富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「ヤコブとヨハネの母の願い」 マタイによる福音書20章20~28節

2021-05-08 03:00:50 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

復活節第4主日(母の日)  2021年5月9日(日)       午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

                        礼 拝 順 序

                 司会 齋藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 214(わが魂(たま)のひかり)

交読詩編   95(主に向かって喜び歌おう)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書20章20~28節(新p.39)

説  教 「ヤコブとヨハネの母の願い」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                    

讃美歌(21) 484(主われを愛す)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                                                            次週礼拝  5月16日(日)午後5時~5時50分    

                                                            聖 書 ヨハネの黙示録3章14-21

                                                            説教題  「戸の外に立つキリスト」

                                                            讃美歌(21) 149 56 430 27 交読詩編 103  

     本日の聖書  

20:20そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。 21イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」 22イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、 23イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」 24ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。 25そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 26しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 27いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。28人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

         本日の説教 

ガリラヤ湖畔の漁師ゼベダイの息子たちの名は、ヤコブとヨハネです(マタイ4:21)。ゼベダイの妻については、マタイ27:56によると、イエスが十字架で息を引き取られたのを見守っていた三人の女性のうちの一人がゼベダイの子等の母とあり、マルコ15:40にはサロメと記されています。サロメの名は、イエスに油を塗りに行くために香料を買った三人の女性の一人としても記されています(マルコ16:1)。ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネの母はサロメです。マタイによる福音書にはサロメという名は記されていません。

 イエス様が漁師のヤコブとヨハネの兄弟を弟子にするため呼んだとき、二人は父と雇人を舟に残して、イエスに従いました(マルコ1:19)。父ゼベダイは舟や網を持ち、雇人もかかえている裕福な漁師だったと思われます。

 二人の息子がイエス様に従うようになってから、母親サロメは、イエス様の教えについて息子たちから聞いており、エルサレムに向かうイエスの一行の中にサロメも同行していたと思われます。サロメはイエス様に尊敬を好意を抱いて、一行に奉仕していたと思われます。

 ペトロが、イエス様に、「わたたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」と問うたときに、イエス様は、「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルに十二部族を治めることになる」(マタイ19:27-28)、と答えられました。この話も、サロメは息子たちから聞いていたのかも知れません。弟子たちは、イエス様が言われた「栄光の座につく時」と言われた真の意味をまだ理解できず、イスラエルの民がローマ帝国の支配から独立し、その栄光を地上に回復する時と、あやまって考えていました。

イエス様が高い山に登り、その姿が太陽のように輝いたとき、イエスが連れて行った弟子は、ペトロと、それにヤコブとヨセフの兄弟の三人でした(マタイ17:1)。ゲッセマネの祈りのときもこの三人です。この三人は重要な場面では、イエス様の近くにいました。二人の息子を特別に目をかけてくださることを知っていたサロメは、母親として息子たちの将来のことを、イエス様にお願いしておきたいと思いました。

 イエス様が十字架を覚悟してエルサレムへ上っていく途中のことです。ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとしました。マルコによる福音書では。母親は出て来ません(マルコ10:35-45)。

 栄光の座に座る王に仕えることになった息子たちに、大それた望みをサロメはいだくようになったのは自然の成り行きです。愚かな親の望みは、子供たちにも影響を及ぼします。二人の息子を持つ母親の切なる願いが、このサロメのひれ伏した姿に感じられます。

 そこで、イエス様が、「何が望みか」と言われると、彼女は「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」と頼みました。母も本人たちも望んだものは地位でした。

イエスがメシア的王として君臨するとき、王い次ぐ重要な地位を二人の息子に与えるという約束を求めました。それはきわめて世俗的な虚栄心によるものでした。子供の立身出世のために頼みに来た母親の姿がここにあります。

これに対してイエスは、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と、彼らの覚悟のほどを確かめました。

<杯>は十字架につけられて流される血を象徴する最後の晩餐での杯を思い起させます。また。「この杯をわたしから取りのけて下さい」(マルコ14:36)と祈ったゲッセマネでの祈りにあるように死に至るほどの苦しみを意味します。この比喩的表現によってイエスは、彼の進む道が栄光と権威に飾られた力で支配する道でなく、苦しみに満ちたものであることを教えます。師の歩む道がそうであるから、彼に従う者の道もまた同様であることを覚悟しなければなりません。しかしそれは愛の労苦であり、キリストと共にする労苦なので、喜びと感謝をもってすることができる労苦なのです。

ヤコブとヨセフの二人は、深い意味も考えないままに、「できます」と返事すると、イエスは、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる」と言われました。弟子たちもイエスのために命を捧げるようになることを言われたのでしょう。しかし、神の国での地位は弟子たちの受ける苦難と交換条件として約束できるものでないことを説きます。わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、「わたしの父によって定められた人々に許されるのだ」と言われました。

ほかの十人の弟子たちは、ヤコブとヨセフの母が、イエスに特別に頼んだこを聞いて、腹を立てました。十人の弟子たちも、ヤコブやヨハネ、その母親と同じように、王国での高い地位を望んでいたからです。

そこで、イエス様は一同を呼び寄せて、「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」と言われ、「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」と言われました。本当の意味で偉い人は、仕える精神を持っている人です。

これはいつか聖霊によって、弟子たちの中に起こる奇跡を主イエスは予告し、静かにさとされたのです。そしてサロメも息子たちも、本当に求めるべきものは地位ではなく、愛に富む品性であり、望むべきものは権力ではなく、人の僕となり仕える事であることを、学んだのではないでしょうか。

イエス様の御言葉を聞いたサロメは、その後、イエス様の説教しておられる場所に自ら出かけて行き、他の婦人たちと共にイエスに仕えるようになり、やがて、イエスが十字架上の死を遂げられる時に見守り、香料を携えて埋葬の準備をした婦人たちのうちにまじっていました。彼女たちは、主イエスの復活を天使から知らされた最初の婦人たちでした。彼女の二人の息子は使徒たちの中で常に名誉ある地位を保ち続けました。

ヤコブは、キリストのために、使徒たちの中で、最初の殉教の死をとげる使徒にまで高められました(使徒言行録12:2)。

ヨハネは「愛の使徒」と呼ばれるほどの柔和な性質に変えられ、主に仕えて長い生涯を送り、迫害を受けてパトモス島に流され、神の黙示を見るために召されるという特別な光栄に与るようになりました。

一体わたしたちは、子供たちのため、また自分自身のために、ひれ伏して何を求めようとしているのでしょう。

 「聖書の女性物語」(昭和47年再刷)を書いた中田徳子氏は、その著作の「母の願い・子の想い」の中で、「母の願い、母の想いは、そのまま子の願い、子の想いになっていく」例話として、母ヘロデヤと娘サロメをあげています。美しい舞をヘロデ(アンティパス)王の前で踊ったサロメが、その褒美として、「なんでも欲しいものをあげる」と王に言われたとき、母ヘロデヤに聞き、「バプテスマのヨハネの首を」求めました。ヨハネは、ヘロデ王と前夫を捨てて妻となったへロデヤの結婚を非難していた預言者です。義人ヨハネを抹殺したいと思っていた母の想いが娘の想いとなり、獄中にいたヨハネの首は切られ、盆にのせてサロメに与えられ、サロメはそれを母に渡しました(マルコ6:17-29)。

 娘サロメに舞を習わせたのは、母の願いからでした。練習の結果であるその美しい舞も、母の傲慢なおもいが娘サロメに影響し、預言者を死にいたらせる罪の原因となりました。

著者は、つぎのように述べています。「私は、息をのむような思いで、自分自身を反省しました。私の想いが、私の願いが、私の大切な子供の想いに影響し、その人生の経路に否応なしに決定づけていく。・・・自分の心の一番深い処にある願望をどこにおいているか。私は深く反省せずにはいられませんでした。」(聖書の女性物語p.14) 

良い地位、安定した生活、人の上に立つこと、それらは大きな魅力です。しかし、それを得ることを人生の目的とするとき、いつしか、他者に対する愛の欠けた自己中心の生き方になってしまいます。それが人と人との間の不信感や不和を生むことになり、愛し合う幸福を遠ざけてしまうエゴイストになってしまいます。

今、盛んになっているボランティア活動は、正に、仕える者とならなければできることではありません。行方不明の児童を発見し、助けた手柄によりス―パーボランティアと言われている大分県の尾畑春夫さん(81歳)が緑樹褒賞を受けたことは大変喜ばしことであり、奉仕の大切さを思い起させます。

イエス様に出会い、イエス様の「互いに仕える者になりなさい」という御言葉を聞くとき、聖霊の働きによって、次第にわたしたちは、自己中心の者から、神と、人に仕える愛の人とされます。そのための労苦もいつのまにか、イエス様の共にある平安と永遠の命に生きる喜びと感謝になっていることに気づくのではないでしょうか。

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