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仏教ライフを考える西原祐治のブログです

メディアと宗教

2024年06月11日 | 都市開教
『メディアと宗教』(2024/4/2・石井研士著)からの転載です。

寺院はどこへ向かっているのか

仏教界に限らす宗教教団におけるコンピューター利用は今後とも高まっていくことになるだろう。しかし、これは宗教教団にとって必ずしもプラスに働くだけではない。
 ここまで読んできて、私の論の立て方があまりに現実を単純に説明していると感じている読者もいると思う。
 実際には、水平寺の事例にしても、座禅をきちんと組むだけの時問的余裕がとれなくなっている現実が存在するのであろうし、おばあちゃんと檀家との付き合いをデータ化しようとしている若い僧侶も、日頃檀家との付き合いは怠りなくしているに違いない。しかし、いったんコンピューターを利用し始め、その「便利き」になれてしまったとときに、再びコンピューターのない状態へ戻ることができるだろうか。コンピューターが寺務に、結果的には不可欠となっていくときに、コンピューターのもたらした「便利き」はどのような意味を持つのだろうか。
 私が指摘したいのは、現実の煩瑣な日常を手助けするものとして現れたコンピューターは、いったい仏教的にどう意味付けられる存在なのか、ということなのである。無自覚無反省に導入が進むときに、僧侶や寺は、さらには本山と寺院・僧侶の関係は、しだいにコンピューターが持つ独特の理論と関係に影響を受け、知らず知らずのうちに自らを変容させていくことにはならないだろうか。
 いま一度繰り返すことになるが、確かにコンピューターによって壇信徒や氏子を管理すれば、膨大な時間がかかり煩雑であった作業はきわめて簡単なものとなる。しかしながら、過去帳を繰ることや年忌法要を知らせる壇信徒への通知文の宛名書きは単なる事務なのだろうか。檀家と寺とをつなぐ必要な宗教行為ではなかったのだろうか。コンピューターで戒名がつけられるとしたら、そのありがたみはとこへいってしまうのだろうか。コンピューターか、ソフトか、それともオペレーターか。こうした行為は宗教者としてのオーソリティーを自ら剥奪していることにはならないだろうか。
 コンピューター・ネットワークは確かに新しい人間関係やコミュニケーションを生み出すかもしれない。それは同時に従来のコミュニケーションに変化をもたらすのであり、教団の組織内に、コンピューターに関する専門知識を持った一群の人々を抱えることを意味することになる。こうした専門的知識を持った専門家集団は、宗教集団の組織や理念にどのような発言権を持つのだろうか。こうした点を十分に理解せずに利用しているのが宗教がの現状であるように思えてならないのである。

 
 現在の宗教団体のニューメディア利用には二つの視点が欠如しているように思う。ひとつは、ニューメディアが宗教的にどのように意味付けられるのかという点。換言すれば、宗教団体はニューメディアの導入によって、どのようなプラスとマイナス、とくにマイナスの影響を受けるかを十分に考察する必要性の認識の欠如である。そしていまひとつは、擅信徒の視点の欠如である。ふだんから密接な付き合いをしない檀信徒にとっては、ダイレクトメールは単なるサービス業と映らないだろうか。あるいは現在の寺と檀信徒との十分な関係が、しだいに情報化していく危険けないだろうか。
 最近、電子システム手帳用のICカードシステム「おふさんカード」が発売された。宣伝文には「電子過去帳」とある。檀信徒に関するデータを人力して携帯し、檀信徒とのコミュニケーションを生み出そうというものである。「電子過去帳」がないと檀信徒とのコミュニケーションは不可能なのだろうか、それとも「電子過去帳」が新たなコミュニケーションを生み出すというのだろうか。
 コンピューターが仏教、寺院、僧侶にとってどのような存在なのか、そろそろ十分に反省する必要があるのではないだろうか。(以上)
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