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リュリ『アルミード』

2013年01月16日 | 舞台芸術

リュリ『アルミード』(ウィリアム・クリスティ指揮)

Armide Stephanie d'Oustrac
Renaud Paul Agnew
La Haine Laurent Naouri

シャンゼリゼ劇場で上演されたもので、指揮はクリスティで、演出はRobert Carsenという人。クリスティは1983年にリュリの『アティス』を上演して、フランスのバロックオペラ復活の立役者となった人で、もちろん音楽づくりにも定評があるし、申し分ないのだが、オペラはCDで聞くなら別だが、上演を見る場合には演出が相当のウエイトを占めることになる。はっきり言って演出で決まると言っても過言ではない。ところが、ラモーの『遍歴騎士』でもそうだが、あまりに突拍子もない演出家と組むことが多くて、せっかく世界初演というような作品を上演することが多いのに、「なに?これ?」というような上演を見せられて、驚く。この『アルミード』もそのような一つと言っていい。

リュリのオペラは当時の支配者ルイ14世が主題の指示からリハーサルにいたるまで関与していたこともあり、プロローグは彼を讃えるために作られている。現代の上演においてそれをどのように扱うかという問題はたぶん演出家を悩ませることの一つだろう。この上演ではプロローグのあいだヴェルサイユ宮殿を観劇しているという設定で、ガイドがプロローグを歌いながら、歌詞にピッタリの絵画や写真を舞台に写して見せるという趣向になっていて、さらには合唱団が旅行者たちの一団として登場し、その一人がルイ14世のベッドで眠り込んでしまい。その夢の内容として『アルミード』を描き出すという設定になっている。

アルミードは、最近フランス・オペラの主演としてよく出ているステファニー・ドゥストラック。ほとんどの場面がプロローグでルイ14世のベッドとして舞台中央に置かれていたベッドを中心にして展開する。服装は現代風で彼女はノースリーブの赤いワンピースに、ときおり赤いガウンのようなものを身につけるだけ。男性たちもワイシャツにジーパン(あるいはチノパン)という出で立ち。アルミードが心ならずも宿敵ルノーに恋心を抱いてしまったことを嘆く。彼は自分たちの捕虜を解放してしまう宿敵なのだ。ルノーはポール・アグニューが演じる。

第二幕は、アルミードが作り出した偽の楽園に入り込んだルノーがそこで偽の精霊たちに快楽の世界に誘われて眠り込んでしまうというなが~~~い場面が延々と続く。そこでも真っ赤なワンピースを着た女たちが真っ赤な照明を当てられた舞台でそれらを演じる。彼女たちがアルミードとまったく同じ衣装をしているということは、彼女たちはアルミードの化身として作られているということを示そうとしているのだろう。そして最後に有名なアルミードのモノローグが来る。

第三幕では、宿敵ルノーに恋してしまったアルミードが冥界の憎悪の女神にルノー殺害を頼んでは断るという矛盾した行為を見て、彼女の中に巣くう愛を追いだそうとする場面で、まるで、衆人環視の前で、アルミードが男たちに陵辱されているような演出がされている。見ていて、ちょっと不愉快になる。

第四幕は、アルミードの手の中に落ちたルノーを救出するためにやってきた二人の騎士の前に、二人の恋人(ここにいるはずのない恋人)が現れ、二人を誘惑する。もちろんアルミードが遣わした悪魔が化けたもの。そしてこの恋人が素っ裸なのだ。照明は弱められているし、薄いカーテンが舞台全面に降りているので客席からあそこまで見えるわけではないのだが、そこまでしなければならないのだろうかと思う。ラモーの『遍歴騎士』の時もそうで、素っ裸の男女がダンスをする場面がある。必然性がまったく分からない。

第五幕は、ルノー救出のために来た二人の騎士のおかげで、快楽の世界から目を覚ましたルノーがアルミードへの愛を振りきって逃げ去り、それに絶望したアルミードが世界の崩壊を命じて終わるのだが、愛し合いながらも別れねばならない二人のやり取りという最後の盛り上がり舞台ではあまり感じられない(ヘヴェレッへのCDを聞いているほうがよほど感銘する)のは残念だ。なぜなのか、私にもよくわからないが。そして最後の宮殿崩壊は、当時の舞台ではどうやったのだろうか。見てみたいものだが、この現代風演出では当然なにもない。


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