↑ ウィリアム・ホルマン・ハントの「世の光」 所蔵:セント・ポール大聖堂(ロンドン)
〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403
日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
復活節第5主日 2021年5月16日(日) 午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)
聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。(エフェソ3・16-17)
礼 拝 順 序
司会 斎藤 美保姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 149(わがたまたたえよ)
交読詩編 103(わたしの魂よ、主をたたえよ)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)ヨハネの黙示録3章14-21(新p.456)
説 教 「戸の外に立つキリスト」 辺見宗邦牧師
祈 祷
聖餐式 56(主よ、いのちのパンをさき)
讃美歌(21) 430(とびらの外に)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 5月23日(日)聖霊降臨日礼拝 午後5時~5時50分
聖 書 使徒言行録2章14~26節
説教題 「聖霊降臨日のペトロの説教」
讃美歌(21) 343 342 27 交読詩編 51
本日の聖書
3:14ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。 15「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。 16熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。 17あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。 18そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。 19わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。 20見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。 21勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。 22耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」』」
本日の説教
第一世紀の終わり頃、ローマ帝国の属州であったアジア州(トルコ)の諸教会は、紀元95年頃、ドミティアヌステ帝の時に行われたキリスト教の迫害によって、殉教者が出始めました。教会内部でも偽りの使徒により内部分裂の危機にさらされていました。福音宣教のためにパトモスの島に流刑の身となっていた預言者ヨハネは、キリストの再臨と勝利、この世の終末と神の国の完成を告げて、殉教の危機にさらされている諸教会と信徒を激励し、忍耐をもって信仰を守り抜かせるために、書いたのが黙示録です。
黙示録の1章から3章までの構成は、次のようになっています。
1章 初めの言葉 七つの教会へのあいさつ ヨハネへの啓示が示された顛末(天上におられるキリストの姿)
2章-3章 七つの教会へのメッセージ(エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキア)
4章から22章までは、聖霊に満たされた預言者ヨハネの幻視による壮大な終末の描写です。
今日の聖書の箇所は、ラオディキアの教会へのメッセジです。
「ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。』」(3:14)
ラオディキアの町は商業・織物の盛んな町であり、目薬で有名な医学校がありました。発信人の「アーメン」である方は、天上のキリストの姿を表現するヨハネの独自な表現です。「アーメンである方」は<真実な方>と同じ意味です。イエス・キリストは神のみ旨を証した真実な方であり、キリストは万物の創造に関与している聖なる方です。その方が次のように言われます。
「『わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。』」(3:15)
経済的に裕福であったラオディキアの町の教会は、その信仰が<なまぬるい>ものでした。彼らの信仰は熱することも、冷たく反対することもなく無関心に近かった。外面的・物質的豊かさの中で、内面的・霊的に、悲惨で貧しい実情であるのに気づかなかった。ここには宗教的な迫害も経済的な圧迫も記されていません。彼らは<目の見えない者、裸の者である>と言われます。当時、眼科の医学を誇ったこの町、織物業で知られた町は、衣類に事欠かないのに、教会の信者に対して、このようなたとえが用いられています。むしろ、<冷たいか熱いか、どちらかであってほしい>。
「『熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。』」(3:16-18)
<火で精錬された金>を買うとは、<試練によって本物を証明され>た信仰のことです。<白い衣>は勝利者、キリストに従う信者の衣です(黙示録7:9)。目薬で知られた町の教会で、信者は<目に塗る薬を買>わねばなりません。<体のともし火は目である><あなたの中にある光〔キリスト〔〕>(マタイ6:22-23)を求めよ、と勧告します。
「『わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。』」(3:19)
<わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする>は、ヘブライ12:5-7に、「わが子よ。主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい」とあります。
「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(3:20)
キリストは神と共に王座におられます(黙示録5:1)。しかし、キリストはラオディキアの信者に悔い改めを求めて<戸口に立って>います。そしてキリストはすぐ来られます。時が迫っている方(黙示録1:3,3:11)でもあります。預言者ヨハネののキリスト像は、この場面でも、時間の前後関係、過去・現在・未来の順序を越えて描かれます。
以上の勧告に、祝福に満ちた約束が伴っています。キリストが外で叩いているのは、明らかに内側からしか開けられない戸です。心の戸を開ける者に、キリストは「入って来られます」。<共に食事をする>が、ここに二度も繰り返されています。キリストと共に食事するということは、神の国に入ることです(ルカ14:15-24)。特に終末のキリストの婚宴に招かれるという描写が、その祝福を美しく描いています(黙示録19:9)。
「勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。」(3:21)
<たわたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように>のことばは、七つの教会に宛てた手紙の最後にあって、次の四―五章の幻視へと橋渡しをします。五章に掲げられた最後の賛美は、<王座に座っておられる方と小羊とに>ささげられています(5:13)。これは預言者ヨハネの独特なキリスト像です。さらに、キリストが神と共有する座に<勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう>とあります。
キリストと共に食し、キリストと王座を共有するであろうという、この箇所は、ルカ22:29-30に近い。そこには、<わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがあは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる>とあります。最もなまぬるいラオディキアにある教会が、<悔い改めよ>と勧告されます。そして彼らがキリストの声を聞き入れるとき、キリストと食事の席を共にする祝福が約束されています。
英国の宗教画家ウィリアム・ホルマン・ハントが描いた名作に、「世の光」という絵があります。「私は世の光である。私の教えに従う者は、闇の中を歩く事は無く、人生の光を得るであろう。」(ヨハネによる福音書8:12)この聖書に書かれたキリストの言葉にインスピレーションを得て、ウィリアム・ホルマン・ハント(William Holman Hunt、1827-1910年)が描いた絵が、「世の光(The Light of the World)」です。
絵の額の下の部分には、聖書からの引用、「見るがよい、私は戸口に立ち、ノックをする。もし誰かが、私の声を聞き、その扉を開けるなら、私は、その者のもとへ行き、共に食事をするであろう。(ヨハネの黙示録3:20)が記されています。この絵は、この聖句をテーマにして描いたものです。
ハントは、「世の光」を、計3枚描いていますが、一番最初の「世の光」を完成させたのは、彼がまだ若い頃の1853年。現在、この最初の物は、オックスフォード大学のキーブル・カレッジ(Keble College)にあります。これが彼の出世作品となります。「世の光」の、2つめのヴァージョンは、少々小さめで、最初のものと、ほぼ同時期に描き始め、1856年に完成。高さ125.5cm、横幅59.8cm。こちらは、現在、マンチェスター市立美術館(Manchester Art Gallery)に所蔵されています。
この絵の3つめは、他の2つより大きいヴァージョンです。最初の2枚の絵から、約50年も経った、1904年に完成。ハントの人生の締めくくりの期に描いています。この絵は、イギリスの社会改革運動家として知られるチャールズ・ブース(Charles Booth)が購入し、1905年から1907年に渡る2年間の間、この「世の光」は、カナダ、南アフリカ、ニュージーランド、オーストラリアの都市や町を回るというワールドツアーに出るのです。大成功のツアーが終わっての帰国後、絵はロンドンのセント・ポール大聖堂に寄贈され、現在もセント・ポールの北側袖廊にて、見ることができます。
この絵は、明け方、ランプを下げたキリストが、長いこと開かれることなく、つたの絡まった扉を叩こうとしている、イエス・キリストの姿が描かれています。復活のキリストの顔は、光り輝いています。作品中の扉には取っ手がなく、中からしか開けられない構造になっています。これは「頑なに閉じた心」を象徴していると言えます。そしてキリストが歩いている道は雑草でいっぱいです。心のドアはまだ開かれていないことを象徴しています。
キリストが持っている7面のランプは、黙示録に書かれている7つの教会を意味しています。地面にころがっている赤いリンゴは、アダムとイブが住んでいた、人間の楽園、エデンの園から追放された原因のリンゴです。人間の原罪を表しています。主は戸が開かれるのを待っています。主のために心の戸を開くとき、主は私たちの内に来られ、私たちは光を世の人々の前に輝かすものとなるのだとハントの絵は語りかけています。あなたも心を開いてこの救い主イエス・キリストを心に迎えませんか? あなたを愛し、あなたの罪を赦してくださる方を心に迎えるとき、あなたの心に喜びと感謝、豊かな恵みと祝福が与えられるからです。
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