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↑「広い道・狭い道」ドイツ 1866年 Chrlotte Reihlen (着想と聖句) Paul Beckmann(画)
英語版 The Broad and Narrow Way to Heaven is painted by Mary Evans . 2017年
【絵画の中の一つ一つの絵に聖句が記され、聖句に基づいて絵が描かれている。】
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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
降誕節第7主日 2021年2月7日(日) 午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)
礼 拝 順 序
司会 齋藤 美奈姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 348(神の息よ)
交読詩編 28(主よ、あなたを呼び求めます)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)マタイによる福音書7章13-20節(新p.12)
説 教 「狭い門から入りなさい」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 288(恵みにかがやき)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 2月14日(日)午後5時~5時50分
聖 書 マタイによる福音書11章25-30節
説教題 「重荷を負う者、わたしのもとに来なさい」
讃美歌(21) 214 493 27 交読詩篇 27
本日の聖書
7:13「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。 14しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」15「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。 16あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。 17すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 18良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。 19良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 20このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」
本日の説教
7章の12節の「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」は、全律法の要約であり、律法の根本精神です。人にしてもらいたいと思うことを人にするためには、自分を犠牲にしなければできないことです。人を愛するためには犠牲が伴います。これは平易な教えのようですが、生れながら自己中心的な人間が、これを実行することは不可能なことを悟るはずです。善をなそうという意思があっても、それを実行出来ず、望まないことをしているとすれば、それは自分の中に住んでいる罪のせいなのです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。すべての人は皆、罪の下にあり、神の前に正しい者は一人もいないのです。主イエスは律法を行うことができないわたしたしのために、自己犠牲の全き愛を実行してくださり、律法を全うしてくださいました。キリストの救いにあずかって、キリストに常に結ばれているとき、罪から解放され、神の力、聖霊の働きによってのみ出来るのです。
この7章の12節の御言葉は、「黄金律」と呼ばれています。英国のメソジスト運動(信仰覚醒運動)を指導した有名な説教家・ジョン・ウェスレーが1750年に、この御言葉から「黄金律」という説教をしたことによります。
【ちなみに、メソジストという名称は、規則正しい生活方法「メソッド(方法・順序)」を重んじることから「几帳面屋」(メソジスト)とあだ名されたことに始まりました。「聖潔」(きよめ)を強調するホ―リネス運動や聖霊の働きを強調するペンテコステ派などもこのウェスレアン・メソジスト運動の流れから始まりました。】
この最も重要な教えの後、山上の説教の主要部は終わり、最後の勧告に入ります。イエスの説教を聞いた者は、それを実行することが求められます。そこで二つの道を示し、決断を迫ります。四つの勧告が続きます。一方には、狭い門への道を歩む者(13節)―良い実を結ぶ良い木(17節)―天の父の意志を行う者(21節)―岩の上に家を建てる人(24節)の話しがあり、他方それに対応して、広い門への広い道を歩む人(24節)、悪い木、口先だけの信仰の人、砂の上に家を建てる人、と話があります。片方は生命への、他は滅びへの道であり、その間に第三の道は存在しません。聞く者は終末の裁きを考慮にいれて決断しなければなりません。この二つの道の違いは「行う」か否かであるという場合、行うとは結局黄金律を実行するか否かということです。
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(7:13-14)
「命に通じる」の<命>は、「永遠の命」です。「滅びに通じる」の<滅び>とは、神の裁きです。<門>とは、扉と違って、町や、神殿の門のことです。町の門は、古代都市の城門のようなものではなく、囲まれた町の入り口の門のことです。門のイメージは、義人が神殿の門を通って入ることの思い起させる、天国の門、生命の門です。広い門には広い道があり、その広い道は滅びに通じる、と言います。エレミヤ書21:8-9には「主はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの前に命の道と死の道を置く。この都にとどまる者は、戦いと飢饉と疫病によって死ぬ。この都を出て包囲しているカルデヤ人に、降伏する者は生き残り、命だけは助かる。」と、死の道と生命の道とが相(あい)対しています。したがって、二つのどちらかを選ぶ必要があるのです。
広い道に狭い道が相対しています。狭い道とは、単純に狭く細い道が意味されているのではありません。<狭い>とは困難や苦難を暗示する言葉です。したがって、生命に至る道とは信仰のための苦難を意味します。禁欲のことを考えているのではありません。天国の入ることに関する言葉と同じく、「狭い門から入りなさい」と、<入る>という動詞が用いられています。
一方「広い」という言葉は、繁栄を意味する言葉で、広い道は、一見すべてがうまくいくように見える道です。<滅びに通じる広い門>は、放縦の安易な道であり、常に多くの人が行こうとしている道です。
門とは、道に通じる入口の門として考えられているのではありません。門は道の終わりに立っています。というのは、門を通って、人は生命の中に、終末時における神の国に入るのだからです。マタイは、教会によって積極的に実践されなければならない道であり、また、その終着地である神の国(神の支配)に入ることが約束されているところの、完全に至る道としてのキリスト教的信仰を説いたのです。苦難のもとに少数の者達を狭い門に導く困難な道とは、山上の説教の中で語られた、「あなたがたの義はファリサイ派の人々にまさっていなければならない(5:20)」や、「あなたがたの天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい」(5:48)のような義の道を勧めたのです。信仰者は、「神の国と神の義」を求めなければならないのです。
マタイはこの勧めを偽預言者に関する警告と結びました。7:22では、大勢の者が、悪霊を追い出し、イエスの名において奇跡を行いはするが、しかし神の意志を行わない人達は、「大勢の者」となるであろうということに注目させます。
広い道を歩む多くの者達は、明らかに律法学者たちだけでなく、キリスト教徒、教会の成員のことです。教会は生命の門に至る途上にあります。教会は常に二つの道の選択の前に立っているのです。キリスト教徒であること、洗礼を受けていることは何ら安心に足る救いの確実さを意味するのではなく、救いはこの道の選択にかかっています。山上の説教は行動することに弾みと方向とを与えています。終末に初めて、神の目において、誰が生命の道を歩んだかが示されるでしょう。
主イエスは、「わたしは門である。わたしを通て入る者は救われる」(ヨハネ10:9)と言われ、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)と言われます。門であり、道である主イエスによるのでなければ、義の実践は不可能なのです。
「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。」(7:15)
イエスは「偽預言者に警戒しなさい」と警告されました。偽預言者とは、7章21-22節との関連で、イエスを「主」と呼び、主の名によって預言したり、奇跡を行なったりする人々を指すと思われます。彼らは、父なる神の御心を行わないので、主イエスは彼らを自分の民とは認めません。こうして外見上は同じ主の弟子とみられる人々の中に、偽りの弟子がいることになります。時代を問わず、神の民は偽預言者の問題に対処しなければなりませんでした。新約時代では、偽預言者は偽教師のことです(ペトロ二,2:1)。
偽預言者は「羊の皮を身にまとってあなたがあのところにくるが、その内側は強欲な狼」です。「群れを荒らす残忍な狼」と使徒言行録20:29にあります。<警戒しなさい>ということは、絶えず注意を払いなさいということです。 <羊>とは、イエスによって養われている新しい天の国の民を指します。<羊の皮を身にまとって>は、狼が羊のふりを装う状態を描いたものです。彼らが羊の皮で変装するのは、彼らが穏やかで無抵抗の外見を与えることを意味しています。
偽預言者の言動や働きは、表面的には羊(天の国の民)と区別できません。<あなたがたのところに来る>は、あなたがたに目を付けて来るという意味がこめられています。<その内側は>は、偽預言者の心、内面、品性などを指します。<貪欲な狼>とは、獲物を求めてはいずりまわっている狼のことで、偽預言者を狼にたとえています。<偽預言者>とは、神の言葉を用いて羊を養うような振舞いを示しながら、その実、飼っている羊を食べてしまう人たちです。偽指導者は、キリストの名によって予言し、悪霊を追い出し、奇跡を行うこともあるのです(7:22)。
「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。」(7:16)
イエスは偽預言者は「実で」見分けると説かれました。<見分ける>は、<間違いなく見分ける>という意味で、20節でも繰り返されています。<実>とは、一方では行為の結果を、他方では行為自体を、人間の実として意味します。ここでは、偽預言者の行為が考えられています。人の振舞いは、その人の本性を表すものです。
<茨>は、良い実をつけることのない野生の木のことであり、<あざみ>は花の咲く雑草です。茨にはとげがあり、小さな実をつけます。あざみは、葉にも花にもぎざぎざしたとげのようなものがあります。パレスチナには50種類ものあざみがあるそうです。二本でも40種ほどあるとのことです。この茨とあざみの比喩は、偽預言者の業について語ろうとしています。彼らの業から何ら良いことは期待できないのです。
<実>とは、マタイによる福音書の場合は「天の父の御心を行う」ことであり、具体的には愛にもとづく律法の遵守です。イエスがここで言おうとされていることは、「天の父の御心」を行わない偽預言者は、その本質を隠し通すことが出来ず、その偽善性はやがて外面ににじみ出てくる、ということです。
「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」(7:17-20)
<良い実>とは、食べることが出来る実のことです。<悪い実>とは、食べるにふさわしくない実のことです。<良い><悪い>は、明らかに倫理的な人間の行為を考えさせます。良い木が悪い実を、悪い木が良い実を、結ぶことがありえないのです。
イエスが言おうとされていることは、木と実を別々のものと見なして論じることは無意味だ、ということです。両者は密接な関係があります。この植物の世界における原則は、霊的世界(宗教の世界)においても当てはまります。偽預言者は偽預言者の生活をするのです。偽預言者はその悪い業によって見分けることができるということです。
「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(3:10)というのです。偽預言者の前には神の滅びの審判が待っています。マタイはそれを3:10の洗礼者ヨハネの言葉で表現し、そのようにしてもう一度、イエスとヨハネの審判の告知は同じであうことを強調しています。<火>という表現は、刑罰を表しています。良い実を結ばない結果、終末における神の裁きのとき、無用なものとして破棄されてしまう、これが、偽預言者のたどる道です。それは、つづいてイエスの道からはずれる者たちをも威喝する表現です。それは永遠の命を失うことです。この警告は明らかに、教会に向けて発せられており、教会は「良い実」を結ぶように間接的に勧告されています。続く「あなたがたはその実で彼らを見分ける」は、16節の繰り返しです。この言葉が繰り替えされていることは、偽預言者を見分けることが重要であるだけでなく、難しいことをも暗示しています。
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