『命ひとつ-よく生きるヒント『(小学館新書・大峯あきら著)のつづきです。
次に「言葉の第三の次元」だそううです。以下転載します。
それでは、言葉の次元は実用語と概念語の二つで終わりでしょうか。そうではなく、第三のものとして、「詩的言語」という次元があります。
これは、すぐれた詩の内に働いている言葉です。
…スイスの思想家のマックスーピカート(一八八八~一九六五年)は、このような詩的言語の特徴を次のよに言い表しています。
「日常の言葉においては、人間は物について自分が語ることを聞いている。ところが詩においては、人間は物が物自身について語るのを聞くのである」 (『人間と言葉』 一九五五年)
(優れた詩の言葉は)物について人間の知性が語っている概念ではなくて、物自身が語っている言葉を詩人が聞きとった言葉なのです。記号や概念としての言葉はどこまでも物それ自身ではありませんが、ここでは言葉が物そのものを自分の内に含むということが起こっています。だから、これらの俳句に感動する人は、言葉が実際のものを宿すこと、実物を我々にもたらしてくれることの不思議を経験し、そのことに驚いているのだということになります。
詩の言葉は、人間に呼びかける物自身の言葉を聞いて、これに応える人間の営みを意味しています。(イデッガーはこう書いています。
「われわれが神々(物)の名を呼ぶことは、神々自身のほうがわれわれに呼びかけ、われわれを招喚することによってはじめて可能なのである。神々の名を呼ぶ詩人の言葉はいつでも、この招喚に対する応答である」(『ヘルダーリンの詩の解明』 一九五一年)
もう一つ深い次元が残っています。
『大無量寿経』に説かれた阿弥陀如来の本願の名号、南無阿弥陀仏という言葉の次元がそれです。
「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもってそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」
『歎異抄』の中に出てくる親鸞のこの文章は、詩的言語を含めた、人間の立場から発せられるすべての言葉に対する絶望の自覚において初めて起こる、真実の言葉との出会いを教えています。ここで「そらごとたはごと」というのは、その場かぎりの空しい事柄を意味すると同時に、中身のない言葉だけの言葉、嘘いつわりの言葉という意味でもあります。人間世界の出来事の空しさとは、そのまま人間が言う言語の空しさです。空しい言葉とは、言葉とそれが言い表そうとする中身とが一致していない言葉のことです。
そういう不一致が生まれる原囚はどこにあるかというと、人間が言葉を人間の所有権の下に置き、言葉を自分の道具として支配しようとすることにあると思います。このことに気づかされたときが、真実の言葉である仏の名号との出遭いのときです。「ただ念仏のみぞまことにておはします」と言われる場合の「まこと」とは真実の事柄であると同時に、真実の言葉を意味します。人間が真実と出会えるのは真実の言葉を通してだということです。つまり、人間が真実と出会うのは、仏の名号においてだということです。(以上)
次に「言葉の第三の次元」だそううです。以下転載します。
それでは、言葉の次元は実用語と概念語の二つで終わりでしょうか。そうではなく、第三のものとして、「詩的言語」という次元があります。
これは、すぐれた詩の内に働いている言葉です。
…スイスの思想家のマックスーピカート(一八八八~一九六五年)は、このような詩的言語の特徴を次のよに言い表しています。
「日常の言葉においては、人間は物について自分が語ることを聞いている。ところが詩においては、人間は物が物自身について語るのを聞くのである」 (『人間と言葉』 一九五五年)
(優れた詩の言葉は)物について人間の知性が語っている概念ではなくて、物自身が語っている言葉を詩人が聞きとった言葉なのです。記号や概念としての言葉はどこまでも物それ自身ではありませんが、ここでは言葉が物そのものを自分の内に含むということが起こっています。だから、これらの俳句に感動する人は、言葉が実際のものを宿すこと、実物を我々にもたらしてくれることの不思議を経験し、そのことに驚いているのだということになります。
詩の言葉は、人間に呼びかける物自身の言葉を聞いて、これに応える人間の営みを意味しています。(イデッガーはこう書いています。
「われわれが神々(物)の名を呼ぶことは、神々自身のほうがわれわれに呼びかけ、われわれを招喚することによってはじめて可能なのである。神々の名を呼ぶ詩人の言葉はいつでも、この招喚に対する応答である」(『ヘルダーリンの詩の解明』 一九五一年)
もう一つ深い次元が残っています。
『大無量寿経』に説かれた阿弥陀如来の本願の名号、南無阿弥陀仏という言葉の次元がそれです。
「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもってそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」
『歎異抄』の中に出てくる親鸞のこの文章は、詩的言語を含めた、人間の立場から発せられるすべての言葉に対する絶望の自覚において初めて起こる、真実の言葉との出会いを教えています。ここで「そらごとたはごと」というのは、その場かぎりの空しい事柄を意味すると同時に、中身のない言葉だけの言葉、嘘いつわりの言葉という意味でもあります。人間世界の出来事の空しさとは、そのまま人間が言う言語の空しさです。空しい言葉とは、言葉とそれが言い表そうとする中身とが一致していない言葉のことです。
そういう不一致が生まれる原囚はどこにあるかというと、人間が言葉を人間の所有権の下に置き、言葉を自分の道具として支配しようとすることにあると思います。このことに気づかされたときが、真実の言葉である仏の名号との出遭いのときです。「ただ念仏のみぞまことにておはします」と言われる場合の「まこと」とは真実の事柄であると同時に、真実の言葉を意味します。人間が真実と出会えるのは真実の言葉を通してだということです。つまり、人間が真実と出会うのは、仏の名号においてだということです。(以上)