いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

器(うつわ)。 a human of capacity

2012-09-11 19:31:57 | 日記
 (1)与野党ねじれ国会では国政運営に与野党が相応(ねじれ)の政治責任をそれぞれ負うのは当然だ。
 まして国民の生命、安全、生活、権利を守ることが国の主な責務、責任であるから、与野党が政権維持、奪取に固執して政局にあけくれて責務、責任を果たさないことなどあってはならないから、与野党にそれぞれに国政運営の政治責任があるのは言うまでもないことだ。

 重要法案を抱えた終盤国会を首相の問責決議案可決にともない国会休業状態で終える中で、民主党と自民党の代表選ばかりが過熱気味だ。ともに複数の候補者が出馬の意向でまるで「人ごと」のように「国難」を訴えて、体制改革を主張しているのにはその理不尽さとあつかましさに落胆するばかりだ。
 ねじれ国会や与野党協議の中でどういう主張をし、国難を回避する努力、協力、提案、活動をしてきたのか、与党、野党としての政権維持、奪取、政局にそれぞれの立場を利用し固執して、閉そく政治を演出してきただけなのではないのか。

 (2)そうしておいての必然的な「国難」打開のための代表選出馬と言われても、とても共感できる政治姿勢ではない。
 中には首相を経験してその当時何代か続いて自らその政権を途中で突然投げだした張本人のその「ひとり」までが、「国難の中、日本のために先頭に立つ決意をした」と今更言われても国難を誘引された国民としてはご免こうむりたい心境だ。
 人間は失敗もし、反省し、再生するものではあるが、国民を守る立場として一度は政権を投げだし失格した者が再びその立場で復帰するほど容易な責任でもなく、そのための立つ位置、社会はほかに適当な再生場所はあるからそちらの方で先頭に立つ決意を示してほしいものだ。

 自己都合、野望だけが優先して、政治本来の国民の生命、安全、生活、権利を守るという目的、使命行動と結びついていない現在政治が問題で、それがそのまま政局としての代表選の構図となっている。

 (3)人間の度量(magnanimity)を計るのに「器(うつわ a human of capacity)」という言葉がある。人間の長年の生き方、信念、心理が顔に表現される。
 両党の代表選の顔ぶれを見ると、どうも党代表、首相の「器」に映(は)える人物は見当たらない。国を代表する首相ともなれば、国際政治、社会への発信力が求められるが、候補者にそういう印象にはない。

 民主党も自民党も国民支持率はせいぜい20%止まり、10%台という体たらく、長期低迷政党だ。それが政局に走って、自己利益、野望優先政治では茶番というべき悲劇で、国民感情、意識を正当に反映しようという努力、工夫も見られない。

 (4)重要法案の積み残し、とりわけ赤字国債発行法案が廃案になって予算執行に影響力が出る状態に責任を持つ与野党は、国民に説明責任(accountability)が必要だ。そうしておいての政党支持率の信頼回復のための代表選でなければならない。
 まさに「器」のいない「器」の中の政局、政争でしか映らない。

 

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