*毎週日曜日更新を目指す拙ブログですが、次の日曜日はお出かけの予定があるので、今日のうちに更新しておきます。
業界誌「アミューズメント産業」1975年10月号には、ゲームセンターのオペレーターの業界団体である「日本娯楽機械オペレーター協同組合(略称JOU・ジョウ)」によるプライズ機の景品の広告が掲載されています。
アミューズメント産業1975年10月号に掲載されている、JOUによるプライズ機の景品の広告。今ではメジャーとなったベビースターラーメン(この当時は10円だったと記憶している)も見える。
この頃、ゲームセンターのプライズマシンが提供できる景品の市価は、「ゲーム料金の3倍」とされていました。当時のゲーム料金は10円が相場でしたから、景品は30円が上限と言うことになります。
しかし、ゲームの結果によって景品を獲得するという遊技は風俗第7号営業(現在の4号営業≒パチンコ店)に限られているはずで、ゲームセンターのプライズ機は風営法違反となりかねない営業です。この矛盾を解消するため、プライズ機が風俗7号営業とされていた時代が70年代の前半頃にあったはずなのですが、その具体的な時期や風俗営業から外された理由などの詳細は判明しておらず、ワタシにとって究明すべき謎として残されています。この件についてご存じの方がいらっしゃいましたら、ぜひお話をお聞かせください。
プライズ機の景品の上限価格は、その後200円、300円、(ワタシの思い違いで、300円時代はどうもなかったようです(3/9追記))500円と時代に合わせて上がり続けてきましたが、それらは警察庁から口頭で業界のトップに伝えられるのみで、明文化されたのは2001年に通達された解釈運用基準からです。この時に「物品の市価」は「おおむね800円」とされ、長い間これが上限とされ続けてきました。
それが去る3月1日、警察庁生活安全局は、プライズ機が提供できる物品の小売価格を「おおむね1000円」に引き上げる通達を各都道府県警察などに送りました。
3月1日に通達された風適法解釈運用基準から、プライズ機が提供する物品の市価に言及している部分。
規制が緩むこと自体は歓迎できますが、しかし、この200円アップによりどの程度の変化が現れるのかはなんとも見当が付きません。日本の経済は長いあいだデフレと言われており、最近は所得は伸びない(むしろ下がっている)のに物価は上がるというスタグフレーションの様相を呈しつつあります。そんな中、アジア諸国の所得は伸び、既に日本と同等もしくは超えている部分もあるそうです。今回の規制の緩和が、上限価格800円では景品のレベルを維持できないことの現れではないかと言う不吉な懸念を感じますが、どうかこれが杞憂でありますように。
1970年初期:
我がタコヤキCITYがある"難波界隈"のバチンコ屋さん店舗入り口横に「SEGAの初代SKILL DIGA」がありました。当時の景品は煙草でハイライトとセプンスターが置いてありました。子供ながらにセロファン包装されている煙草を三つ爪アームで掴み取るのは無理ゲーだと思っていました。
1970年中期手前:
普段から通っていた駄菓子屋の10円ゲーム機に[当局の指導により景品と交換出来ません]と手書きした注意書きが貼付されていました。急な事だったので店主に聞いたところ"お菓子と交換出来なくなってん!"と言われた記憶があります。
※でも暫くしたら景品(お菓子)交換をしてくれていました。笑
今から考えるとnazoさんが仰る通り、当時に当局からご意見ご指導があったのかも知れませんね。
クレーンゲームが7号指定されたなんてことがあったのかと興味を持ち調べてみたらある程度書いているページが見つかりました。
65年頃に日本初のクレーンゲームができて70年には7号指定、75年には明文化とは対処が早い方ですかね。
>tomさん
駄菓子屋の店頭のゲームで、成功するとプラスチックの札が出てきて、店内で賞品と引き換えるという営業が良くありましたが、
いつだったか、警察からやめるよう指導が来たという話を、それほど昔の話ではなく聞いた覚えがあります。
社会問題になるほどではないので耳目を集めていませんが、今でもどこかでそういう営業をしているところはあるかもしれませんね。
>Unknownさん
情報をありがとうございます。さっそく見てみましたが、1970年のことだったのですね。
なお、7号営業でのプライズは、200円までの菓子かタバコに限るとどこかで聞いたような気がします。