主忠信、無友不如己者(学而第一の8)
忠信を主とし、己の如(シ)かざる者を友とすること無かれ
人間、誠意ある、ウソイツワリのない生き方を求めるべきだが、(世の中にはそうではない人もいるのであって)そういう人に近寄ることは避けたほがいい。
その通りだ。しかし、世の中には、忠信を主として生活している人を食い物にしようとする人も少なからずいるわけで、不如己者をどのように見分ければいいのだろうか?
見分けかたが甘ければ、悲しい思いをする機会が増すだろうし、厳しく見分けようとすれば、友人のない寂しい生活を送ることになる。
答えはない、ということか。
この節の最後は、昨年の11/12の記事で使った、過即勿憚改、だ。
論語は、内容の整理が吟味されていず、さまざまな意味合いをもつ言葉が、ほとんどランダムに並べられている。
だから、どこを切り取っても、どのように解釈するのも勝手、と言えなくもない。
聖書、コーランと同類とみなすべきなのだろうか。
忠信を主とし、己の如(シ)かざる者を友とすること無かれ
人間、誠意ある、ウソイツワリのない生き方を求めるべきだが、(世の中にはそうではない人もいるのであって)そういう人に近寄ることは避けたほがいい。
その通りだ。しかし、世の中には、忠信を主として生活している人を食い物にしようとする人も少なからずいるわけで、不如己者をどのように見分ければいいのだろうか?
見分けかたが甘ければ、悲しい思いをする機会が増すだろうし、厳しく見分けようとすれば、友人のない寂しい生活を送ることになる。
答えはない、ということか。
この節の最後は、昨年の11/12の記事で使った、過即勿憚改、だ。
論語は、内容の整理が吟味されていず、さまざまな意味合いをもつ言葉が、ほとんどランダムに並べられている。
だから、どこを切り取っても、どのように解釈するのも勝手、と言えなくもない。
聖書、コーランと同類とみなすべきなのだろうか。