読書な日々

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『オリンピックの身代金』

2011年11月24日 | 作家ア行
奥田英朗『オリンピックの身代金』(角川書店、2008年)

オリンピックの身代金
奥田 英朗
角川グループパブリッシング
戦後日本の復興と国民的統合意識の再興に一躍かった1964年(昭和39年)の東京オリンピックの年には私は9歳だった。鳥取県の山奥の小学校でもその熱狂は伝わり、まだ多くの家でテレビがなかったので、私は小学校のテレビが設置してある教室でみんなと見た(たぶん開会式かなんか)記憶がある。でも私にはそれくらいの記憶しかない。この小説にでてくる秋田の山奥の人々の場合と同じことで、どこか遠くで行われているイベント、自分にとってはあまり縁のない出来事のようにしか思っていなかったのだろう。私にとってそれ以上に強烈だったのは、はやり1970年の大阪万博であった。年齢も15歳で、ちょうど中学三年生の修学旅行の時期と重なっており、京都・奈良を回った後、最終日に万博見物をした。

もちろんこの二つの出来事は、世の中のことをまったく知らない子供時代のことであり、その社会的な意義だとか、裏に隠された意味などは知る由もない。ただただ純粋に楽しんだり、おもしろがったり、驚いたりする対象でしかなかった。だから同じ万博でもつくば万博だとか愛知万博は、まったく興味さえ惹かなかった。しかし東京オリンピックだって大阪万博だって、ただのお祭りではないことは、大人になれば少しはわかってくるだろう。

東京オリンピック関連の土建作業に当たっている出稼ぎ労働者たちの一人であった年の離れた兄の死をきっかけに自らも土木作業員として働き始めた島崎国男が彼らの非人間的な扱われように怒りを感じて、偶然手に入れたダイナマイトで警察幹部の自宅、警察学校、モノレールの橋脚などを爆破し、最終的には身代金を要求するようになった過程を描いた小説なのだが、すべての描写が一本線の時間線の上を流れるように描かれておらず、行ったり来たりを繰り返すという描き方になっている。

奥田英朗の小説の特徴は、もともとまったく無関係だった複数の人間たちの行動線が最後には一つに交わって大きな出来事になるというものが多かったが、それに似ていなくもない。ただ島崎国男の東大時代の元同級生で中央テレビの局員になっている須賀忠(父親はオリンピックの警視庁の警備本部の幕僚長)彼がよく本を買いに行く本屋の娘の小林良子、今回の事件を追うことになる警視庁刑事の落合昌夫は冒頭の三章にそれぞれ紹介がてら割り当てられている。しかしそこから日付は、7月の中頃に戻ったり、爆破事件が初めて起きた8月22日にもどったりと、行ったり来たりを繰り返して、最後に開会式の行われた10月10日に収斂するというふうになっている。

なぜなのだろうかと考えてみる。たぶんこういう話は一本線のように描く通常の描き方だと、いったん物語が動き出すと、メインである島崎国男以外の登場人物(刑事の落合とか本屋の娘の良子たち)の個人的な人間関係や行動を詳細に描いている余裕が亡くなってしまう。そんなことをしていたら、たぶん読者の反感を買ってしまう可能性がある。そこで行ったり来たりの方法を用いることで、一見事件とは無関係の話を持ちだして詳しく書いていっても無理がないようにした? あるいは、この物語自体はいたって単純な話なので、複雑に見せるために、こういう方法をとった?

たしかに面白くて、電車の乗り換えを間違えそうになるくらいに夢中になって読んだ。久々の奥田英朗の世界に浸った。

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