(1)飛行中の旅客機コックピット内での操縦士同士が席をかわって(機長席で)の写真撮影(photographing in a cockpit:見張り違反)、走行中の電車運転室内での運転者の写真撮影(前方確認違反)の発覚が、メディア報道によりいくら社会問題化しても止まらない。なぜか。
報酬を受けての仕事で、複数多数者が同じレベル、同種の仕事をするからには、スキル水準とともに、それを保障し職務遂行する「規律(discipline)」、職場環境が必要になる。
近年の旅客機操縦、電車運転は、運転機能のコンピュータ化、安全装置で状況(一定速度で決まったコースをノンストップで進行)によっては、オートメカニズムに切り替えれば極めて安全走行をする安全走行システムが取り入れられているから、人間(操縦士、運転者)が手を下さなくても安全に決まったコースを設定速度で目的地まで走行する。
(2)操縦士、運転者はこのコンピュータ管理された安全走行システムに絶大な信頼を置いているから、スキル水準は確保されている。この安心感、スキル水準のコンピュータ化、信頼(安全神話)が、パラドックス(paradox)として料金を払ってフライト、乗車する人の生命、安全に責任を持つ職務観を希薄にして、それがまた職務規律を不問にするスパイラル現象(spiral phenomenon)が日常となって、これが社会問題化していながら何回も懲りなくくり返される事例だ。
後日、別の同僚がこの写真を見て報告し発覚したという当事者の自覚のなさだ。どの職場でも、いくらふざけても仕事中に隣人同士、写真を撮り合うなど、考えもできない行動だ。
(3)操縦室、運転室の本来安全維持のための「密室化」が人間の甘え(油断)、自覚、責任、使命観のコントロールを失わせている。
機体、電車のコンピュータ化による操作スキル水準、安全性は操縦士、運転者が「一番よく知って」おり、だからこそのそれを確実に実行、推進、保障する「職務規律」の徹底、完全化が不可欠だ。
ここでも、安全神話の物理的な保障としてのコックピット、運転室の「可視化(フィルム管理)」が必要だ。
(4)高度にコンピュータ化された安全神話の崩壊は、福島原発事故で思い知らされた。人間の卓越したスキル(船頭)に頼る川下り遊覧船でも事故は起きた。安全維持には、準備しても何が起きるかわからない。
冒頭の事例も、当事者間では何が起きても対応できる範囲内のものではあるのだろう。彼らは操作スキル水準のコンピュータ化に絶大な信頼を置いているからだ。その余裕だと言いたいのだろう。
安全性への一般的な配慮の欠如ばかりが指摘されているが、報酬を受けて人(利用者)の投資(料金)、生命、安全に責任を持つ社会あたり前の「職業観」、過信が問われていることを自覚しなければ、冒頭の事例はなくならない。
報酬を受けての仕事で、複数多数者が同じレベル、同種の仕事をするからには、スキル水準とともに、それを保障し職務遂行する「規律(discipline)」、職場環境が必要になる。
近年の旅客機操縦、電車運転は、運転機能のコンピュータ化、安全装置で状況(一定速度で決まったコースをノンストップで進行)によっては、オートメカニズムに切り替えれば極めて安全走行をする安全走行システムが取り入れられているから、人間(操縦士、運転者)が手を下さなくても安全に決まったコースを設定速度で目的地まで走行する。
(2)操縦士、運転者はこのコンピュータ管理された安全走行システムに絶大な信頼を置いているから、スキル水準は確保されている。この安心感、スキル水準のコンピュータ化、信頼(安全神話)が、パラドックス(paradox)として料金を払ってフライト、乗車する人の生命、安全に責任を持つ職務観を希薄にして、それがまた職務規律を不問にするスパイラル現象(spiral phenomenon)が日常となって、これが社会問題化していながら何回も懲りなくくり返される事例だ。
後日、別の同僚がこの写真を見て報告し発覚したという当事者の自覚のなさだ。どの職場でも、いくらふざけても仕事中に隣人同士、写真を撮り合うなど、考えもできない行動だ。
(3)操縦室、運転室の本来安全維持のための「密室化」が人間の甘え(油断)、自覚、責任、使命観のコントロールを失わせている。
機体、電車のコンピュータ化による操作スキル水準、安全性は操縦士、運転者が「一番よく知って」おり、だからこそのそれを確実に実行、推進、保障する「職務規律」の徹底、完全化が不可欠だ。
ここでも、安全神話の物理的な保障としてのコックピット、運転室の「可視化(フィルム管理)」が必要だ。
(4)高度にコンピュータ化された安全神話の崩壊は、福島原発事故で思い知らされた。人間の卓越したスキル(船頭)に頼る川下り遊覧船でも事故は起きた。安全維持には、準備しても何が起きるかわからない。
冒頭の事例も、当事者間では何が起きても対応できる範囲内のものではあるのだろう。彼らは操作スキル水準のコンピュータ化に絶大な信頼を置いているからだ。その余裕だと言いたいのだろう。
安全性への一般的な配慮の欠如ばかりが指摘されているが、報酬を受けて人(利用者)の投資(料金)、生命、安全に責任を持つ社会あたり前の「職業観」、過信が問われていることを自覚しなければ、冒頭の事例はなくならない。