
↑ デ―ヴィッド サンフェローの「イエスの顔」アリゾナ州Sedon市
「わたしはあなたを愛している、あなたは赦されている」"神はわたしの力、わたしは神を愛す " サイン:イエスを愛す Dave Fellow
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日本キリスト教 富 谷 教 会 週 報
年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』
聖句 「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)
聖霊降臨節第10主日 2017年8月6日(日) 後5時~5時50分
礼 拝 順 序
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 204(よろこびの日よ)
交読詩編 107(恵み深い主に感謝せよ)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書(新共同訳) コリントの信徒への手紙二、5章14~6章2節(p.331)
説 教 「和解の福音」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌 481(救いの主イェスの)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 8月13日(日) 午後5時~5時50分
聖書 使徒言行録9章26節~31節
説教 「宣教への派遣」
讃美歌(21)402 567 24 交読詩編 71
本日の聖書 コリントの信徒への手紙二、5章14~6章2節
5章14なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。15その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。16「17だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。18これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。19つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。20ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。21罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。6章1わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。2なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。
本日の説教
パウロは第三回の伝道旅行中、エフェソで53年から56年にかけて約二年以上滞在し、伝道をしました。コリント人への第一の手紙はこの期間に書かれたものです。その後、パウロは、マケドニヤ州(フィリピやテサロニケのある地域)に移動しました。コリントに派遣していたテトスからコリント教会の実情の報告を聞いたパウロは、コリントの第二の手紙をテトスに託して書き送りました、第一の手紙を送ってから約一年半位い後のことです。この手紙では、パウロが経験した苦しみと喜びを中心として、教会に対し自分の使徒職を弁明し、その権威を説き、信仰の奥義を示しています。この手紙は、56年から57年頃、マケドニアで書かれたものと推定されています。
第一の手紙を出した後、ユダヤ人キリスト者たちの策動の結果、パウロと教会の関係は危機にひんし、そのためにパウロは悩み抜いたのですが、幸い最後には解決をみるに至りました。その際彼の経験した苦しみと喜びとを中心として、教会に対して自分の使徒職についての弁明をし、その権威を説き、信仰の奥義を示したのが、この手紙です。それはパウロの最も個人的な手紙と言われており、自分の経験と告白を通して示された彼の人格の激しさと、その力強い信仰の言葉とが至る所に記され、人々の魂にひしひしと迫り来るものがあります。1章12節から7章16節にかけては、パウロの自己弁明があり、使徒職の光栄が記されています。
この手紙の1章1節には、手紙の差出人、すなわちこの手紙を書き送るのは、「「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロ」です。「使徒」とは、「使者、特別な使命を帯びて派遣された者」という意味です。パウロは、5章20節で「わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています」と述べています。
「 キリスト・イエス」とは、イエス・キリストのことで、<キリスト>は、救い主と言う意味の称号です。<イエス>が名前です。イエス・キリストには12人の弟子がいました。イエス裏切った弟子のユダの代わりにマティアという人が弟子たちによって選ばれ、この人達が「12使徒」と呼ばれました。彼らは、主イエスの復活の証人となり、全世界へと福音宣教を託されました。
パウロは12使徒とは別に異邦人への使徒に任命されました。彼は最初熱心なユダヤ教徒として、キリスト者たちを迫害し、キリストに敵対していました。ところが彼がダマスコのキリスト者たちを迫害しようと、ダマスコに行く途上で復活の主イエス・キリストに出会いました。そして、彼は復活の主イエスに直接異邦人への使徒に任命されました。
ダマスコへの途上で復活の主イエス・キリストに出会う以前の、回心する前の彼は、自分は神の掟を熱心に守っているという立派な人間であるという誇りがありました。「自分自身を誇るために」生きていました。彼はキリストに敵対し、キリスト者たちを迫害しました。なぜなら、キリスト教徒たちが、十字架につけられたキリストを救い主と信じ、律法(神の掟)の実行によってではなく、キリストによる罪の赦しを信じることによって救われるという教えを広めていたからです。パウロにとってこの教えは、従来のユダヤ教を否定するものであり、自分たちの自己中心的な誇るべき生き方を、否定する教えと思ったからです。
しかし、パウロはダマスコへの途上で復活の主イエス・キリストに出会い、回心しました。回心前のパウロのユダヤ名はサウルという名です。サウルがキリスト教徒を迫害しようとダマスコの近づいたとき、突然天からの光が彼の回りを照らしたので、彼は地に倒れました。そのとき、「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いたのです。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」という答えがあり、サウルのなすべきことが知らされたのです。
サウルはキリストの愛に心を打たれ、回心し、パウロというギリシャ名で名乗るようになったのです。キリストの愛とは、どういうことかというと、それは、キリストがすべての人の身代わりとなって罪を背負い、御自分が贖いの犠牲となって十字架の死を遂げられたことです。このことによって、生まれながらに神に逆らう罪に汚されているわたしたちも、キリストと共に十字架に死にました。そして、キリストが死人の中から復活されたことにより、わたしたちもこの復活のキリストの命をいただき、キリストを通して神の御前に正しい、罪なき者と認められ、永遠の命を与えられたのです。この素晴らしい恵み、キリストの愛を知ったパウロは、「キリストの愛に駆り立てられ」、パウロの反対者たちから正気でいと非難されるような、常識を越えるような神への熱心を説明しているのです。キリストの愛とは、どういうことかというと、それは、イエスがすべての者の救いのために、十字架上に死んでくださったことであり、それゆえにすべての者が死んだことを意味するのです。
5章16節と17節で次のように述べています。
「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」
十字架と復活のキリストを信仰において知ったパウロは、今後はだれをも「肉に従って知ろうとはしません」と言います。このようなことを言ったのは、おそらく、反対者たちが、うわべだけの判断でパウロを非難し、また、パウロが地上のイエスと接触がないことを理由としてその使徒権を軽んじたことに関連していると思われます。
「肉に従って」とはキリストについての人間的・外的な知識は、無意味なことだし、また、すべての人について外的な理解をすることはしない、ということです。だから、キリストについての外的な知識にとどまるのではなく、信仰において主なるキリストに結ばれるならば、人間は全く新しい被造者となったのであり、キリストにおいて、古きは去って全く新しくなったのです。<新しく創造された者>の「新しい」とは、以前にはなかった「質的な」新しさであり、次元の異なったあり方に造り変えられたことを意味しています。
5章18節に、「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました」と記されています。
キリストにおける新しい創造(=「すべてこれらのことは」)、神御自身の働きにほかなりません。本来わたしたちとこの世とは、その罪のゆえに、神の怒りの下にあり、神に全く敵対した状態にあります。しかし、神は、その罪をわたしたちに負わせず、かえってキリストにおいてその責めをみずから負うてくださり、私たちを御自分に和解させてくださいました。さらには、この和解の恵みを取り次ぐ任務がパウロたちに委ねられました。
神が私たち人間と「和解する」(仲直りする)とは、どういうことなのでしようか。神は、私たち人間と「和解」(仲直り)して、神の被造物である人間が神との交わり(救い)の中に生きることを願っておられるのです。しかし、人間には「罪」(神への不従順)がありますから、そのままでは神との交わりに生きることができないのです。なぜなら、罪とは自己中心に生きることです。本来神に創造され、神のために生きるべき人間が、罪ゆえに神を離れ、自己中心に生きる者となっています。
人間の罪が神のみ前にきちんと「清算」されなければならないのです。自らの罪を正直に言い表し、一人の罪人として心から神の赦しと助けに頼る者とならなければならないのです。そうでなければ、神は、人間の罪を赦して、ご自身との交わりの中に生かすことができないのです。そのことをすべての人間に代わってしてくださったのが、救い主イエス・キリストなのです。父なる神は罪のない御子であるキリストを御自分と敵対するこの世に送ってくださいました。主イエスは、神の御子であるにもかかわらず、すべての人間を代表して、十字架の死を受けることによって、罪の「責任」を担ってくださったのです。これが、御子イエスにおける神の和解の出来事なのです。この和解の出来事をすべての人に宣べ伝える「任務」が、神との和解に与り、救われた私たち(教会)に委ねられているのです。
そいうわけで、使徒パウロは、キリストから遣わされたキリストに代わる、キリストの使者です。キリストに代わってお願いします。神から提供された和解の恵みをつつしんで受け入れなさい、とパウロは勧告します。
キリストが<罪と何のかかわりもない方>であり、神はその罪のないイエスを、わたしたちのために「罪となさいました」。わたしたちがこのキリストによって「神の義を得る」ためであり、「正しい者と認められ」、言いかえれば「救われる」ためでした。
信仰者が「神の協力者」(6章1節)と言われているのも、その点においてです。「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」とパウロは言 っています。神の恵みとは、私たちが生きる上で必要なすべてのことが神の恵みですが、何よりも私たちの信仰を支えてくださる主イエス•キリストの聖霊によるご臨在の恵みこそ、最も大切な神の恵みです。この恵みによって、私たちはどんな状況の中でも信仰の望みに生きることができるのですから。
この恵みを「無駄」にしないとは、どういうことでしようか。主キリストのご臨在の恵みがいよいよ豊かに私の内に働いてくださるように神への謙遜に努める、ということです。神に対して謙遜になればなるほど、主キリス卜のご臨在の恵みは、私たちの魂の中で豊かに力強く働いてくださるのです。
6章2節の<恵みの時>は、原文では「神のみ旨にかなった時」です。今はイザヤ49・8に言われている、あの恵みの時・救いの日です。今ここに悔い改め、この救いを受けねばなりません。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と言われています。主イエスの十字架と復活、聖霊によるご臨在の出来事(ペンテコステ)以来、私たち人間のすべての日々は、「恵みの時」であり「救いの日」なのです。主キリストの救いを知っている私たちこそ、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけない」のです。主キリストのご臨在の恵みがいよいよ豊かに私の中で働いてくださるように、神への謙遜に励まなければならないのです。
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