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不愉快な『神々のたそがれ』

2022年09月18日 | 映画
不愉快な『神々のたそがれ』(バイロイト音楽祭2022)

9月11日にNHKで今年の8月にバイロイト音楽祭で上演されたワグナーの『神々のたそがれ』が放送されたので、録画しておいたものをやっと昨日見ることができた。

じつはこのブログでも書いてきたのだが、びわ湖ホールで4年がかりで『ニュールンベルグの指輪』が上演され、それを第三作まで見た。

『ラインの黄金』
『ワルキューレ』
『ジークフリート』

シリーズ最後の『神々のたそがれ』はコロナで無観客上演をネットで見るというものになった。それ以前に、私は自分の都合で予約もしていなかったので、半分諦めていて、このネット上演も「もうええわ」と見なかった。

しかし、今回テレビで見ることができるので、せっかくなら見ておこうと思い、時間が取れる土曜日を使って4時間半くらいもかかるのを全部我慢してみた。

びわ湖ホールの演出はミヒャエル・ハンペでオーソドックスだが、シルクスクリーンを使用して、超自然現象(ライン川の水の精霊たちが水中を泳ぐ、女戦士たちが馬に乗って空を駆ける、など)を上手に演出していて、ワグナーの意図を忠実に描きだそうとするもので、非常に好感が持てた。

ところがバイロイト音楽祭2022は、ヴァレンティン・シュヴァルツという人の演出で、最近良く見かけるタイプ。つまり服装や舞台美術を現代に持ってきて、神話を現代の家庭の話にするというものだ。

このような演出があることは知っていたが、見たことはなかった。見るまでは、言葉が神話的な語彙や超自然現象的な言葉を使うのに、日常生活を見せる世界と違和感があるのではないかくらいにしか考えていなかったが、たいへんな勘違いだった。

それどこではない、ひどく反社会的な演出だということがわかった。まず神話的主題といっても、同じように神話を題材にしたフランスのバロックオペラによくあるものだが、ある意味で、男女の色恋いや恋愛の駆け引きが宮廷内や神々の権力争いとして描かれるという場合が多い。つまりそこだけ取り出してみれば、早い話が、男女の痴話喧嘩である。

このような現代世界に移植した演出は、神話的側面を削ぎ落として、本当に単なる痴話喧嘩にしてしまう。この『神々のたそがれ』もまったく同じ。ブリュンヒルデやジークフリートの神話的力はまったく消し飛んで、ただの結婚生活に飽きた中年男のジークフリートが嫁探しをしているグンターに自分の嫁を策略によって譲り渡すという話に単純化されてしまっている。

そしてこの大作オペラの主題の一つである「指輪」は二人のあいだの子供(10歳くらいの少女を使っていた)ということにして、その子を小突き回したり、引っ張り回したりと、この少女の親が見たら腹を立てると思うような演出をさせていて、不愉快この上ない。

たいていは痴話喧嘩を思わせる歌詞、でもときどきそれとまったく相容れない神話的歌詞、そこにまったく場違いない音楽の連続、音楽をそぐわない舞台美術、もう、すべてがバラバラの演出に、やれやれという思いで見終わった。いったいこれのどこがブラヴォーなんだか。
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