葉によると「ヨーロッパの宿屋の主人」ヴォルテール。
『ヴォルテールの世紀』は彼の名を後世に残すことになる歴史的事件や、このいささか喧嘩っ早い啓蒙の闘士をめぐる興味深いエピソードの数々を時系列に描き出しつつ、それらの事件の歴史的意義、またその顛末や人々の反応によって表現されている18世紀ヨーロッパの時代精神が綴られております。

ハードカバーで470頁という大著でありながら、これがたいへん読みやすい。慎ましい文体の中にもヴォルテールの才能や、皮肉屋でもあり熱血漢でもあり、またどこかいたずら小僧のようでもあったその人柄への愛着と敬意がしみじみと感じられる文章でございまして、読んでいて楽しい。読み終えてしまうのが残念なほどでございました。

また帯の文言にもあるように、本書にはヴォルテール自身や彼の友人たちの書簡が多く引用されております。これがまた読みものなんでございます。

この世は幻想を持たずには生きていけないものです。そして、すこしばかり生きてみると、あらゆる幻想は飛び去ってしまいます。 p.95

といった言い回しなど、『カンディード』の作者の面目躍如たるものがございます。
いたる所に散りばめられた軽妙かつ辛辣な悪態にも思わず笑ってしまいます。

身体のことをいえば、私はかれの脳みそが心配になる。 p.244(←「かれ」とはルソーのこと)

口では人間なんてラララなことを言いながらも、本当は人間大好き!人生大好き!なヴォルテール、寸鉄人を刺す毒舌を吐き、「あまり人間というものをあてにしてはいけない」などとうそぶく一方で、広い人脈を最大限に生かして冤罪事件の被害者救済に力を尽くし、農奴解放に奔走し、異国の大災害のニュースには心からの同情を寄せ、戦争を憎悪し、宗教的不寛容と全力で闘うかたわらで権威を笑い飛ばし、文芸や社会的活動を通じて思想・信仰の自由を訴え、ひいてはフランス革命へと通じる精神的土壌を築いたのですから、なかなか壮大なツンデレぶりと申せましょう。言葉巧みな人ではありますが、決して口だけでは終らず、ガンガン行動していく所がすごい。

本書のおかげですっかりにわかヴォルテールファンになったのろ、中公文庫の『寛容論』に続いて中公クラシックスの『哲学書簡・哲学辞典』に取りかかっております。『哲学書簡』、別名イギリス便りはイギリスの風俗を面白おかしく紹介するエッセイを装いながら、その実フランスの現状を批判する内容でもあったので、出版後ただちに発禁処分ならびに焚書の栄誉に浴し、ヴォルテールは官憲の手をかわすため、愛するパリからすたこらホイと脱出しなければならなかったのでございました。ちなみに『ヴォルテールの世紀』には、この『哲学書簡』発禁にまつわる興味深い逸話も紹介されております。

すいすい読める『ヴォルテールの世紀』と違って、『哲学書簡』には注の助けを借りないと背景や含意が分からない部分もありますが、簡潔な文体の中に鋭いユーモアと風刺をこめるヴォルテールの書きぶりに触れるだけでも大いに楽しめます。
宗派対立の馬鹿馬鹿しさを一文で表現した三つか四つの宗派が神の名のもとにはじめた内乱 p.21 といった言い回しや、肩書きをむやみに重んじる社会への腹立ちを諧謔たっぷりに綴った次の文など実に痛快でございます。

(イギリスでは商人が卑しまれてはおらず、例えば有力な貴族の肉親が普通のあきんどとして暮らしていても、そのことは何ら恥にはならない、という点について)
自分の「古い家柄」を後生大事にしているドイツ人にはそら恐ろしく思えるらしい。ドイツでは誰でも彼でも王侯貴族であるのに反して、イギリスでは貴族の子息がせいぜい金持で有力者の市民でしかないのが、ドイツ人にはどうも納得がいかないのであろう。彼らの国では同じ名前を名乗る殿下が三十人もいるが、その全財産といえば、家の紋章と傲慢な態度だけである。
フランスでは、なりたければ誰でも公爵になれる。そしてむだづかいしてよい金と、アックとかイーユとかで終わる名前を持っていて、辺鄙な片田舎からはるばるパリにやって来る者は誰でも、「わしのような者は、わしのような身分の者は」と言うこともできれば、商人を虫けらのようにばかにもできる。商人自身が自分の職についてしょっちゅうばかげた口調で話されているのを耳にしているので、愚かにも自分の職業を恥じて顔を赤らめてしまう。しかしながら、この両者のいずれが国家に有益であるかは、私にはわからない。頭に念入りに髪粉をふりまいた貴族は、国王のお目覚めとおやすみの正確な時間を知っており、また大臣の控えの間でさも偉そうな顔をしながら、やっていることは奴隷のような役柄であるのにたいして、商人のほうはその国を豊かにし、その事務室からスラットやカイロに指令を送って、世界の幸福に寄与しているのである。
 p.75

人間に与えられる運命の過酷さを嘆き、また人間同士が互いを迫害し合うのにうんざりしながらも、思想・信条の自由を何よりも重んじ、全ての人間が人間らしく生きられる社会の実現を夢見たヴォルテールが今の世に生きていたら、いったいどんな箴言を吐き、どう行動したかしらん。
2007年(日本では2008年)出版の『ヴォルテールの現代性』も気になる所でございます。

そんなわけで
原発関係以外のあらゆるものを読むことが罪悪のように感じられる今日この頃ではございますが、片目を21世紀に注ぎつつ、もう片方の目ではもうしばらくこの18世紀の賢人の追っかけをしてみようかなと思っております次第。



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