仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

宗教の授業

2019年10月15日 | 浄土真宗とは?
大峯顯先生の言葉の問題ですが、同じく図書館で聞かれてきた『宗教の授業』に次のようにあります。昨日同様に同じ様のことですが、転載します。


詩は人間存在の慰めではあっても、人間存在そのものを根源的に支え、救う言葉とは言えない。人間存在を本当に救うところの言葉は、いかなる仕方によっても人間自身の力では入手することのできない完全無欠な無我というものから発源するところの言葉でなければならない。そういう無我の言葉が、『仏説無量寿経』に説かれた南無阿弥陀仏の名号である。名号とは衆生を救うために自己白身を捨てることを惜しまなかった阿弥陀如来の無我の自己表現なのである。
 阿弥陀如来が自らを南無阿弥陀仏の名号にすることによって衆生を救うという『仏説無量寿経』の教えを、親鸞は『歎異抄』のなかでつぎのように簡潔に言いあらわしている。
   
「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもってそらごとだわごと、 まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします。」(『浄土真宗聖典(註釈版)』八五三頁)

 この文章は、詩的言語の世界をもふくめた、人間の立場から発言されるすべての言葉に対する絶望においてはじめて生じる真実の言葉、如来の名号との出会いのことを語っている。
ここで、「そらごとだわごと」と言われているもめは、その場かぎりで空しく過ぎ去る、はかない事柄であると同時に、実のない言葉だけの言葉、嘘いつわりの言葉という意味である。
人間世界の空しさはそのまま、人間か言う言葉の空しさなのである。空しい言葉とは、物とそれを言うところの言葉との不一致のことである。われわれは自分も他人もそういう空しい言葉を言いながら、しかもそのことに気づかない。空しい言葉を実の言葉のように思って生きているのである。つまり、言葉と実物との合致を自分の力で実現しようとしているのである。それは、言葉の地平を人間の所有権の下におこうとしていることに他ならない。
 しかるに、このことが本当に気づかれたときが、真実の言葉である仏の名号との出会いのときである。「ただ念仏のみぞまことにておはします」と言われる場合の「まこと」とは、人間世界の空しい言葉の洪水の真っ只中に來て人間に呼びかけているところの南無阿弥陀仏の名号のことである。人間が語る言葉がどんなに空しくとも、一切の衆生を必ず仏にすると言っている如来の言葉はまことである。
(以上)
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