■簡単にお浚いしておきますと、1917年の11月に大英帝国外務大臣だったアーサー・ジェームズ・バルフォアが、シオニズム運動のリーダーであるライオネル・ウォルター・ロスチャイルドに対して「ユダヤ人国家建設」を文書で支持したのが『バルフォア宣言』で、それ以前の1915年の10月段階で駐エジプト高等弁務官だったヘンリー・マクマホンが、メッカの太守フサイン・イブン・アリーと交わした「アラブ国家樹立」を認める公式文書が通称『マクマホン宣言』。時はオスマン・トルコ帝国が崩壊するという大きな歴史の節目でしたから、先ずはオスマン帝国崩壊を片付けたい一心だった大英帝国が二股膏薬の外交戦略を展開したという次第。
■念の入ったことに石油が出そうな地域は神経質に色鉛筆で奇怪な模様を描いたのに、石油が出そうもない場所は極めて適当に扱ったのが禍根となりました。それは中東問題の話ですが、中東に巨大な歴史の地雷を埋めたようなマクマホンさんは、その前にチベットでも大きな地雷を埋めてしまったのでした。
■世に言う「グレートゲーム」で帝政ロシアと本気でユーラシア大陸を南北に二分して支配しようとしていた大英帝国は、悪名高い「アヘン戦争」で痛めつけた清朝政府との間で、1890年と1893年にチベットに関係する条約を結んでいたのです。勿論、弱体化していたとは言え、当時のチベット政府はそれを認めるはずもなく断固として拒否!帝国主義時代の作法に従って、1903年に英国軍が侵攻を開始して1904年の8月にはラサ入城。正確には西暦8月3日(チベット暦6月22日)の事で、その主人公は大英帝国のヤングハズバンド大佐で、彼がやった事を分かり易く映像化したのが邦題は『チベットの紅い谷』というのだそうですが、『紅河谷』という映像だけは迫力のあるチャイナの映画です。悪いのはヤングハズバンド隊だけ!という描き方に難はありますが、雄大な風景を楽しみながら大英帝国が何をしたのかを知るには役立つと思います。
■ヤングハズバンド大佐の名前と「業績」はチベット人の間では今での生々しく語り伝えられている事を旅限無は実体験として知っておりますが、大英帝国よりももっと酷い事をした国があった事はもっと多くのチベット人が知っておりますぞ。さてさて、ヤングハズバンド大佐が率いる遠征軍は、チベット人が見た事もない物騒な品物を見せ付けてラサ市内に進駐したのですが、ダライラマ13世は脱出した後でした。臨時に任命されいていた摂政役が代表となって結ばれたのが大英帝国がチベットを保護下に置くとする『ラサ条約』。
■大英帝国は清朝と交渉する時にはチベットを無視し、反抗的な態度を見せたチベットと交渉した時には清朝を無視したというわけです。それでも外交の巧手と呼ばれる喰えない英国は、ラサ市内に駐在していた清朝の役人であるアンバン(駐蔵幇弁大臣)を上手に利用したものですから、いよいよ話はややこしくなりました。何せ『ラサ条約』によってチベットの内政と外交に関する権限は大英帝国に奪われ、チベット政府の名でその屈辱的な条約を認めたのですから、原理的にチベットは独立国だったことになります。それから10年後に辛亥革命が起こり、ややこしい関係だった清朝が倒れた!というのでチベットはお祭騒ぎに沸き立ったとか……。
■念の入ったことに石油が出そうな地域は神経質に色鉛筆で奇怪な模様を描いたのに、石油が出そうもない場所は極めて適当に扱ったのが禍根となりました。それは中東問題の話ですが、中東に巨大な歴史の地雷を埋めたようなマクマホンさんは、その前にチベットでも大きな地雷を埋めてしまったのでした。
■世に言う「グレートゲーム」で帝政ロシアと本気でユーラシア大陸を南北に二分して支配しようとしていた大英帝国は、悪名高い「アヘン戦争」で痛めつけた清朝政府との間で、1890年と1893年にチベットに関係する条約を結んでいたのです。勿論、弱体化していたとは言え、当時のチベット政府はそれを認めるはずもなく断固として拒否!帝国主義時代の作法に従って、1903年に英国軍が侵攻を開始して1904年の8月にはラサ入城。正確には西暦8月3日(チベット暦6月22日)の事で、その主人公は大英帝国のヤングハズバンド大佐で、彼がやった事を分かり易く映像化したのが邦題は『チベットの紅い谷』というのだそうですが、『紅河谷』という映像だけは迫力のあるチャイナの映画です。悪いのはヤングハズバンド隊だけ!という描き方に難はありますが、雄大な風景を楽しみながら大英帝国が何をしたのかを知るには役立つと思います。
■ヤングハズバンド大佐の名前と「業績」はチベット人の間では今での生々しく語り伝えられている事を旅限無は実体験として知っておりますが、大英帝国よりももっと酷い事をした国があった事はもっと多くのチベット人が知っておりますぞ。さてさて、ヤングハズバンド大佐が率いる遠征軍は、チベット人が見た事もない物騒な品物を見せ付けてラサ市内に進駐したのですが、ダライラマ13世は脱出した後でした。臨時に任命されいていた摂政役が代表となって結ばれたのが大英帝国がチベットを保護下に置くとする『ラサ条約』。
■大英帝国は清朝と交渉する時にはチベットを無視し、反抗的な態度を見せたチベットと交渉した時には清朝を無視したというわけです。それでも外交の巧手と呼ばれる喰えない英国は、ラサ市内に駐在していた清朝の役人であるアンバン(駐蔵幇弁大臣)を上手に利用したものですから、いよいよ話はややこしくなりました。何せ『ラサ条約』によってチベットの内政と外交に関する権限は大英帝国に奪われ、チベット政府の名でその屈辱的な条約を認めたのですから、原理的にチベットは独立国だったことになります。それから10年後に辛亥革命が起こり、ややこしい関係だった清朝が倒れた!というのでチベットはお祭騒ぎに沸き立ったとか……。