(1)新年を迎えて1年の門出の11日に成人の日を迎える。人間として生まれれば皆成人(a born person)なのだから20才になって「成人」といわれても変な日本語で、ズバリ「大人の日」とか「自立の日」とかもっと自覚と責任の持てる表現にならないのかと思う。
親の後見がなくても自分の判断と責任で契約商行為、法律行為ができるし、婚姻も自由にできる。単なる言葉の日ではなくて内容に付随するものは、子どもから大人(a grown-up person)へステップ・アップする区別の日である。
もちろんそれは法律行為とか商行為とか社会制度上「付随」するものであって、そうだらといって誰もがそういう成人、大人の自覚と責任を兼ね備えているものでもない。
(2)昨今の若い親の子育て、子の教育を見ていると自覚と責任を放棄した無分別な行為、行動も目につき、考えられない子ども虐待事件なども報道で目にすることも多くなって親であっても大人でない人間失格も目にする社会だ。
事情はいろいろあって一概に見ることはできないが、高年令化社会の中で長生きの親にいつまでも面倒を見てもらうパラサイト(parasite)症候群という世代的特徴も話題になったこともある。大人であって大人でない、なりきれない群像も今日的、社会的現象である。
(3)もちろん今年の「成人の日」では、すでに成人前からボクシング世界チャンピオンとして自立し、能力と地位を発揮、獲得している人(WBOミニマム級世界チャンピオン田中恒成さん)もいて、成人の日といってもただの人生の通過点でしかないのも事実だ。
今年の新成人も少子化時代の推移の中で減少傾向に歯止めがかからずに、式典では主催者の市長からは出産適令期(18才から26才までだったかな)の話(ニュース報道)まで出て、安倍首相が新三本の矢で推し進めるひとつの出生率1.8以上政策を後押しするつもりなのか20才になったばかりの若者に紹介(激励か)していたが、本人たちにとってはまだまだ余計なお世話というところだろう。
(4)今年の夏の参院選からは選挙投票権が18才以上に引き下げられてこれから国の政治体制を決めれる投票行動が保障されて、すでに「大人」としての自覚と責任が付随することになる。
あわせて現在20才の成人年令を18才に引き下げることも国会では検討されているようだが、こちらの方はどうも反対の意見が優勢を占めているようで、国民世論調査でも20才以上でも問題の多い(そういう随分な大人たちにも問題の多い中で)社会情勢の中で成人年令を18才に引き下げることには過半数が反対という意見が多い。
(5)選挙投票権は少子高年令化社会の中で高い人口比率の高年令層に比べて低い若年層の意見が公平に反映されない不利益社会をできるだけ解消するためには、若年層の投票権年令を下げて公平に反映するための方法論であり、これはすでに世界的な潮流であって日本の対応は随分と遅れをとったものだ。
18才以上投票権実施は国の政治体制を決めれる「大人」の投票権を有しながら、法律行為、商行為、社会制度としては「未成人」として取り扱うという同じ人間の資格を大人と子どもに2分する随分と不都合で不規則な制度といえる。
(6)ますます自分は大人なのか子どもなのかわからない変な気分の人間にしてしまうあいまいな制度だ。人間(特に若者群)を成長させない大きな要因に、社会における自覚と責任をあいまいにして権利意識を「与えない」過保護にある。
権利は与えることによって自覚が芽生えるものだ。
これも一概には言えないが、近年の若者中心のフリーターなど非正規労働形態は社会や自身の将来に対して共同して重い責任を持つという自覚の欠如が見てとれる。
事情はいろいろあっても自分の生活(それも時限的な見方)にしか興味、感心のない小市民的国民(the petite bourgeoisie)意識のあらわれに見える。
(7)もっと自分の将来の生活設計、国、国民、社会の発展、成長、過ごしやすさに責任と自覚を持つ意欲と挑戦が、本来は社会のダイナミズム(dynamism)として期待される「大人たち」であるはずだ。
親の後見がなくても自分の判断と責任で契約商行為、法律行為ができるし、婚姻も自由にできる。単なる言葉の日ではなくて内容に付随するものは、子どもから大人(a grown-up person)へステップ・アップする区別の日である。
もちろんそれは法律行為とか商行為とか社会制度上「付随」するものであって、そうだらといって誰もがそういう成人、大人の自覚と責任を兼ね備えているものでもない。
(2)昨今の若い親の子育て、子の教育を見ていると自覚と責任を放棄した無分別な行為、行動も目につき、考えられない子ども虐待事件なども報道で目にすることも多くなって親であっても大人でない人間失格も目にする社会だ。
事情はいろいろあって一概に見ることはできないが、高年令化社会の中で長生きの親にいつまでも面倒を見てもらうパラサイト(parasite)症候群という世代的特徴も話題になったこともある。大人であって大人でない、なりきれない群像も今日的、社会的現象である。
(3)もちろん今年の「成人の日」では、すでに成人前からボクシング世界チャンピオンとして自立し、能力と地位を発揮、獲得している人(WBOミニマム級世界チャンピオン田中恒成さん)もいて、成人の日といってもただの人生の通過点でしかないのも事実だ。
今年の新成人も少子化時代の推移の中で減少傾向に歯止めがかからずに、式典では主催者の市長からは出産適令期(18才から26才までだったかな)の話(ニュース報道)まで出て、安倍首相が新三本の矢で推し進めるひとつの出生率1.8以上政策を後押しするつもりなのか20才になったばかりの若者に紹介(激励か)していたが、本人たちにとってはまだまだ余計なお世話というところだろう。
(4)今年の夏の参院選からは選挙投票権が18才以上に引き下げられてこれから国の政治体制を決めれる投票行動が保障されて、すでに「大人」としての自覚と責任が付随することになる。
あわせて現在20才の成人年令を18才に引き下げることも国会では検討されているようだが、こちらの方はどうも反対の意見が優勢を占めているようで、国民世論調査でも20才以上でも問題の多い(そういう随分な大人たちにも問題の多い中で)社会情勢の中で成人年令を18才に引き下げることには過半数が反対という意見が多い。
(5)選挙投票権は少子高年令化社会の中で高い人口比率の高年令層に比べて低い若年層の意見が公平に反映されない不利益社会をできるだけ解消するためには、若年層の投票権年令を下げて公平に反映するための方法論であり、これはすでに世界的な潮流であって日本の対応は随分と遅れをとったものだ。
18才以上投票権実施は国の政治体制を決めれる「大人」の投票権を有しながら、法律行為、商行為、社会制度としては「未成人」として取り扱うという同じ人間の資格を大人と子どもに2分する随分と不都合で不規則な制度といえる。
(6)ますます自分は大人なのか子どもなのかわからない変な気分の人間にしてしまうあいまいな制度だ。人間(特に若者群)を成長させない大きな要因に、社会における自覚と責任をあいまいにして権利意識を「与えない」過保護にある。
権利は与えることによって自覚が芽生えるものだ。
これも一概には言えないが、近年の若者中心のフリーターなど非正規労働形態は社会や自身の将来に対して共同して重い責任を持つという自覚の欠如が見てとれる。
事情はいろいろあっても自分の生活(それも時限的な見方)にしか興味、感心のない小市民的国民(the petite bourgeoisie)意識のあらわれに見える。
(7)もっと自分の将来の生活設計、国、国民、社会の発展、成長、過ごしやすさに責任と自覚を持つ意欲と挑戦が、本来は社会のダイナミズム(dynamism)として期待される「大人たち」であるはずだ。