■大英帝国が仕掛けた「アヘン戦争」は夙に有名ですが、赤子の手を捻るも同然に一方的な勝利を収めた英国政府は、1842年の8月29日に『南京条約』を清朝に押し付けた上で調印させることに成功します。莫大な賠償金を脅し取られるのは敗北者の定めですが、香港を「永久割譲」させ、広東・厦門・福州・寧波・上海を一挙に開港させて英国製品を売りつけようとしました。勿論、最も儲かる商品は阿片でした。何とも恐ろしい話です。
■念の入った事に南京条約が締結された翌年には、『虎門寨追加条約』まで押し付けて、ちょっとした忘れ物を取りに戻って来たように「治外法権」「関税自主権放棄」「最恵国待遇条項承認」を認めさせてしまいます。この遣り口を見ていた幕末の日本が瞠目して息を失ったのは当然で、鎖国だ!攘夷だ!などと寝言を言っていたら阿片と軍艦が押し寄せてエライことになるのは必定でした。天の配剤と申しましょうか、屈辱的な「南京条約」の11年後に米国のペリー艦隊が琉球を経由して江戸湾に来襲したのでした。そうなれば、少なくとも清朝よりも手強い国に変身しておかないと、取り返しの付かない事になるのは誰にでも分かるようになったという次第。
■さてさて、奪える物は全部手に入れたはずの大英帝国でしたが、実際には開港させた狭い地域でしか好き放題に振舞えず、阿片も期待した程には捌けないという現実に気が付きます。阿片商社としてはチャイナ全土を阿片の「マーケット」にしたい!そこで仕掛けられたのが「アロー号事件」と呼ばれる奇怪な事件でありました。1856年の10月8日、清朝の官憲がイギリス船籍を自称するアロー号を臨検します。実際に船籍登録の有効期限が切れていたのですから、国籍不明の実に怪しい船を調べるのは当然です。何をやっているのか調べるために清人船員12名を拘束して、取調べの結果、3人を海賊の容疑で逮捕したそうです。
■残りの9人が見逃されたのは、日本史にも登場するハリー・S・パークスという名の在広東の英国領事が大変な剣幕で怒鳴り込んだからでした。こういう場合、相手は自分の非を認めるどころか、ある事無い事を言い立てて喚き続けますから、絶対に自国の権利を譲っては行けません。パークスは臨検を不当だと言い張るだけでは足りず、「英国国旗を引き摺り降ろされたのは最大の国辱だあ!」とその場で見ていたような大嘘をつきます。こういう場面では言った方が勝ちのようです。本当は国旗事件は起こっていなかったのですから……。
■これが第二次阿片戦争とも呼ばれるアロー号事件の発端であります。パークスは本国から譴責を受けるどころか、外交官として大手柄を立てたと褒められて、1865年(慶応元年閏5月)に次の獲物とされた日本国に赴任して、オールコックの後任として日本駐在の公使に栄転して横浜に着任したのでした。危ない、危ない。
■類は友を呼ぶのか、パークスのゴリ押しぶりに感動?した清国駐在全権使節兼香港総督だったバウリングという人物が、独断で現地に駐留していた英国海軍に「暴れろ!」と命令したから堪りません。英軍が広州付近の砲台を占領すれば、「ふざけるな!」と清朝の民は英国人の居留地を焼き払って対抗します。でも、民衆には武力はありませんから、本物が現われたら手も足も出なくなるのが悲しい現実です。
■英本国では、首相のパーマストン子爵が議会で「軍隊をチャイナへ!」と大演説をぶって見せますが、案外と議会は冷静でこの恥知らずな謀略は否決されてしまいます。ところが民主国家というのは恐ろしいもので、パーマストン首相は「解散総選挙」に打って出ます。どんな選挙運動を展開したのやら……。何処かの首相が郵政民営化を押し通そうと参議院で法案が否決されたのに怒って衆議院を解散したのは最近の話ですが、パーマストンの出兵案は選挙後の議会で可決されてしまいます。そこで派兵される5000人をシビリアン・コントロールする責任者として派遣されたのがエルギンという名の前カナダ総督だったそうです。この人物こそ、オスマントルコのスルタンから許可を貰った!と言い張ってアテネのパルテノン神殿からレリーフを剥ぎ取って持ち帰った張本人。
■不思議な言い掛かりをつけてイラクに出兵した米国のブッシュ大統領は、欧州を半分に割って有志連合軍の形を採ったように、この時の大英帝国もフランスのナポレオン3世に共同出兵の誘いを掛けます。オスマントルコを分け合う事になる両国ですから、フランスが断るはずもなく、宣教師が逮捕斬首された話を持ち出して派兵の口実としたのだそうです。こうして1857年の末に広州を襲った英仏軍は、正当な臨検をして容疑者を逮捕した清の総督大臣を問答無用で捕らえて「条約改正」を強要するのですが、翌年の2月に清朝の北京政府に対して衝き付けられた交渉の要求書には、ちゃっかりロシアとアメリカの全権大使の名前も並んでいた!
■条約改正(悪)に成功した英仏艦隊は、1859年の6月17日に条約批准のために天津の白河口に来襲します。条約は批准されないうちは単なる紙切れですから、この元朝のフビライが開鑿した北京と天津を結ぶ運河を塞ぐ抵抗戦が起こります。何でもかんでも運河に投げ込んで航行不能にしたわけですが、障害物を自力で取り除かねばならなくなった無様な艦隊に対して、モンゴル人の将軍センゲリンチンが指揮する清朝軍に攻撃され、ホウホウの体で上海に逃げ帰りましたとさ。
■意気上がる清朝の咸豊帝は、英雄センゲリンチン将軍に命じてパークス一味を捕らえるわ、英仏使節団を拷問に掛けて死者まで出すわ、ちょっとやり過ぎてしまいます。面子丸潰れの英仏軍は大艦隊を再編成し、当初の3倍を越える約1万7千人の大軍となって天津に戻って来ましたから、皇帝は腰を抜かして北の熱河に逃げ出してしまいます。こういう長い長い前置きがあって、1959年の10月18日、英軍は使節団殺害に対する報復として円明園を大規模に破壊したというわけです。どうやら英国軍が乱入する前に仏軍の兵隊が一足先に円明園で掠奪していたというのが真相らしい……。というわけで、今回の競売に出品されたネズミとウサギは、どちらの国の軍隊が略奪したのかは分かりません。しかし、英国ならば「使節団殺害」に対する報復だったと言い張りたいでしょうし、仏国だったのなら飽くまでも「宣教師殺害」に対する報復だったと言い張るでしょうなあ。
■念の入った事に南京条約が締結された翌年には、『虎門寨追加条約』まで押し付けて、ちょっとした忘れ物を取りに戻って来たように「治外法権」「関税自主権放棄」「最恵国待遇条項承認」を認めさせてしまいます。この遣り口を見ていた幕末の日本が瞠目して息を失ったのは当然で、鎖国だ!攘夷だ!などと寝言を言っていたら阿片と軍艦が押し寄せてエライことになるのは必定でした。天の配剤と申しましょうか、屈辱的な「南京条約」の11年後に米国のペリー艦隊が琉球を経由して江戸湾に来襲したのでした。そうなれば、少なくとも清朝よりも手強い国に変身しておかないと、取り返しの付かない事になるのは誰にでも分かるようになったという次第。
■さてさて、奪える物は全部手に入れたはずの大英帝国でしたが、実際には開港させた狭い地域でしか好き放題に振舞えず、阿片も期待した程には捌けないという現実に気が付きます。阿片商社としてはチャイナ全土を阿片の「マーケット」にしたい!そこで仕掛けられたのが「アロー号事件」と呼ばれる奇怪な事件でありました。1856年の10月8日、清朝の官憲がイギリス船籍を自称するアロー号を臨検します。実際に船籍登録の有効期限が切れていたのですから、国籍不明の実に怪しい船を調べるのは当然です。何をやっているのか調べるために清人船員12名を拘束して、取調べの結果、3人を海賊の容疑で逮捕したそうです。
■残りの9人が見逃されたのは、日本史にも登場するハリー・S・パークスという名の在広東の英国領事が大変な剣幕で怒鳴り込んだからでした。こういう場合、相手は自分の非を認めるどころか、ある事無い事を言い立てて喚き続けますから、絶対に自国の権利を譲っては行けません。パークスは臨検を不当だと言い張るだけでは足りず、「英国国旗を引き摺り降ろされたのは最大の国辱だあ!」とその場で見ていたような大嘘をつきます。こういう場面では言った方が勝ちのようです。本当は国旗事件は起こっていなかったのですから……。
■これが第二次阿片戦争とも呼ばれるアロー号事件の発端であります。パークスは本国から譴責を受けるどころか、外交官として大手柄を立てたと褒められて、1865年(慶応元年閏5月)に次の獲物とされた日本国に赴任して、オールコックの後任として日本駐在の公使に栄転して横浜に着任したのでした。危ない、危ない。
■類は友を呼ぶのか、パークスのゴリ押しぶりに感動?した清国駐在全権使節兼香港総督だったバウリングという人物が、独断で現地に駐留していた英国海軍に「暴れろ!」と命令したから堪りません。英軍が広州付近の砲台を占領すれば、「ふざけるな!」と清朝の民は英国人の居留地を焼き払って対抗します。でも、民衆には武力はありませんから、本物が現われたら手も足も出なくなるのが悲しい現実です。
■英本国では、首相のパーマストン子爵が議会で「軍隊をチャイナへ!」と大演説をぶって見せますが、案外と議会は冷静でこの恥知らずな謀略は否決されてしまいます。ところが民主国家というのは恐ろしいもので、パーマストン首相は「解散総選挙」に打って出ます。どんな選挙運動を展開したのやら……。何処かの首相が郵政民営化を押し通そうと参議院で法案が否決されたのに怒って衆議院を解散したのは最近の話ですが、パーマストンの出兵案は選挙後の議会で可決されてしまいます。そこで派兵される5000人をシビリアン・コントロールする責任者として派遣されたのがエルギンという名の前カナダ総督だったそうです。この人物こそ、オスマントルコのスルタンから許可を貰った!と言い張ってアテネのパルテノン神殿からレリーフを剥ぎ取って持ち帰った張本人。
■不思議な言い掛かりをつけてイラクに出兵した米国のブッシュ大統領は、欧州を半分に割って有志連合軍の形を採ったように、この時の大英帝国もフランスのナポレオン3世に共同出兵の誘いを掛けます。オスマントルコを分け合う事になる両国ですから、フランスが断るはずもなく、宣教師が逮捕斬首された話を持ち出して派兵の口実としたのだそうです。こうして1857年の末に広州を襲った英仏軍は、正当な臨検をして容疑者を逮捕した清の総督大臣を問答無用で捕らえて「条約改正」を強要するのですが、翌年の2月に清朝の北京政府に対して衝き付けられた交渉の要求書には、ちゃっかりロシアとアメリカの全権大使の名前も並んでいた!
■条約改正(悪)に成功した英仏艦隊は、1859年の6月17日に条約批准のために天津の白河口に来襲します。条約は批准されないうちは単なる紙切れですから、この元朝のフビライが開鑿した北京と天津を結ぶ運河を塞ぐ抵抗戦が起こります。何でもかんでも運河に投げ込んで航行不能にしたわけですが、障害物を自力で取り除かねばならなくなった無様な艦隊に対して、モンゴル人の将軍センゲリンチンが指揮する清朝軍に攻撃され、ホウホウの体で上海に逃げ帰りましたとさ。
■意気上がる清朝の咸豊帝は、英雄センゲリンチン将軍に命じてパークス一味を捕らえるわ、英仏使節団を拷問に掛けて死者まで出すわ、ちょっとやり過ぎてしまいます。面子丸潰れの英仏軍は大艦隊を再編成し、当初の3倍を越える約1万7千人の大軍となって天津に戻って来ましたから、皇帝は腰を抜かして北の熱河に逃げ出してしまいます。こういう長い長い前置きがあって、1959年の10月18日、英軍は使節団殺害に対する報復として円明園を大規模に破壊したというわけです。どうやら英国軍が乱入する前に仏軍の兵隊が一足先に円明園で掠奪していたというのが真相らしい……。というわけで、今回の競売に出品されたネズミとウサギは、どちらの国の軍隊が略奪したのかは分かりません。しかし、英国ならば「使節団殺害」に対する報復だったと言い張りたいでしょうし、仏国だったのなら飽くまでも「宣教師殺害」に対する報復だったと言い張るでしょうなあ。