読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『猫を抱いて象と泳ぐ』

2010年05月26日 | 作家ア行
小川洋子『猫を抱いて象と泳ぐ』(文芸春秋、2009年)

ブログを書くのも久しぶりなら、小川洋子を読むのも久しぶりだ。『ミーナの行進』以来だろうか。最近は仕事関係の本を読むことが多く、ブログに書くような本をあまり読んでいない。ということもあるし、また小説だとかその他趣味の本だとかを読む気力がうせてしまっているような気がする。小説だってけっしてこの小説までずっと何も読んでいなかったわけではなくて、いくつか読んだのだが、ブログを書く気がしなかった。たぶんこれからも月一くらいしか書かなくなるかもしれない。

さて、小川洋子のこの小説はいかにも小川洋子らしい小説だ。この人はだいたい普段だれも熱中しないようなことに熱中する主人公が、その常軌を逸したというか、普通でない熱中の仕方がひきづるように人間の死だとか物だとかに執着する世界が描かれる。たとえば『寡黙な死骸 みだらな弔い』の六歳のときに捨てられた冷蔵庫のなかに入って死んでいた息子のために毎年のようにイチゴ・ショートケーキを買いに来る母親だとか、心臓が皮膚のすぐ下まで出てきているという特別な体をもった歌手のためにそれを被うかばんを作ることを依頼されたかばん屋が完成直前に手術をするからいらないとキャンセルされたためにその女性の入院先に出かけて心臓を切り取ってしまう話だとか、フランス映画にもなった『指輪の標本』だとか。

『博士の愛した数式』なんかも本当はこうしたちょっと風変わりな小川洋子の世界に属するのだが、映画では博士に愛された少年が高校の数学の先生になって博士のことを生徒たちに語るというようになっているために、そうしたポー風のエロチシズムや暗い世界が明るい世界におき直されてしまったと言える。それが好いか悪いかは、小説と映画は別物と考えるならいいのだろう。原作者である小川洋子がそれで文句言わなければいいのかも。
チェスというのはまったく興味がないゲームなので、そこがこの小説の面白さを半減させてしまった。リトル・アリョーシャとミイラのあいだで交わされる棋譜記号を使った文通の意味が私にはさっぱり分からなかっただけでなく、そのあたりから、興味を失ってしまった。チェスのことをよく知っている人には興味深かったのかもしれない。チェスというゲームのイメージは、『ショーシャンクの空の下』で妻とその愛人を殺した罪で終身刑となったエリート銀行員のアンディが無実の罪のために服役しながらチェスの駒を彫る話からできてしまった。ティム・ロビンスが時間はたっぷりあるんだからといいながら、駒を彫る。チェスというものがそういうエリート銀行員のようなインテリのするゲームだというイメージが私のなかにできてしまった。

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