のろや

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『ハンナ・アーレント』

2013-12-29 | 映画
(ナチス政権の首脳部がユダヤ人を「移送・移住」ではなく「絶滅」させる政策へと進んだ時)アイヒマンは適応した。彼は物事の秩序を変えるほどの人物ではなかったし、その上、政治のことは何も分かっていなかった。この仕事をしなければならなかった上、気に入ろうが気に入るまいが、ともかくそれをうまくやってのける必要があった。
『不服従を讃えて---「スペシャリスト」アイヒマンと現代』p.12

アドルフ・アイヒマンの裁判が構想されたのは、まさにこうしたコンテクスト(注:建国直後の、ユダヤ人同士の分裂を抱えたイスラエル)においてであった。トム・ゲゼフは書いている。「イスラエル社会をセメントで固めるような出来事が必要だった。魅力的で浄化的な、愛国的な、集団的経験が、カタルシスが必要だった」・・・(中略)・・・断片化したこの社会を再結集する必要があり、アイヒマン裁判がその機会になろうとしていた。
同書p.39

というわけで
映画『ハンナ・アーレント』を観てまいりました。

映画「ハンナ・アーレント」オフィシャルサイト

伝記映画のようなタイトルながら、アーレント自身の半生は回想を交えつつ軽くなぞるように描かれるのみであり、重点はあくまでもアイヒマン裁判でございます。映画としてはおそらくこれが丁度いいバランスでなのでございましょう。こうした構成のおかげで、アーレントの「明晰な哲学者」という以外の人間的な側面も表現されておりましたし、彼女についてごく大雑把な知識しか持たないワタクシでも、背景をおさらいしつつ、すんなりとテーマに付いて行くことができました。
そのテーマとは、不都合な事実と向き合い、考えるということ(=理解しようとすること)の、必要と困難さであったかと。

映画『ハンナ・アーレント』予告編


直接に言及される、「服従」というかたちでの「悪の凡庸さ」の問題のみならず、人が自分の属するもの(より正確には、自分が属すると信じているもの)に対する帰属意識・一体感の強さのあまり、そのグループやイデオロギーのいかなる汚点や誤りも認められなくなってしまうこと、そしてそうした一種の妄信ゆえに歴史的事実すらも直視できなくなってしまうという問題についても描かれており、時代と場所を問わず、鑑賞者をして考えることへといざない、今の社会と照らし合わせての内省を促す作品でございました。

権力への服従によってアイヒマンがコミットしたのが「凡庸な悪」であるならば、不都合な事実から目を背け、さらにはその事実を指摘する人物を攻撃するのも、歴史上様々な時と場所で繰り返されて来た「凡庸な悪」の一形態と言えましょう。
そしていずれの悪も、その発端となるのは思考停止、即ち理解しようとすることの放棄なのでございました。
本作では、考えるということに誠実であろうとしたアーレントを描くのと同じくらい、アーレントが対峙しなければならなかった、思考停止という悪の諸相を描いた映画でもあります。

思考の放棄、目を逸らすこと、見えない所から憎悪のつぶてを投げつけること。
私たちはいかにたやすく、こうした陳腐な悪に陥ってしまうことか。そしてこうした悪がいかに私たちをすくませてしまうことか。
アーレントは(心を痛めながらも)すくみもひるみもしませんでした。しかし、我が身に当てはめて考えてみた時、つまり、たとえ親友との決別や、呪詛と無理解と誹謗中傷の嵐に見舞われようとも、自分の思考への誠実を貫くことができるだろうか、と自らに問うた時、できると胸を張って答えられる人間がどれだけいることでしょうか。あるいは(いつもながらえらい存在感のジャネット・マクティア演じる)メアリー・マッカーシーのように、渦中の友人をあくまで支持し、中傷者と対峙してきっぱりと反論できる人がどれだけいることでしょうか。

多分私たちの多くは、アーレントよりもアイヒマンによっぽど近いのではないかしらん。
考えること、結果を想像することを放棄して、上からの命令を粛々とこなすことにのみ心を砕き、そうすることによって人類史上でも稀な大虐殺の執行者となったアイヒマンに。また、現実的な方策だからという判断のもとに、ナチスに協力して同胞を差し出したユダヤ人評議会(ゲットーの指導者たち)にも。さらには、怒りに駆られてアーレントに呪詛のつぶてを投げつける人々にも、大抵の人は、よっぽど近いのではないかしらん。彼らはアイヒマン同様、何も特別な人間ではなかったのでしょうから。(街頭でのヘイトスピーチで聞くに堪えない罵声を上げている人たちにしても、特別な人間ではないのでしょう。おそらく)



といって、この映画の主眼はもちろん私たちの「凡庸な悪」を免責することではございません。
アーレント自身も「悪の凡庸さ」という言葉でアイヒマンを免責したわけではございませんし。
「理解すること」や「理解しようと試みること」は、しばしば「容認すること」「肯定すること」と混同されがちでございます。だからこそ、思考すること-理解しようとすることに誠実であろうとする人は、しばしば不当な攻撃を受けたりもいたします。
それでも、考えることを止めてはいけない。服従と思考停止に陥ってはいけない。
何となれば、それこそが巨悪へと繋がる道であるのだから。
映画の最終盤にアーレントが渾身のスピーチで訴えるのは、まさにこのことでございます。

とはいえ。

アイヒマン自身もユダヤ人評議会の人々も、自分が思考停止に陥っていることにも、いや服従していることにすら、気づかなかったのではないかしらん。かのミルグラム実験(いわゆるアイヒマン実験)で電圧を上げ続けた被験者たちにしても、服従しているというより、せいぜい渋々ながらの協力をしているという意識でしかなかったのではないかと。
だとすれば、自分が今まさに思考停止に陥って、凡庸な悪にコミットしていないかどうか、いったいどうしたら判断できるでしょう。

それに自分の取るに足らなさを顧みると、つい思うわけです。
ワタクシごときが何ごとか考えてみた所で、あるいはワタクシ一人が何も考えなかったところで、世の中にとっていかほどのことがあろうかと。アイヒマン自身も裁判で言っていたではございませんか、例え自分が命令を拒んだとしても、他の誰かがやっていただろうと。(映画の中ではこの証言は使われていなかったかもしれません)

しかし逆に言えば、ドイツのファシズム体制、そしてシステマティックな大虐殺というおぞましい現象は、服従と思考停止に陥ったアイヒマンのような人物が大勢いたからこそ成り立ったのであって、ヒトラーがいかに巧みに演説しようと、ゲッベルスがいかに巧みに宣伝しようと、従う人々がいなかったらあんなことにはならなかったはずでございます。

アーレントの最初の夫であったギュンター・アンダースは著書『われらはみな、アイヒマンの息子』の中で「想像してみることにまさに失敗することによって私たちの目が開かれる」と書いております。「まさにこの失敗によって、「見通しのきかないもの」を始動させてしまうぞと警告されるのです。」ここで”想像する”とは、行為の結果を想像するということであり、ある計画(例えばユダヤ人の大量移送という計画)に直面したとき、それがもたらす怪物的な結果と、人間の想像力の限界とのギャップに気づく(=想像に失敗する)ことが、自分がその計画に協力するか否かを判断する分水嶺となるという論でございます。

つまる所、個人がいかに非力で取るに足らないように思えるとしても、20世紀半ばに人類自身を踏み荒らした巨悪がまたも立ち上がるのを防がんとするなら、一人一人が想像力を働かせて、そのつど自らの良心にかなう選択をすることによって、できるかぎりアイヒマン化しないことが肝要なのでございましょう。巨悪の発動に繋がるようなシステムを作らない・作らせないようにするというのも、思考停止すべからず、権力に盲従すべからず、自分の良心に照らして恥じないことをなすべしという個人の意識から、まずは発することなのでございましょうね。

しんどい時には、考えるということをまるっきり放棄してしまいたくなりますけれども。
憤りを感じることがあっても「あいつは悪人だから」「あいつらは馬鹿だから」で済ましてしまいたくなりますけれども。
何したって無駄じゃねーの、などとつい思いがちになりますけれどもさ。


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