読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『12ヶ月の未来図』

2019年05月15日 | 映画
『12ヶ月の未来図』(フランス映画、テアトル梅田)

パリのアンリ4世高校といえば、サルトルやシモーヌ・ヴェイユも勉強した歴史あるリセで、現在の大統領であるマクロンも進学のためにここに転校してきたという学校である。フランスは高校卒業時にバカロレアという国家試験を受けて、これに合格すれば国立大学に入れる。優秀な学生はさらに準備級というところに通ってグランゼコールを目指す。この準備級というのはどこのリセにもあるわけではなくて、それなりのリセでなければ設置していない。

このアンリ4世高で国語の教師をしているフランソワ・フーコーがレポートを返却する場面から始まる。その学生をバカにしたような態度、のっけから私にはフランスの教師が生徒に対する態度に違和感を覚える。

このフランソワが、父親の出版記念パーティーにおける雑談の中で、ベテラン教師がパリ郊外の底辺校で教えるべきだと持論を述べたことから国民教育省の官房長とのランチミーティングに呼ばれ、そこでその持論を褒められ、改革のためにぜひあなたが教えに行ってほしいと頼まれ、郊外の底辺校に一年間出向することになる。

初日、フランソワの運転する車から見える街の様子が、パリ市内の賑やかな洒落た雰囲気から、荒んだ、怪しげな街に変貌する様子が分かる。彼が駐車した車の前にあるのは暴動で燃やされた車。そして大騒ぎしている生徒たち。

映画の核心は、教師と生徒の関係が一つ。フランスでは教師は絶対的な権威を示し、生徒は教師に敬意をもって接しなければならないという不文律があるようで、教師が生徒に対する対応の仕方は、私のようなものから見ると、恐ろしい。しかしまぁそこはお国柄だとしておこう。

第二の核として底辺校の貧困の問題があるはずなのだが、この映画では取り上げられない。

フランソワはなんとかして生徒たちに本を読む面白さを身に着けさせたいと思う。できなかった経験が最初から自分はできないと思わせるということを、アナグラムの授業で理解させ、さらに生徒受けする表現で出来事を話して、そういう話しなら読んでみたいと言わせた後に、それが『レ・ミゼラブル』という小説なんだと教える。

そしてこの小説からディクテーションの試験を出すのだが、セドゥという生徒側の主人公とも言える生徒が良い点を取る。それに気を良くしたセドゥは、フランソワに心を開くようになる。

遠足でヴェルサイユ宮殿に行った日に、セドゥは好きなマヤと、ルイ16世のベッドの下に隠れて、誰もいなくなった後に、ベッドに上がって二人でツーショットをとる。それが監視カメラで分かり、大問題になる。二人は会議にかけられ、セドゥは退学処分になる。

しかしそれに納得がいかないフランソワは、この会議の不備を指摘して、撤回させる。そしてセドゥが戻ってきて、学年末に。フランソワがまたアンリ4世高に帰るという日にセドゥが「先生がいなくなったら寂しい」という。

こういう内容で、レビューは高得点が多い。だが、私には理解できないことばかりで、どこがそんなにいいのだろうかと疑問に思う。

第一に、ディクテーションでセドゥが良い点を取るのだが、実は彼はカンニングをしており、それをフランソワも知っているのだ。なぜそのことを問題にしないのだろうか。良い点を取らせて、セドゥがやる気になるように仕向けるというのだろうか。それは邪道だろう。セドゥが好きなマヤにどうやって良い点を取ったのか教えてと言われ、どうやら何かを教えたらしく、次にはマヤは満点をとる。この箇所は映画では描かれていない。この部分こそ、描くべきところではないだろうか。

第二に、セドゥがフランソワに心を開くようになって、マヤの気を引くにはどうしたらいいかと問われ、フランソワは目立つことをすることだと教え、その一例として詩を書くことと話す。それを聞いたセドゥはマヤに詩を書いて渡すが、マヤからはバカにしたような態度で突き返される。つまりフランソワのアドバイスは失敗だったわけだ。なのにセドゥはそれでフランソワへの態度を変えるわけでもない。どうして?

第三に、会議でセドゥはいったん退学処分を告げられる。次の日セドゥは学校に来ない。フランソワが家に行ってみると、同じように退学処分にあった年上のごろつきたちと連れ立って(というか仲間に引き釣りこまれて)逃げ去る。

ところが数日後にセドゥは学校に戻ってくる。なぜ?どういう心境の変化?そこのところこそ映画で描いてほしいところなのに、映画ではまったく描かれない。

第四に、底辺校の生徒たちが勉強しない理由の一つに、勉強することに意義が見いだせないということがある。その点をフランソワはどう説得するのだろうかというのが私の関心の一つであった。フランソワは、勉強すれば未来が開けると言う。嘘だろう。パリ郊外の若者たちが荒れ狂うのは、未来がないからだ。ただでさえ若者の失業率25%、移民の子供の失業率35%という状況で、勉強したからといって、どんな未来が彼らに見いだせるのだろうか?

この映画をフランス版『学校』(山田洋次監督、1993年)だと書いていたレビュがあったが、全然違うと思う。そもそも日本とフランスでは全然社会状況が違う。少なくとも、山田洋次監督の『学校』が作られた頃の日本とは。

高得点を与えられるような映画なんだろうか。


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