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仏教ライフを考える西原祐治のブログです

やまと言葉の人間学①

2024年07月15日 | 日記
『やまと言葉の人間学』(2024/4/2・竹内整一著)からの、一部抜粋です。

やまと言葉の「ただし」
「ただしい(正しい)」とは、辞書的にこう説明されている。

ただしい 【正しい】①形や向き、がまっすぐである。②道理にかなっている。事実に合っている。正確である。③道徳・法律・作法などにかなっている。規範や規準に対して乱れたところがない。 (『大辞泉』)

① はすぐあとで見るとして、②は事実が(どうであるか〉という事実的な「正しさ」であり、③は(どうすべきか〉という倫理的・規範的な「正しさ」である。
② の「道理」という言葉は、③の方に入れて考えることもできる。「この道で正しい」といった場合、地図上の事実的な「正しさ」でもあるが、「道」というのは、比喩的に、生き方・考え方の意味にもなり、その意味では、③の規範的な用法にもなる(「理」も同じ)
 この辞書で、②の語例として挙げられている「正しい解答のしかた」や「正しい内容」、そして「正しいトレーニング方法」といった用法は、③の(どうすべきか〉という規範的な「正しさ」の語例に入れても、そう不自然ではないだろう。事実的な「正しさ」と規範的な「正しさ」は、厳密に区別して考えることができないところ、があるのである。
 以上のことを確認したうえで、日本人の「正しい」という言葉の使い方で注意を要するのは、①の「形や向きがまっすぐである」という用法である。語例としては、「線に沿って正しく並べる」「由緒正しい家柄」などが挙げられている。この使い方は、事実に合っているか否か、倫理・規範にかなっているか否か以前に、その両方の「正しさ」の基本となる(と考えた日本人の)発想の、ある特質を見いだすことができる。

 やまと言葉の「ただし」は、古語辞典では、こう説明されている。

ただし【正し】
タダ(直・唯)と同根。対象に向って直線的で曲折が無い意。従って、規範や道義に対して、まっすぐで、よこしまが無いと感じられるというのが古い意味。転じて、客観的に道理に合うきまりに合って整然としている意。(『岩波古語辞典』)

「ただし」とは、もともと、ものごとがまっすぐで(直=直線的・直接的)、それだけで(唯)、ひたすら(只)であるありようを指す言葉であった。そこから転じて、何かある道理やきまりに合って整然としているおり方が「ただしい」と使われるようになったのであるが、基本は、それ自体のあり方が「まっすぐで」「それだけで」「ひたすら」であるあり方を指す言葉だということである。「ただ」とは、「ただちに」「(事を元どおりに)ただす」「ただ(代価なし)」「ただ(元のまま」)ではすまない」等々の「ただ」と同じ根の言葉なのである。
 「まっすぐで」「それだけで」「ひたすら」であるあり方を「ただしい」と受けとめるこうした考え方は、これまでにも何度かぶれたように、清明心、正一直、誠といった、次にも見るような、日本人に伝統的な倫理観をかたちづくってきている。
 しかし、こうした倫理観は、かならずしも世界に共通する考え方ではない。一般的な「正しさ」の考え方には、たとえば、古代ユダヤの律法や、ギリシアのロゴス(理)、仏教のダルマ(法)、儒教・道教の道というように、何らかのあるべき理法やきまりが前提とされていることが多い。それらに則ることが「正」であり、違反することが「不正」なのである。
 しかし、日本人においては、そうした理法やきまりに則るか則らないか以前に、まずは自分がいかに墟偽りなく全力をかけて人や事に関わっているかどうか、その姿勢や態度そのものが問われてきた   「正直が一番」「真心であればかならず通ず」「結果はともあれ、一生懸命にやりなさい」等々、と。
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