仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

清濁併せのむ精神性

2009年12月18日 | 現代の病理
 産経新聞(21.12.18)が「婚活」をシリーズで取り上げていた。

厚生労働省の「人口動態統計」では、同居期間20年以上の“熟年離婚”が平成19年に15・8%なのに対して0~4年の夫婦では34%。とあった。
結婚して4年以内に3組にひと組は離婚している数字です。先般の内閣府のアンケート(21.12.7)では

「結婚しても必ずしも子どもをもつ必要はないか」の問いに、「賛成」とする者の割合が42.8%(「賛成」22.5%+「どちらかといえば賛成」20.3%),「反対」とする者の割合が52.9%(「どちらかといえば反対」30.1%+「反対」22.8%)となっている。とあった。

こうした結婚に関わるデーターを見て、みんな「自分は正当である」という思いを守りたいのだなあという印象をもつ。その正当性を主張することは、どんな意味があるのかそのこと自体を考えなければならない時代です。

過日、新聞広告に「薬師寺21世紀まほろば塾」の記事が出ていたが、やはり「今こそ“おかげさま”を」(意趣)と、仏教の正当性を主張しておられた。おかげさまは、自己主張と相反する心情のようにも思われるが、自分の都合に立脚したおかげさまは、欲得の範疇を出ていない。

標記の記事の中に
 寺を訪れる若者に、僧侶はこうアドバイスする。
 「一緒にいて幸せだから結婚するのではない。一緒に苦労を乗り越えていくのが結婚です」

とある僧侶のコメントがあった。この回答も正当すぎるように思われる。

今日の産経抄(21.12.18産経新聞)に下記のごとくあった。

民俗学者の柳田國男が、自宅に親子連れの泊まり客を迎えたときのことだ。3歳の男の子が近くの豆腐屋で買ってきた油揚げの端が欠けていた。かじってしまった男の子は、ネズミが味噌(みそ)こしに飛び込んで食べて逃げたと、必死に弁解する。柳田は、このときの母親の態度に感心した。
 「ウソつきは泥棒の始まり」などと叱(しか)ることはなく、信じた顔をするわけでもない。ただ、おかしそうに笑って、「いたいけな最初の智慧(ちえ)の冒険」を成功させたと、『ウソと子供』と題した随筆に書いた。(以下省略)

上記のお母さんのように【清濁(せいだく)併せ呑む】(善・悪のわけへだてをせず、来るがままに受け容れること。度量の大きいことをいう。《広辞苑》)精神性が求められる。
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