富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「洗礼の意義」 ローマの信徒への手紙6章3~14節

2021-05-02 22:00:06 | キリスト教

                        「キリストの洗礼」 ベロッキオとレオナルド・ダ・ヴィンチの合作 1475年

          所蔵: ウフィツィ美術館、フィレンツェ、イタリア 

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会

週    報

復活節第4主日    2021年5月2日(日)      午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

                     礼 拝 順 序

 

                 司会 齋藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 204(よろこびの日よ)

交読詩編  115(わたしたちではなく、主よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ローマの信徒への手紙6章3~14節(新p.280)

説  教      「洗礼の意義」   辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                    

讃美歌(21)  67(貴きイェス)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

 礼拝に続いて、「グレイス・タイム」があります。

                                                                     次週礼拝  5月9日(日)午後5時~5時50分    

                                                                     聖 書 列王記上3章16-28

                                                                    説教題  「母の愛」

                                                                    讃美歌(21) 214 459 27 交読詩編 95  

本日の聖書 ローマの信徒への手紙6章3~14節 

6:3それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。 4わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 5もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。 6わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。 7死んだ者は、罪から解放されています。 8わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。 9そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。 10キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。 11このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。 12従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。 13また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。     

                           本日の説教 

バプテスマ(洗礼)とは、主イエスを信じた者が、キリスト教徒になるために、教会が執行する礼典です。バプテスマはギリシア語で、<バプティゾー(〔水に〕浸す)>という意味の動詞からきた名詞です。

キリスト教のバプテスマに道を開いたのは、イエスにバプテスマをほどこしたバプテスマのヨハネです。ヨハネのバプテスマは、悔い改めのバプテスマと呼ばれました。それは、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と言い、迫ってきている神の怒りに対して要求された。彼がはたした最も重要な意義は彼が強調した来るべき救い主であるイエスに対して、洗礼がなされたことです。これによって<水のバプテスマ>は<霊のバプテスマ>となり、<悔い改めのバプテスマ>は<罪のゆるしを得させる>ものとなりました。

     

                     「キリストの洗礼」 Joachim Patinir

イエス・キリストはヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けました。ヨハネの<水の洗礼>は、霊によってもたらされる洗礼への準備段階としての罪からの悔い改めの洗礼です。神の子であられる主イエスはただ一人、悔い改める必要のない、罪のない方であられます。その主イエスがどうして洗礼を受けたのでしょうか。マタイによる福音書では、ヨハネが、「わたしこそあなたから洗礼を受けるべきなのに」と言って、主イエスに洗礼を受けることを思いとどまらせようとしています。イエスが受けた洗礼は、この世に対して救い主が公に現れたことを宣言したものであり、イエスは民衆の罪を負って十字架に架かったように、ここでも民衆の罪を一身に負って、ヨハネの洗礼を受けられたものと思われます。なぜなら、このときイエスは、「これはわたしの愛する子」という神の声を聞き、メシヤとしての召命を受け、彼はその使命を、その生涯とくに十字架の死と復活によって成就したからです。

教会の洗礼(バプテスマ)は、水によって、父・子・聖霊である神への信仰を表す儀式(礼典)です。主イエスは「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネ3:5)、と言われています。洗礼は教会が勝手に作り出したものではなく、その根拠は、主イエスが「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けよ」(マタイ28:19)、と弟子たちに言われたお言葉に基ずくものです。復活されたイエスは、「信じて洗礼を受ける者は救われる」(マルコ16:16)と言っています。主イエスの言葉を受けて、ペトロは、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と語りました(使徒言行録2:38)。

罪とは何でしょうか。キリスト教でいう「罪」とは、法律違反の罪、犯罪のことではありません。罪は、ギリシア語で「ハマルティア」と言い、「的外れ」という意味です。人間が創造主である神の意志から離れた結果、正常な状態から外れていることを罪というのです。その結果、神を崇めず、自己を誇り、神をも隣人をも自己のために利用しようとする不純な自己愛、神の意志に反する貪欲(むさぼり)、自己中心に生きようとする罪をわたしたちは宿すものとなったのです。

パウロは、キリストに出会う前、ユダヤ人として律法の学びと遵守には、誰にも負けないという誇りを持ち、神の前に自分は義しいという自覚を持っていました。十字架刑に処せられて死んだイエスを救い主と信ずるキリスト教徒を容認できず、迫害していました。しかし天から彼に語りかける活けるイエスに出会い、その徹底的な恵みにふれたとき、彼は自分の罪の深さを知ったのです。いや、自分の罪を知らされたのです。彼のこれまでの律法に対する熱心さは、神と人に対する傲慢、誇り、思い上がり、自己正当化、自己満足、自己追及であったこと、彼は自己中心の醜さを思い知らされたのです。

罪はあらゆる悪と悲惨の源であり、神の裁きを招いてわたしたちを滅びに至らせます。人は皆罪の中に生れた者であり、自己の力をもってはこれから逃れれることはできません。この罪の問題の背後には、私たち人間を支配する、罪の力、闇の力、悪魔の力が潜んでいます。それを解決することができるのは神の力、聖霊の力だけなのです。洗礼を受ける際には、自分が罪人であることを認め、また主イエスが私の罪の犠牲となった十字架について下さった、との信仰が大切です。

聖霊が最初に与えられたのは、ペンテコステ(聖霊降臨日)のときですが、またこのときはじめて教会でバプテスマが執行されました。水によるバプテスマは、それを受ける者が聖霊によって<キリストと共に死に>、また、キリストの復活に結びつき、キリストと共に<新しい命に生きる>(ローマ6:4)恵みを、体の感覚を通して受けるのです。

新しい命に生きる私は、罪を赦された私であり、天国を目指して歩む私、聖霊を内に宿す私、深い喜びと平安の中にある私、神と人への愛をもって生きる者とされた私です。

また洗礼によって、わたしたちは、「ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと」、キリストの体なる教会へと結ばれ、「皆一つの体となる」(Ⅰコリント12:13)のです。そして教会の肢体ととされたわたしたちは、霊の食物である聖餐を通してキリストの血と体にあずかるのです(Ⅰコリント10:16)。

「わたしは心の中で信じていればそれで良い」という人がいるかもしれません。しかし、イエス・キリストに救われ、このキリストを信じて生きていくことは心の内側のことに留まらないのです。洗礼の恵みは見えるかたちでわたしたしに臨み、わたしたちに働くからです。「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」(マタイ10:32-3、ルカ12:8-9)と主イエスは言われています。人々の前でイエスを「救い主」と、信仰告白をすることが求められているのです。洗礼は教会生活の中で繰り返し行われることはなく、一度限りです。それは、キリストの十字架の出来事が一回限りで、しかもそれによって完全な救いが達成されていると信じるからです。

バプテスト教会のように全身水の中に入って受けるかたちもあり(浸礼)、頭に洗礼の水が注がれるかたちもあります(滴礼)。いずれにしても、「父と子と聖霊の名によって」授けられた洗礼は教派を超えておおむね相互に認め合っています。事情があった他の教会に移る場合にも洗礼をやり直すことは基本的にありません。

幼児洗礼は、信仰の家庭に生れた新しい命が、神の祝福とキリストの恵みに支配されていることを信じ、やがて本人が自分の意思で信仰を告白することをその家庭は祈り求めながら、その養育の責任を担うのです。幼児洗礼を受けた人は、自分の意思で信仰を告白する式を受け、聖餐の交わりに加わることが期待されています。

洗礼は単なる儀式ではなく礼典です。説教は「見えない神のことば」ですが、洗礼や聖餐は「見える神のことば」と言われています。見えるかたちで、感覚にまで訴えて、イエス・キリストと結ばれる洗礼と聖餐を(聖)礼典と言います。

礼典は、信仰と結びついて、見えるかたちで神の恵みを示します。信仰をもってこの礼典にあずかる者は、聖霊によって、もろもろの罪を赦され、キリストと一体とされて、キリストの勝ち取られた罪と死に対する勝利や復活の命にあずかるのです。バプテスマは、イエスの死と復活が信仰者の中で具体化することであり、終末を待ち望むことでもあります。それが洗礼や聖餐の意義なのです。

 

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