富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「教えるキリストー律法について」 マタイによる福音書5章17-20節

2021-01-31 01:54:20 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

降誕節第6主日  2021年1月31日(日)     午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

                      礼 拝 順 序

                   司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 151(主をほめたたえよ)

交読詩編   119篇33-40(主よ、あなたの掟に従う道を示してください)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書5章17-20節(新p.7)

説  教  「教えるキリストー律法について」辺見宗邦牧師

祈 祷                                            

讃美歌(21) 536(み恵みを受けた今は)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                  次週礼拝  2月7日(日)午後5時~5時50分    

                  聖 書  マタイによる福音書7章13-14節

                  説教題  「狭い門から入りなさい」

                  讃美歌(21)348 288 27 交読詩篇 103篇1-13節

             本日の聖書 マタイによる福音書5章17-20節

5:17「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。 18はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 19だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。 20言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

本日の説教

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(5:17)

イエスの宣教は、その開始直後から、当時のユダヤ人をつまずかせるものでした。安息日に対するイエスの態度は、大きな問題となっていました(マタイ12:1-14、マルコ3:1-6参照)。ファリサイ派の人々は、安息日に関する律法を守らないイエスを、殺そうと相談したのです。

律法とは、神が人間に示された行動の基準です。神は律法をモーセに啓示されました。その中心となるのが十戒です(出エジプト記20:1-17、申命記5:1-22)ユダヤ人は旧約聖書の最初の五巻、創世記から申命記までを「律法」と呼んでいるが、特にレビ記と申命記には律法の細かい規定が記されています。神は律法により人間の真にあるべき姿を示し、正しい生き方をするように求められました。正しい生き方をする者には祝福を与え、正しい生き方をしない者には、のろいを与えると言われました(申命記27:26)。そして、律法の要求を完全に満たす者を、神は「義(正しさ)」、すなわち正しい者と認められたのです。

 しかし、どのように律法を守るかに関しては、律法学者やファリサイ派の人々とイエスのとの間には大きなへだたりがありました。律法学者やファリサイ派の人々は、律法の基本精神を忘れて、表面的な文字にこだわり、表面だけ敬虔そうにふるまい、それらを厳格に守る努力をし、それによって神に義と認められていると自認していました。しかし、イエスは、もっと自分の心の中の罪のことを考え、それに対して厳格な態度で臨むことを求めておられるのです。そうするなら、自分が神の前で罪人であることが自然に明らかになってきます。それゆえイェスは、律法学者やファリサイ派の人々の自己満足を非難されたのです。そして神の前に自分の罪を認めて、心を貧しくし、謙虚になって神の憐れみを求めるべきであり、イエスを神から遣わされた救い主と信じて生まれ変わり、神の霊の支配の中に生きる神の民とされ、正しい生き方をするように、弟子たちや聴衆に教えられたのです。

主イエスは、「わたしが来たのは」と、ご自身が来られた目的を明らかにします。<来た>という言葉で、神のもとからこの地上に派遣されてやってきたことを表しています。<わたしが来たのは・・・・と思ってはならない>は、マタイ特有の文体で、同じ文型が10:34にも見られます。また<律法や預言者>という語句も、マタイに典型的な編集的表現です(7:12、11:13、22:40)。<律法や預言者>は、旧約聖書全体を指しています。「廃止するためだと思ってはならない」とは、聖書を軽んじ、無効なものだとして、廃止するために来たのではない、ということです。<思ってはならない>は誤解をしないようにという警告です。律法を<完成するためである>とは、神の本来の意図まで律法の求めを全うすることです。主イエスは、その生涯の歩みや十字架の死と復活を通して、律法の要求を満たし、律法を成し遂げられました。

主イエスの5章17~20節のことばは、21~28節で話そうとする律法解釈の導入の役割をしています。そこでは、これまでの律法解釈を否定するかのような表現、「昔の人は・・・と命じられている。しかし、わたしは言っておく」と、モーセの律法に対するユダヤ教の伝統的な解釈を御自分の主張と対立させ、律法の正しい解釈を教えます。

「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(5:18)

主イエスは、17節のことばから、さらに踏み込んで、律法の権威を保証します。律法の文字から、「一点一画も消え去ることはない」の<一点>とは、へブル語の4分に1ほどの一番小さい文字「ヨッドי」のことです。【例語(אֱלֹהִ֑ים)エロヒーム(神)」。<一角>とは、レーシュרֶとヘイהָの文字の角を指します。右上角のわずかな違いによって、別の文字になります。【例語(הָאָֽרֶץ)ハーアレツ(地)】<一点一角も消え去ることはない>とは、律法の文字の小さな点や角の違いに至るまで、一字一句も消え去ることのない恒久的なものであることを強調しています。

「すべてのことが実現し、天地が消え失せるまで」とは、聖書の預言がすべて実現し、新天新地になる前、これまでの天地が滅び失せるまで、律法は存続し、永久的であることを意味しています。主イエスは、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(マタイ24:35)と宣言されています。この表現によると、イエスの言葉は天地が滅びても永遠に続くことになり、イエスの言葉は永続性だけでなく、永遠性まで含まれることになります。イエスの言葉は律法より権威がある、ということになります。

「だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」(5:19)

掟を破る」とは、律法の個々の条項を破るという意味です。「最も小さな掟を一つでも破る者は、天国では最も小さい者と呼ばれ、それを守る者は、大いなる者と呼ばれる」の<呼ばれる>は、裁きの時に、神に呼ばれるという意味です。最後の審判のとき、神は律法を重んじる人を<大きい者>と見られ、祝福を与えられるということです。

 言うまでもなく、律法によって人は救われるのではありません。ただ神の恵みによって救われるのです。それは律法から解放されることでもあります。しかし主イエスに従う者は、律法を軽んじたり、無視しても良い、ということではありません。律法は救いの条件ではありませんが、神の御意志を示すものであり、神が私たちに命じておられる戒めなのです。さらに律法は主イエスが実行され完成された意義あるものです。

「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」(5:20)

17-19節では、律法がなお継続的に効力をもつことを述べ、それを遵守すべきことが主張されているが、20節では<義>がテーマ(主題)となります。そして19節では掟を破る者も、小さい者として天の国に入ることが認められているのに、20節ではそのような者は全く天の国から排除されると言っています。この違いは、17-19節の中核は、ユダヤ教的な律法を擁護する伝承から取り入れたものであり、それを囲む17と20節は、編集的に形成されたマタイの文章です。こうして彼は、一方でユダヤ教正統派を任ずる者たちとはっきり距離をおきつつ、他方、キリストの到来によって律法はすでに廃棄され有効性を失ったと主張する者たち――マタイの教会内に、そのように主張するグループがあった――に、鋭い批判を加えます。律法を無視する者に対して明白に反対を述べるが、しかしそれはユダヤ教への回帰を志向するのではなく、ユダヤ教徒たち以上の<義>を要求する言葉となり、律法を超える新しい教え(5:21以下)の提示となります。

主イエスは、ご自分の権威をもって、<言っておくが>と言われます。主イエスに従う民、キリスト者の義は律法学者やファリサイ派の人々の義にまさったいなければならないと言われます。当時、<律法学者>の役割は、主に律法を教えることと、裁判を執り行うことでした。一方、<ファリサイ派の人々>は、律法を厳密に守ろうとする宗教グループです。律法を守ることによって神に受け入れられようとして彼らの努力は、筆舌に尽くし難いものでした。<彼らの義にまさる義>とは、どのようなものでしょうか。

<天国に入ることが出来る義>は、律法の一つ一つの条項を守ることによって得られる義ではありません。それは、5章21-48において明らかにされた主イエスの教えた義であり、「天の父が完全」であるように「完全な者」としての義です。あるいは、6章1-18において勧められている宗教的善行です。さらに6章20-7章11で展開される、神に信頼する歩みのことです。そして、それらの一切は、7章12節に集約されている黄金律と言われる戒めです。それは<律法と預言者>を包括する戒めであり、同時にこの説教においてイエスが語る具体的な命令のまとめです。つまり旧約の教えは、<人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい>という愛の戒めに要約されるものであり、主イエスが完成しようとするのも、これに他なりません。この理解は22:40の言葉によって強化されます。そこでは<律法全体と預言者>は愛に<基づいている>と言われています。マタイにおいては愛から律法のすべてが導き出されます。

したがって、5章20節において、キリスト者の義がファリサイ派や律法学者にまさるものでなければならないと言うとき、それは律法の基礎であり要約である「愛」の行為が問題となっているのです。律法の根底にあるこの神の御心は新たに<完成>されなければなりません。

イエスが要求された義は、人間の力で実現できるものではありません。人は律法の行いによっては義とされません。主イエス・キリストの、わたしたちの罪をあがなうための身代わりの死によって、わたしたちの罪が赦されました。私たちに与えられた義は、主イエス・キリストの十字架と復活によって神様が与えて下さった義です。義(正しさ)とは神の属性の一つであり、神が御国の民に与えられるものです。人間が自ら獲得するようなものではありません。主イエスの十字架と復活にあずかって新しく生れた者が、神から賜る聖霊によって神の御心をこの地上において実現するようにするために、この世に来られたのです。それが主イエスがなされた律法の完成なのです。

 天の国を与えられる人については、あの八つの幸いの教えで語られています。「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」と。心の貧しい人というのは、自分の中に豊かさ、正しさ、誇るべきものを何も持っていない、自分の義において徹底的に貧しい者です。そういう人は、神が与えて下さる義によりすがるしかないのです。天の国、神様の恵みのご支配は、そのような者にこそ与えられるのです。

私たちがよい行いに励むのは、主イエス・キリストの十字架と復活によって与えられた、罪の赦しと死への勝利の恵み、その神様からの義にあずかり、父なる神様の子として生きることを赦された者として、その無償の愛(アガペー)・無償の恵みに応え、神を愛し、隣人を愛すのです。神は何かの利益を得るために私たちを愛され、恵みを与えてくださるのではありません。

「天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」、「最も小さな掟を1つでも破る者は天の国で最も小さい者と呼ばれる」(マタ5・18-19)の記事は、福音書記者マタイが、ユダヤ教的な律法を擁護する伝承から取り入れたものであることを伝えました。イエスが律法擁護者であることが記されています。パウロも、「律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです」(ローマ7:11)と言っています。

 では、マタイはモーセ律法の規定を細部に至るまで、たとえばレビ記の献げ物の小さい規定まで全部文字通りに遵守するように、彼の教会の信徒に求めているのでしょうか。そのようなことを求めていないことは、マタイ福音書を一読すれば明かです。マタイにとっても、「律法を守る」とはモーセ律法の正しい解釈と、生活の中での実行であったはずです。  

イエスは弟子に「安息日」に仕事を休ませていません。それを、ファリサイ派の人たちが咎めると、イエスは「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」(マコ2・23)と答えています。ファリサイ派の人々にとっては、容認できない出来事でした。イエスは律法遵守だが厳守とは言えません。「律法」には「十戒以外に、神がモーセに口述したと言われる600 以上の諸規定」が含まれています。民衆にとっては「背負いきれない」ほどの掟です。この「律法」をイエスはもはや期限切れとも受け取れる、「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである」(マタ11・13)と言われています。イエスは「律法」に強い不信、懸念、懐疑があったことは確かです。

ユダヤには「律法」を守るための人為的規則「昔の人の言い伝え」である<食前の手洗い>の件でも、イエスは弟子たちに厳守の立場をとらせていないし(マタイ15・2)、「断食」も励行させていません(マタイ9・14)。こうした行為はユダヤ教支配者をいら立たせることになるが、イエスは妥協せず、鋭く対立しました。パウロはイエス・キリストを「律法」の上に位置づけています。キリストに結ばれた今は、「わたしたちは、自分を縛ったいた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、霊に従う新しい生き方で(復活されたキリストに)仕えるようになったのです。」(ローマ7・6)と言っています。。

割礼の規定は、創世記17章9-14、レビ記12:3に記されています。しかしパウロは、「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みを失います。わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、霊により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(ガラテヤ5:3-6)と述べています。

キリストに結ばれている者は、律法全体を行う義務から解放されています。主イエスは、律法全体と預言書(すなわち旧約聖書)は、「あなたの神である主を愛すこと。隣人を自分のように愛すこと。この二つに基づいている」(マタイ22:37-40)と教えています。パウロも、主イエスの言葉を受けて、「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされる」(ガラテヤ5:14)、「愛は律法を全うするものです」(ローマ13:10)と教えています。

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