仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

今の私の発達課題は?

2010年12月26日 | 日記
読経を終えて、世間話となった。「住職さん、学校はどちら出身ですか」「はい、宗派の学校です」「すると龍谷大学ですか」

そんな話から、私と同じ時期に龍谷大学深草校舎の隣にある警察学校に就学していたという。それから警察の階級と階級試験の話となりました。

キャリアは別として、通常は巡査から始まり、警部までは階級ごとに学校へ行き昇進試験を受ける。大卒の場合、実務経験1年(高卒なら4年)で巡査部長への受験資格を得られる。合格すれば、さらに1年(高卒は3年)で警部補の受験資格。そしてそれに合格すればさらに4年(高卒も同じ)で警部の受験資格・・・と、順調に合格していけば30歳で警部になれる。しかし現実はそう甘くはないという。

以前から、僧侶の発達課題という考え方が頭にあったので、こうした昇進の前提として学校で就学して試験におよぶ制度には興味をもちました。


ご門主には、ご門主としての発達課題があり、総務は総務としての発達課題がある。得度受けたばかりの人は、それなりの発達課題があり、布教使は布教使としての発達課題がある。それぞれの発達課題を明確にすることこそ、人材育成の基本です。

どうも宗派で人材育成というと、若い者に限定した育成を考える傾向があります。理屈はそうしておいて、では今の私の発達課題は何か。…しっかりと考えて新しい年を迎えるべし。

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サンタがやってきた

2010年12月25日 | 日記
車を走らせていると、サンタがオート―バイに乗ってある家を訪ねていく風景に出合った。興味があったので見ていると、バイクから降り荷台に積んである品を袋に入れると、ある家を訪問した、家からお母さんが幼児を抱いて出てきて、何やらサンタさんと話している。

その光景を見て“サンタに扮してプレゼントを家まで届ける商売があるのか”と理解しました。

この商売って面白いと思う。恐山のイタコの口寄せ(霊媒師による霊おろし)も、同じようなものだろう。

以前書いた、一茶のおらが春に書いてある“西方弥陀仏より年始の使い”の話も同様だ。

私も少し馬鹿になって昨年七回忌を終えた、父から私への年賀状を認めてみるか。



参考 おらが春(意訳西原)

昔、丹後の国の普甲寺という所に、深く淨土を願う上人がおられました。正月のことです。年の初めは世間では祝いごとをしてにぎやかに過ごすので、自分も正月を祝おうと、大晦日の夜、縁のある子坊主に手紙書いて渡して、翌日の夜明けに今から言う文言を語って届けるように託して本堂でまった。

子坊主は元日の朝、まだ暗いうち鳥が夜明けを待って鳴く時刻に起きて、教えた通り表門をたたくと、中からどこから来られましたか問えば、子坊主は「西方弥陀仏より年始の使いの僧にございますと答える。上人は裸足で驚いて飛び出て、門の扉を左右へ開けて、子坊主を上座に案内する。子坊主から昨日託した手紙を受け取り、うやうやしく押し頂いて読み始めました。

この世界はいろいろな苦しみに満ちているので阿弥陀仏の浄土へまいられよ。浄土の聖なる人々とともに出迎えます。読み終わるとこの上人は止めどなく涙を流しました。(後略)
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かわったクリスマスイブ

2010年12月24日 | セレモニー
朝、車に乗ると「今日はクリスマスイブ、キリストの誕生を祝う日です」と、車のナビにセットしてあるらしい「今日は何の日」のメッセージが流れてきた。

浄土真宗の寺院であるわが家は、クリスマスイブとは無関係に過ごす。ただ子どもが幼稚園の頃、父母の会の会長をしていたので、サンタの衣装で子どもたちにクリスマスのメッセージの述べたことがあります。

かわったクリスマスをご紹介しましょう。

僧侶の先輩にT師(真言宗豊山派)がおられる。この方は、益子(栃木県)の西明寺の住職であり、ドクターでもあられる。お寺は、天平年間(729~749年)行基の開山で、山内には、重要文化財の楼門 (入母屋造茅葺きの楼門)、三重塔(屋根を銅板葺きとするのが珍しい)、本堂内厨子(本堂より古い室町時代の作)などがある。

何といっても独自性は、山内に、普門院診療所、在宅介護支援事業「金蓮坊」、グループホーム「能羅坊」、通所介護事業所「中善坊」、介護老人保健施設「看清坊」を運営していることです。

その普門院診療所では、入院患者のためにクリスマスイブの日に、お釈迦様の甘茶をかける釈尊の誕生祝いをされていた。(最近の様子は不明です)

10年数年前、T住職が言われた。

『46億年の100大ニュース』という本の中に、クリスマスが12月25日に祝われるようになったのは、この時期は冬至にあたり、一年で一番寒く、暗い時期です。中近東でも、ヨーロッパでも、明日から太陽が力を増していくことを祝う冬至祭が行われていた。その祝いの日を、キリスト教会は、イエスキリストの誕生を祝う日として、一緒に祝ったことに始まったとある。
仏教もそのマネをして、みんながクリスマスを祝うのなら、その祝いに同じて、釈尊の誕生を祝う。

と病院内に誕生仏を置かれて、甘茶をかける行事をされていました。
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今日が終われなければ明日は来ない

2010年12月23日 | 浄土真宗とは?
冬至の昨日は、雨のために一番おそい夜明けを体験できなかったが、今日は星空の中、冬至に準ずる夜明けに身を置くことができました。

歩きながら「ああ、これからは、日の出が早くなっていくことを楽しむことができる」と思った時、ふと方角と仏教の教えのことが脳裏をかすめ、15分ほど西方と示された浄土教の教えについて楽しみました。

「般若経」の常啼菩薩という求道者は東方に向かって旅をします。東は日の出る方角であり、一日の初め、物事の根源という意味があり、万物の根源を一切空と説く般若経の求道者が向かう方向としては、東方がふさわしいといえます。

「華厳経」の善財童子が文殊菩薩の智慧に導かれて南へ南へと旅をし53人の師に会って悟りを完成していきます。南は明るい方向だから善財童子の旅の方向としては南がふさわしいともいえます。

この2つの方向は、私が今朝感じた“日の出が早くなっていくことを楽しむ”といった希望を象徴した方向です。

ところが浄土教の浄土は西として示されています。今までは西の方角の意味づけは、「太陽も星も帰っていく方向で、すべてのものを摂め取るという願いの如来である阿弥陀如来の浄土の方角としては西がふさわしい」といった味わいでした。

ところが星空の中で思ったことは、希望の断念、今日が終わるといった“私が否定される”という方角です。今日の終わりが明日の誕生であり、私の希望の断念が、阿弥陀さまの願いに触れる時であり、自力の断念が他力への覚醒です。


浄土教において日が落ちる西方を理想の方角としていることは、すべてが帰ると言った情緒的なこともありますが、一日が終わるという事実の中に、終わることがもっている重要性を語りかけているようでもあります。

朝、ウオーキング中に思った一回想です。

また『仏説無量寿経』において東方の諸仏方が阿弥陀さまを讃嘆する説示がありますが、日が落ちることの中にこめられた大切なメッセージを、希望の象徴である東の諸仏方がほめたたえることも、なにやら大切な意味があるように思われました。
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今年は家族葬が常識となった年です

2010年12月22日 | セレモニー
送信されてきた情報に「特集ワイド:そもそも誰の、何のため--「立派なお葬式」がいいですか?」(毎日新聞 2010年12月20日 東京夕刊)の特集記事があり、その文中に「家族葬が常識となった」とあった。

そうだろう。今年は「家族葬が常識となった」年だと思う。これは葬儀だけのことではないだろう。葬儀は昔から関係者が集って勤めた。村社会であれば村に人々が寄って勤める。バブルの時代であれば、経済的なつながりがあれば、こぞって関係者として会葬に出席する。

親戚づきあいも希薄になった現代という時代は、関係者は家族であり、その家族が集まって悲しみを共有する。良否は別にして、いたって自然なことです。

“無縁社会”という言葉が流行語となったが、これはお寺の出番のチャンスだろう。今こそ工夫して“寺とも”“墓とも”を意識的に構築すべき時です。またお寺への帰属意識から、浄土真宗本願寺派への帰属意識を育てることはより重要だろう。

当寺は、この宗派への帰属意識を大切にしています。その1つに帰敬式の受式があります。今年も20人(昨年は17人)の方が、ご自身で築地別院へ行って受式して下さった。

お膳立ては住職がする。まずは法名案を3つ考えてあげ、選んでいただく。もちろん、それぞれ意味とお経の出拠を書いて提案する。それが受式意識を高めているとは思わないが、日常の話題として法座で語られることが、受式の雰囲気作りには影響していると思う。

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