鷹取山の見える風景~母里太兵衛の城、鷹取城跡
母里太兵衛(1556~1615)は、直方の福智山系鷹取(たかとり)城主で、
黒田官兵衛、 長政親子に仕える重臣でした。
その歴史ある鷹取山は、見る角度によって、趣きを変えます。
そんな、風景を撮ってみました。
(1)正面=西側からは、福智山の山肌で、良く見ないと目立たないのですが・・・。
①.直方市役所の8階からの眺望です。
②.同じ場所から見た、チューリップや桜の咲く頃の風景です。
③.時々頂上が平らで独特な鷹取山のシルエットが見えることがあります。
これは、朝の太陽光線の具合により、浮かび上がった状態です。
④.標高の高い福智山本体(901m)が、雪模様の時は、鷹取山(632m)が
見えやすくなります。
⑤.雨の前後に霧がかかる際に、福智山本体が霧に隠れて、
鷹取山がきれいに見えることがあります。
南北からは、頂上が平らな福智山の支峰として見えます。
(2)北側から見ると、鷹取山は、右手端に飛び出して見えます。
①北側の「楠橋」地区から見ました。
②北側の中間市の遠賀川JR鉄橋の車窓から見ました。
丁度こいのぼりの時期で、遠賀川の河川敷に沢山の鯉が
泳いでいます。右端の建物は、中間市役所です。
同じく、朝のJR列車通勤時、中間の鉄橋を渡る際、ちょうど朝日が
福智山系から顔を見せたタイミングでのスナップです。
(3)南側から見ると、鷹取山は、左手端に飛び出して見えます。
①南側の「赤池、金田」地区から見ました。
遠賀川支流の中元寺川を渡る平成筑豊鉄道の「炭都物語号」と、
鷹取山です。左手に「人見駅」があります。
[鷹取山、鷹取城]のこと
福智山(標高901m)そばの鷹取山の山頂(633m)にあった鷹取城は、元々の
戦国時代の古城が、母里太兵衛友信(もりたへい とものぶ)入城後に修復され、
その後江戸幕府の「一国一城令」で壊されましたが、山頂は平らに広がっていて、
今も石垣の跡を見ることが出来ます。
また、当時の茶の湯文化の時代、鷹取城のふもとの宅間に窯が築かれ、
高取焼が始まりました。
母里太兵衛は「黒田節」のモデルとされる豪傑ですが、頑固者でもあり、
「富士山よりも福智山の方がすばらしい」と言って、生涯譲らなかったという
エピソードも残されています。
****************************************
・・・「高取焼内が磯窯」のこと;慶長19年(1614年)に、朝鮮の陶工である八山(高取八蔵)が、
内が磯の地に大規模な登り窯の「内が磯窯」を開いて、「古高取」として、名品を生み出しています。
その場所は、現在のダム管理棟の下の斜面に位置していました。福智山ダム建設に伴い、
発掘調査や保存工事が平成14年に施され、今は湖水の中に沈んだ状態になっております。
また、発掘された出土品の陶器は保存されています。これらの経緯や歴史的状況は、
湖畔にも案内説明板が設置されています。
****************************************
●「福智山ダム」のこと~●補足1
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
◎こちらもどうぞ:
「みんなで選ぶ筑豊市民遺産 筑豊の誇り」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
母里太兵衛(1556~1615)は、直方の福智山系鷹取(たかとり)城主で、
黒田官兵衛、 長政親子に仕える重臣でした。
その歴史ある鷹取山は、見る角度によって、趣きを変えます。
そんな、風景を撮ってみました。
(1)正面=西側からは、福智山の山肌で、良く見ないと目立たないのですが・・・。
①.直方市役所の8階からの眺望です。
②.同じ場所から見た、チューリップや桜の咲く頃の風景です。
③.時々頂上が平らで独特な鷹取山のシルエットが見えることがあります。
これは、朝の太陽光線の具合により、浮かび上がった状態です。
④.標高の高い福智山本体(901m)が、雪模様の時は、鷹取山(632m)が
見えやすくなります。
⑤.雨の前後に霧がかかる際に、福智山本体が霧に隠れて、
鷹取山がきれいに見えることがあります。
南北からは、頂上が平らな福智山の支峰として見えます。
(2)北側から見ると、鷹取山は、右手端に飛び出して見えます。
①北側の「楠橋」地区から見ました。
②北側の中間市の遠賀川JR鉄橋の車窓から見ました。
丁度こいのぼりの時期で、遠賀川の河川敷に沢山の鯉が
泳いでいます。右端の建物は、中間市役所です。
同じく、朝のJR列車通勤時、中間の鉄橋を渡る際、ちょうど朝日が
福智山系から顔を見せたタイミングでのスナップです。
(3)南側から見ると、鷹取山は、左手端に飛び出して見えます。
①南側の「赤池、金田」地区から見ました。
遠賀川支流の中元寺川を渡る平成筑豊鉄道の「炭都物語号」と、
鷹取山です。左手に「人見駅」があります。
[鷹取山、鷹取城]のこと
福智山(標高901m)そばの鷹取山の山頂(633m)にあった鷹取城は、元々の
戦国時代の古城が、母里太兵衛友信(もりたへい とものぶ)入城後に修復され、
その後江戸幕府の「一国一城令」で壊されましたが、山頂は平らに広がっていて、
今も石垣の跡を見ることが出来ます。
また、当時の茶の湯文化の時代、鷹取城のふもとの宅間に窯が築かれ、
高取焼が始まりました。
母里太兵衛は「黒田節」のモデルとされる豪傑ですが、頑固者でもあり、
「富士山よりも福智山の方がすばらしい」と言って、生涯譲らなかったという
エピソードも残されています。
****************************************
・・・「高取焼内が磯窯」のこと;慶長19年(1614年)に、朝鮮の陶工である八山(高取八蔵)が、
内が磯の地に大規模な登り窯の「内が磯窯」を開いて、「古高取」として、名品を生み出しています。
その場所は、現在のダム管理棟の下の斜面に位置していました。福智山ダム建設に伴い、
発掘調査や保存工事が平成14年に施され、今は湖水の中に沈んだ状態になっております。
また、発掘された出土品の陶器は保存されています。これらの経緯や歴史的状況は、
湖畔にも案内説明板が設置されています。
****************************************
●「福智山ダム」のこと~●補足1
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
◎こちらもどうぞ:
「みんなで選ぶ筑豊市民遺産 筑豊の誇り」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~