本日、20数年取引のある印刷会社の一向社へ、来年の手帳やカレンダーをいただきに行きました。
メイドエステ萌アメ村店にいるとき、連絡がとれたので、アメ村店から自転車で、福島まで向かいました。
自転車で四ツ橋筋で大阪駅まで出て、そこから西に進み、一向社の入っているタワービルに向かいました。
帰りは、そのまま南下するとなにわ筋に出ました。
中央大通りを越えるとき、角に吉野家がありました。ここが、3歳のころ住んでいた阿波座の2階でした。
そこに父の勤める会社の営業所があり、そこの責任者として、一家で2階に住んでいたのです。
当時、大阪市交通局は、夜通し、地下鉄中央線の工事をしていました。今でも、くい打ちの音は、耳に残っています。
現在の朝潮橋駅前にあった港遊園という遊園地に家族で遊びに行った日の翌朝のことです。今でも覚えています。
夜通し、くい打ちの音で眠れず、朝、ほんの2-3時間、くい打ち工事がなくなるのです。
両親はその時間に熟睡しています。が、私は、目が覚めたわけです。
両親がおきてくれないので、一人で、引き戸のドアを開けたり閉めたりしてエレベータごっこをしていました。
大丸のエレベータガールの真似です。
4階紳士服の売り場です。とか言って。
エレベータガールのように手袋をはめて、ドアの開閉を行っていました。
そして、てぶくろが脱げて、ガスストーブとドアとの隙間に落ちました。
ストーブの上に乗せてあったヤカンをどけようとおもって持ち上げた途端、あまりの熱さに手を離してしまいました。
そして、やけど。母が、パジャマを脱がそうして、右腕の一部の皮がパジャマに残っていたのを覚えています。
そして、救急車で運ばれたのを覚えています。
そして、右腕の一部にケロイドが残ったわけです。あまり目立たないので、気づかない人の方が多いと思いますが、
今から50年前のことですが、今でも当時のことを鮮明に覚えています。
現在なら、阿波座駅の上という場所ですが、1962年当時、中央線も千日前線もなく、最寄り駅は、御堂筋線本町駅でした。
家族で大丸に買い物に行ったり、遊園地に行くときは、おめかしをしていい服を着せてもらって、両親に手をつないでもらって、本町駅まで歩いていきます。
途中、ずっと、満州からの引揚者のバラックが道路に並びます。今で言う、ホームレスのテント村です。みんな、こじきのような生活をしています。
どの子供たちも、裸に近く、水道のない衛生的でない暮らしを送っています。薄汚く感じました。
いい服を着て、両親に手をつないで歩いている私を見て、うらやましいまなざしを向けていました。
本町駅に行く間、何百人もの同世代の子供からの羨望のまなざしを受けるのがいやでいやでしょぅがなかたのを覚えています。
3歳のとき、弟が生まれて、4歳ぐらいのとき、住吉区の苅田に引っ越しました。
確か、ここに児童公園があったなあと思っていってみると、児童公園がありました。
50年前のことをはっきり覚えているもんだなぁと感心しました。
そして東に少し進むと、当時、私が七五三を受けたという難波神社がありました。
そして、御堂筋に行くと、驚き。
ライトアップされていました。
心斎橋駅の少し北側まで続いていました。
そして、メイドエステ萌なんば店。
途中、道頓堀川もライトアップされていることに気づきました。