朝日新聞インタビュー
今日の朝日新聞に週一で連載中の中野重規のインタビューが載っている。毎週各界のオピニオンリーダーと言われる人たちにインタビューをしている。今回は共産党委員長の志位君だ。どんな話が聞けるのかと興味津々だったが、はっきり言ってやっぱりねという感じでがっかりだった。言っていることが支離滅裂。まぁ新聞一ページだけの記事なので、期待する方が間違っていると言えるかもしれないが、中国が市場経済を導入したことを称えながら、記事の最後のほうでは共産党の基本理念は生産の社会化と意味のないことを繰り返している。中国の市場経済導入を是とすることと生産手段の社会化という理念が矛盾していることにまったく気がついていない。
たしかに冒頭で話に出ていたように、今の資本主義経済の矛盾をもっとも根本的に明らかにしたのはマルクスの『資本論』だろう。たとえば近代以前の職人の場合、生産手段がすべて自分もちだ。自分で労働することで生産物を作り、それを売ることによって収入を得る。生産手段がABCとあって、その価値がそれぞれ1とすると、1+1+1が10の価値を生み出す。なぜ3ではなくて10かといえば、そこに労働力が加わって、生産物の価値を増やすからだ。そしてその労働力そのものも自分持ちなので、出来上がった価値10はすべて自分のものになる。だからそこには剰余価値はあっても、搾取はない。
しかし資本主義経済になって生産手段の持ち主(資本家)と労働力の提供者が別になると、1+1+1(生産手段)+1(労働力を買う価値)つまり4が10を生み出す。そしてその剰余価値である6は資本家のものになる。労働者が6の剰余価値を生み出しながら、労働者が手にするのは労働力の対価である1だけということになる。ここに搾取が生まれるというのが『資本論』が明らかにしたことだ。さらにその前提として市場経済があり、それはつねに過剰生産を生み出す。売れるものには資本が集中し、需要を大幅に超えて過剰生産を生み出す。そのバランスが崩れることで恐慌などが生じる。そこで生産手段の社会化(国有化)と計画経済という社会主義経済の理論が生まれ、現にソ連や一時期の中国でそうした社会主義経済が行われたが、それは歴史の事実が示すように失敗した。
その原因を社会主義経済をやっていた研究者には解明する努力をしてほしいと思うのだが、そんな話は聞いたことがない。第一に、生産手段の社会化というのは現実にはどういう事態を意味するのか、はたして国有化ということなのか。以前は生産手段の社会化=国有化と思い込んでいたが、経済と政治は違うように、政治の力で(つまり人為によって)生産手段の社会化ということが可能なのかと、最近の私は疑問に思っている。中国は社会主義と名乗っている独裁国家のもとで資本主義経済がやっと軌道に乗った社会にすぎない。社会主義国の甲板を下ろすなら別に構わないが、社会主義国だと名乗っているから話がややこしい。
市場経済=資本主義経済ではない。しかし資本主義経済の前提に市場経済がある。市場経済なくして資本主義経済はない。資本主義経済は生産を徹底的に社会化する。労働しなくて生きていける人はいない。生産活動の分業化の徹底化でもある。その先にしか生産手段の社会化への転換は存在しようなような気がする。それは人為で可能なことではないような気がする。理論的に説明できないから、気がする、としか書けないが。そうした徹底化を助けるのが市場経済に他ならない。資本主義経済があるかぎり、市場経済は資本主義経済の前提なので、なくなることはない。
1でしかなかった労働力の価値が2や3や4になっていけば、人間の生活はよくなる。ただこうした考え方はいわゆる改良型資本主義というものだろう。これまでは市場経済ではけっしてありえないと言われてきた。マルクスも資本の論理はこの1を小さくするほうに働くことはあっても、増やす方には働かない、それが資本の論理だと主張している。そこから絶対的貧困の理論というものも出てきた。しかし本当にそうだろうか?そこには労働運動の視点が欠落しているし、少なくとも、人間にできることは労働運動によって労働力の価値(労働市場での売値)を大きくすることしかないような気がする(またまた、気がする、だけど)。
生産手段の社会化がどういう事態を意味するのか(まさか、国有化のことだなんて思っていないだろうね、志位くん)、そのとき市場経済が前提にあるのかどうか、結局はなにも分かっていない。そういう肝心要のことが何も分かっていないのに、それを金科玉条にして繰り返していてもねぇ…
今日の朝日新聞に週一で連載中の中野重規のインタビューが載っている。毎週各界のオピニオンリーダーと言われる人たちにインタビューをしている。今回は共産党委員長の志位君だ。どんな話が聞けるのかと興味津々だったが、はっきり言ってやっぱりねという感じでがっかりだった。言っていることが支離滅裂。まぁ新聞一ページだけの記事なので、期待する方が間違っていると言えるかもしれないが、中国が市場経済を導入したことを称えながら、記事の最後のほうでは共産党の基本理念は生産の社会化と意味のないことを繰り返している。中国の市場経済導入を是とすることと生産手段の社会化という理念が矛盾していることにまったく気がついていない。
たしかに冒頭で話に出ていたように、今の資本主義経済の矛盾をもっとも根本的に明らかにしたのはマルクスの『資本論』だろう。たとえば近代以前の職人の場合、生産手段がすべて自分もちだ。自分で労働することで生産物を作り、それを売ることによって収入を得る。生産手段がABCとあって、その価値がそれぞれ1とすると、1+1+1が10の価値を生み出す。なぜ3ではなくて10かといえば、そこに労働力が加わって、生産物の価値を増やすからだ。そしてその労働力そのものも自分持ちなので、出来上がった価値10はすべて自分のものになる。だからそこには剰余価値はあっても、搾取はない。
しかし資本主義経済になって生産手段の持ち主(資本家)と労働力の提供者が別になると、1+1+1(生産手段)+1(労働力を買う価値)つまり4が10を生み出す。そしてその剰余価値である6は資本家のものになる。労働者が6の剰余価値を生み出しながら、労働者が手にするのは労働力の対価である1だけということになる。ここに搾取が生まれるというのが『資本論』が明らかにしたことだ。さらにその前提として市場経済があり、それはつねに過剰生産を生み出す。売れるものには資本が集中し、需要を大幅に超えて過剰生産を生み出す。そのバランスが崩れることで恐慌などが生じる。そこで生産手段の社会化(国有化)と計画経済という社会主義経済の理論が生まれ、現にソ連や一時期の中国でそうした社会主義経済が行われたが、それは歴史の事実が示すように失敗した。
その原因を社会主義経済をやっていた研究者には解明する努力をしてほしいと思うのだが、そんな話は聞いたことがない。第一に、生産手段の社会化というのは現実にはどういう事態を意味するのか、はたして国有化ということなのか。以前は生産手段の社会化=国有化と思い込んでいたが、経済と政治は違うように、政治の力で(つまり人為によって)生産手段の社会化ということが可能なのかと、最近の私は疑問に思っている。中国は社会主義と名乗っている独裁国家のもとで資本主義経済がやっと軌道に乗った社会にすぎない。社会主義国の甲板を下ろすなら別に構わないが、社会主義国だと名乗っているから話がややこしい。
市場経済=資本主義経済ではない。しかし資本主義経済の前提に市場経済がある。市場経済なくして資本主義経済はない。資本主義経済は生産を徹底的に社会化する。労働しなくて生きていける人はいない。生産活動の分業化の徹底化でもある。その先にしか生産手段の社会化への転換は存在しようなような気がする。それは人為で可能なことではないような気がする。理論的に説明できないから、気がする、としか書けないが。そうした徹底化を助けるのが市場経済に他ならない。資本主義経済があるかぎり、市場経済は資本主義経済の前提なので、なくなることはない。
1でしかなかった労働力の価値が2や3や4になっていけば、人間の生活はよくなる。ただこうした考え方はいわゆる改良型資本主義というものだろう。これまでは市場経済ではけっしてありえないと言われてきた。マルクスも資本の論理はこの1を小さくするほうに働くことはあっても、増やす方には働かない、それが資本の論理だと主張している。そこから絶対的貧困の理論というものも出てきた。しかし本当にそうだろうか?そこには労働運動の視点が欠落しているし、少なくとも、人間にできることは労働運動によって労働力の価値(労働市場での売値)を大きくすることしかないような気がする(またまた、気がする、だけど)。
生産手段の社会化がどういう事態を意味するのか(まさか、国有化のことだなんて思っていないだろうね、志位くん)、そのとき市場経済が前提にあるのかどうか、結局はなにも分かっていない。そういう肝心要のことが何も分かっていないのに、それを金科玉条にして繰り返していてもねぇ…