『暴走する能力主義』 (ちくま新書・2018/6/6・中村 高康著)の続きです。
僧侶の能力と被る部分です。続く。
前近代社会と近代社会の違い
このように構造化理論における再帰性(行為の再帰的モニタリング)の位置づけを理解した場合、前近代社会と近代社会では、再帰性という観点から見て決定的な相違が生まれる。
‥ギデンスによれば、伝統は「「もっとも純粋でもっとも単純な社会的再生産の様式」である。つまり、以前に行なわれたという知識や前提によって権威づけられ、踏襲される行為が、伝統による行為なのである。
例えば、年始に初詣にいくことを考えてみよう。初詣は、別に行かなくても具体的な不合理や不利益が生じるわけではないかもしれないが、「昔から日本社会ではそうしてきたのだ」という伝統の知識や慣習を共有することによって、「初詣に行くべきか否か」の激論を当事者たちがあえて毎年たたかわさずとも、多くの人たちによって繰り返し実践されている。現代においては、こうした伝統的行為が及ぶ範囲はかつてと比べて限定されていると考えられるけれども、伝統が支配する前近代社会においては、むしろこうした伝統的行為が要所要所で大きな役割を担っていたと考えることができる。したがって、そうした伝統社会では、行為の主体は自ら積極的に行為を再帰的モニタリングによって一つひとつ意味付けなくても「伝統だから」とすれば足りることが多かったわけである。
…しかし、近代社会ではそのような伝統の役割は後退し、行為の意味の問い直しを引き受けざるを得なくなった行為主体は、従来にも増して不安に哂されるようになる。従来は伝統的な慣習や価値観によって抑制されていた不安が近代社会では行きだしになってくるのである。したがって、近代社会においてはこの不安(ギデンスはこれを「存在論的不安」とよぶ)への対処が自己にとっての重大な課題となる。その結果、自ら行為の意味を付与すべく再帰的モニタリングがこれまでとは比較にならないほど強力に作動することになるのである。(以上)
要は、前近代は、伝統に立って布教していればよかったが、現代は、再帰性、常に反省的思考に立って布教していかなければならない時代であるということです。
僧侶の能力と被る部分です。続く。
前近代社会と近代社会の違い
このように構造化理論における再帰性(行為の再帰的モニタリング)の位置づけを理解した場合、前近代社会と近代社会では、再帰性という観点から見て決定的な相違が生まれる。
‥ギデンスによれば、伝統は「「もっとも純粋でもっとも単純な社会的再生産の様式」である。つまり、以前に行なわれたという知識や前提によって権威づけられ、踏襲される行為が、伝統による行為なのである。
例えば、年始に初詣にいくことを考えてみよう。初詣は、別に行かなくても具体的な不合理や不利益が生じるわけではないかもしれないが、「昔から日本社会ではそうしてきたのだ」という伝統の知識や慣習を共有することによって、「初詣に行くべきか否か」の激論を当事者たちがあえて毎年たたかわさずとも、多くの人たちによって繰り返し実践されている。現代においては、こうした伝統的行為が及ぶ範囲はかつてと比べて限定されていると考えられるけれども、伝統が支配する前近代社会においては、むしろこうした伝統的行為が要所要所で大きな役割を担っていたと考えることができる。したがって、そうした伝統社会では、行為の主体は自ら積極的に行為を再帰的モニタリングによって一つひとつ意味付けなくても「伝統だから」とすれば足りることが多かったわけである。
…しかし、近代社会ではそのような伝統の役割は後退し、行為の意味の問い直しを引き受けざるを得なくなった行為主体は、従来にも増して不安に哂されるようになる。従来は伝統的な慣習や価値観によって抑制されていた不安が近代社会では行きだしになってくるのである。したがって、近代社会においてはこの不安(ギデンスはこれを「存在論的不安」とよぶ)への対処が自己にとっての重大な課題となる。その結果、自ら行為の意味を付与すべく再帰的モニタリングがこれまでとは比較にならないほど強力に作動することになるのである。(以上)
要は、前近代は、伝統に立って布教していればよかったが、現代は、再帰性、常に反省的思考に立って布教していかなければならない時代であるということです。