仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

暴走する能力主義

2019年10月26日 | 都市開教
昨日は、成田で大雨に遭いました。あちこちで道路が冠水状態、上りの高速もストップ、なんとか通常の三倍をかけて帰宅しました。

『暴走する能力主義』 (ちくま新書・2018/6/6・中村 高康著)の続きです。

僧侶の能力と被る部分です。続く。

前近代社会と近代社会の違い

このように構造化理論における再帰性(行為の再帰的モニタリング)の位置づけを理解した場合、前近代社会と近代社会では、再帰性という観点から見て決定的な相違が生まれる。
‥ギデンスによれば、伝統は「「もっとも純粋でもっとも単純な社会的再生産の様式」である。つまり、以前に行なわれたという知識や前提によって権威づけられ、踏襲される行為が、伝統による行為なのである。
  例えば、年始に初詣にいくことを考えてみよう。初詣は、別に行かなくても具体的な不合理や不利益が生じるわけではないかもしれないが、「昔から日本社会ではそうしてきたのだ」という伝統の知識や慣習を共有することによって、「初詣に行くべきか否か」の激論を当事者たちがあえて毎年たたかわさずとも、多くの人たちによって繰り返し実践されている。現代においては、こうした伝統的行為が及ぶ範囲はかつてと比べて限定されていると考えられるけれども、伝統が支配する前近代社会においては、むしろこうした伝統的行為が要所要所で大きな役割を担っていたと考えることができる。したがって、そうした伝統社会では、行為の主体は自ら積極的に行為を再帰的モニタリングによって一つひとつ意味付けなくても「伝統だから」とすれば足りることが多かったわけである。
 
 …しかし、近代社会ではそのような伝統の役割は後退し、行為の意味の問い直しを引き受けざるを得なくなった行為主体は、従来にも増して不安に哂されるようになる。従来は伝統的な慣習や価値観によって抑制されていた不安が近代社会では行きだしになってくるのである。したがって、近代社会においてはこの不安(ギデンスはこれを「存在論的不安」とよぶ)への対処が自己にとっての重大な課題となる。その結果、自ら行為の意味を付与すべく再帰的モニタリングがこれまでとは比較にならないほど強力に作動することになるのである。(以上)

要は、前近代は、伝統に立って布教していればよかったが、現代は、再帰性、常に反省的思考に立って布教していかなければならない時代であるということです。


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フリードリヒ・ニーチェ、病名は梅毒

2019年10月25日 | 日記
午前5時(2019.10.25)、外は雨なのでウオーキングには行かずにラジオ放送を聞いていました。NHKラジオ、5時30分過ぎの「健康ライフ」は日本大学医学部教授早川智「歴史上の人物に学ぶ健康(5)」でした。以前に歴史上の本人の病名を紹介していましたが、この度は、外国人について紹介していました。

放送を聞いていたら本日は、「哲学者フリードリヒ・ニーチェ、病名は梅毒」とのこと。当時、梅毒が流行していたことや、48歳の時、精神錯乱で精神病院へ、55歳で死亡、梅毒菌が脳に障害を及ぼしたそうです。現在なら、ペニシリン等の抗生物質で脳に障害を及ぼす前ならば、死に到らなかったとのことでした。続いて女優の?さんを紹介し、子宮筋腫で死亡と診断を下していました。

私はラジオを聴きながら、ある仮設を考えました。“昔は、早く死ぬことが多く、日常的に「死」が目の前にあった。だから生きているという「生」そのものが、自分のアイデンティティを形成する要因になった。現在は、「生」が当たち前なので、「生」そのものでは、アイデインテイテの核にならなず、自分が自分であるという核心を「生」以外に求めなくてはならない時代になった。”

思いつきですが、当たらずしも遠からずという点はあるように思われます。貧しい時代は、食物が口に入るという事だけで、満足を得ることが出来た。しかし、飽食の時代の現在は、美味しい、珍しいといった口にすること以外の要因がないと満足心を得ることが出来なくなった。ということです。
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岡倉天心終焉の地

2019年10月24日 | 日記
昨日は赤倉温泉の赤倉ホテルへ宿泊。5.6回は利用した事があります。朝、少し温泉街を散策していると「岡倉天心終焉の地」という場所がありました。「岡倉天心終焉の地」という石塔と六角堂が建っていました。

今までに、5.6回来ているのに、飲み食いだけで終わっていてうかつでした。拙著『仏さまの三十二相』に次のような話を掲載しています。

岡倉天心の言葉に「さすが」と思ったことがあります。岡倉天心(一八六三~一九一三)は、明治十三年に東京開成所(現東京大学)を卒業後、文部省に入り美術教育、古美術保存に携わります。東京美術学校(現東京藝術大学)の設立に尽力し、二十三年校長に就任。校長在任中の指導方針は、日本の新しい美術を生み出す前段階として、まず日本の古美術に注目しました。古美術を師と仰ぐよう生徒を指導し、その模写や模刻を奨励しています。天心は校長就任の折り、生徒、教師全員を講堂に集めて次のような就任挨拶をしています。

 「ここにいる先生方はきみたちの本当の先生ではない。君たちの本当の先生は古美術品である。江戸時代に小堀遠州が言ったように、君たちは古美術の前に立ったとき、高貴な人に拝謁を得たような気持ちにならなければならない。まず居住まいを正し、そしてその古美術品が語りかけてくることを一言一句聞き漏らしてはならない。それは先生方も学生諸君も同じである。たとえば古美術品が百のことを語りかけているとしたら、今ここにいる先生方は六十、七十の言葉を聞き取っている。学生諸君はまだ一つも聞き取っていない。やがて自分の力で十なり二十なり、聞き取ることができるようになるだろう。しかしまだ百まではかなりの開きがある。その百までの差を先生方から教わるのであって、この会場にいる者すべてが、共に日本の古美術品が語っていることを本当の師として仰ぎ、そこから学んでいかなければならない」

古美術品に対する思い、学び方を情熱的に語っています。
 この岡倉天心の言葉は芸術にとどまらず、大切なことを語っています。花を見て美しいと思う、その美しいと思う心は、花の美しさによって、美しいという思いとして私の上に発動します。私は美しいと思う心を通して、花の美しさに触れてゆきます。仏像を見て美しいと思う。思える。私が美しいと思う以前からすでに仏像の上に美しさは成就されているのです。私の心は二番手です。二番手ですが、美しいと思う心を通してしか、仏像の美しさには出会っていけません。(以下省略)
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前近代社会と近代社会の違い

2019年10月23日 | 都市開教
『暴走する能力主義』 (ちくま新書・2018/6/6・中村 高康著)の続きです。

僧侶の能力と被る部分です。続く。

前近代社会と近代社会の違い

このように構造化理論における再帰性(行為の再帰的モニタリング)の位置づけを理解した場合、前近代社会と近代社会では、再帰性という観点から見て決定的な相違が生まれる。
‥ギデンスによれば、伝統は「「もっとも純粋でもっとも単純な社会的再生産の様式」である。つまり、以前に行なわれたという知識や前提によって権威づけられ、踏襲される行為が、伝統による行為なのである。
  例えば、年始に初詣にいくことを考えてみよう。初詣は、別に行かなくても具体的な不合理や不利益が生じるわけではないかもしれないが、「昔から日本社会ではそうしてきたのだ」という伝統の知識や慣習を共有することによって、「初詣に行くべきか否か」の激論を当事者たちがあえて毎年たたかわさずとも、多くの人たちによって繰り返し実践されている。現代においては、こうした伝統的行為が及ぶ範囲はかつてと比べて限定されていると考えられるけれども、伝統が支配する前近代社会においては、むしろこうした伝統的行為が要所要所で大きな役割を担っていたと考えることができる。したがって、そうした伝統社会では、行為の主体は自ら積極的に行為を再帰的モニタリングによって一つひとつ意味付けなくても「伝統だから」とすれば足りることが多かったわけである。
 
 …しかし、近代社会ではそのような伝統の役割は後退し、行為の意味の問い直しを引き受けざるを得なくなった行為主体は、従来にも増して不安に哂されるようになる。従来は伝統的な慣習や価値観によって抑制されていた不安が近代社会では行きだしになってくるのである。したがって、近代社会においてはこの不安(ギデンスはこれを「存在論的不安」とよぶ)への対処が自己にとっての重大な課題となる。その結果、自ら行為の意味を付与すべく再帰的モニタリングがこれまでとは比較にならないほど強力に作動することになるのである。(以上)

要は、前近代は、伝統に立って布教していればよかったが、現代は、再帰性、常に反省的思考に立って布教していかなければならない時代であるということです。
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再帰性の時代

2019年10月22日 | 現代の病理
『暴走する能力主義』 (ちくま新書・2018/6/6・中村 高康著)を紹介します。

まずは内容(「BOOK」データベースより)本の概略です。

学習指導要領が改訂された。そこでは新しい時代に身につけるべき「能力」が想定され、教育内容が大きく変えられている。この背景には、教育の大衆化という事態がある。大学教育が普及することで、逆に学歴や学力といった従来型の能力指標の正当性が失われはじめたからだ。その結果、これまで抑制されていた「能力」への疑問が噴出し、“能力不安”が煽られるようになった。だが、矢継ぎ早な教育改革が目標とする抽象的な「能力」にどのような意味があるのか。本書では、気鋭の教育社会学者が、「能力」のあり方が揺らぐ現代社会を分析し、私たちが生きる社会とは何なのか、その構造をくっきりと描く。 (以上)

本を読んでいた私の問題意識は「僧侶の能力、布教使の能力とは何か」ということでした。その関連の要点を、まずは本のなかからご紹介します。ますその前に、現代は再帰性の時代などと言われますが、この「再帰性」についての理解です。その部分を本から転載します。

これまで再帰性についてはとりたてて概念的な定義はあえて与えてこなかった。しかし、そこに消化不良感を持った方もおられたと思うので、その言葉の意味について少し補足して述べておきたい。
 再帰性という言葉は、reflexiviyの訳語としてぼぼ定着しているが、多少なりとも日常用語に近い言葉で訳し直すと、「反省性」とか「内省性」などと言い換えることができるだろう。もっとかみくだいていえば、「自らのあり方や行ないを事後的に振り返って問い直す性質」である。(以上)

僧侶の能力と被る部分です。続く。
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