富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「聖霊の賜物」 ヨハネによる福音書14章15節~27節

2016-05-15 21:46:27 | 説教

                   ↑  聖霊降臨日に、聖霊の力を受けた弟子たちは、エルサレムに住んでいた外国生まれのユダヤ人やユダヤ教に改宗した改宗した外国人たちに、彼らの15か国の生まれ故郷の言葉で福音を語った。これが世界宣教の発端となり、世界に福音が届けられることを示した。

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     日本キリスト教 富 谷 教 会

                    週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

 聖霊降臨節第1主日(聖霊降臨日) 2016年5月15日(日)  午後5時~5時50分

                 礼 拝 順 序

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉                                     讃美歌(21)  56(主よ、いのちのパンをさき)                                                          交読詩篇  103(わたしの魂よ、主をたたえよ)               主の祈り   93-5、A                         使徒信条   93-4、A                         聖 書 ヨハネによる福音書14章15節~27節(新p.197)           説  教      「聖霊の賜物」 辺見宗邦牧師                祈 祷                                 讃美歌(21) 343(聖霊よ、降りて)                     献 金                                  感謝祈祷                                頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)                    祝 祷                                 後 奏 

                                                       次週礼拝 5月22日(日) 午後5時~5時50分       

                聖書 ヨハネによる福音書14章8~17節           

                                                          説教    「真理の霊」

                                                           賛美歌(21) 51 342 24 交読詩編 37篇

      本日の聖書 ヨハネによる福音書14章15節~27節

   15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。18わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。20かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」22イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。23イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。24わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。25わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。26しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。27わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

          本日の説教

    教会暦では、今日が聖霊降臨日(ペンテコステ)の日です。使徒言行録二章によると、ユダヤ教の五旬祭(ペンテコステ)の日に主イエスの弟子たちの上に聖霊が降り、初代教会が創設され、宣教活動が始まったと伝えています。「ペンテコステ」という言葉は、もともと「五十番目」を意味するギリシア語です。キリスト教の場合、主イエス・キリストの復活を祝うイースターから数えて五十日目にあたることから、この五旬節の日を、ペンテコステ(聖霊降臨祭)として祝うようになりました。今日がその聖霊降臨日に当たります。聖霊は神の力、神の働きとして与えられ、聖霊に満たされた一同は、主のよみがえりを証言し、主イエスによる救いの恵みを知らせる福音を伝える者となりました。当時、エルサレムにすんでいたユダヤ人は外国生まれの人たちが多く、またユダヤ教に改宗した外国人が大勢住んでいました。十五か国にも及ぶその人たちの生まれる故郷の言葉で、語るための力が与えられた弟子たちは神の偉大な業を語ったのです。これはすべての国に福音が届けられることを示しています。このように聖霊降臨の日の出来事が世界宣教の発端となりました。

    今日の聖書の箇所は、最後の晩餐の席で、「別れの説教」(訣別の説教)を語られたときに話された、主イエスの「聖霊を与える約束」です。この約束は、後に残される弟子たちへの語りかけであり、同時に今日に生きる私たちにも向けられた言葉でもあります。。

あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」(15節)

    主イエスは地上を去るに当たって、弟子たちとの間に結ばれた愛の結合関係が失われないように確かめます。<わたしの掟を守る>とは、13章34節で、イエスが話された「互いに愛し合いなさない。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」という新しい掟です。イエスを愛することは、即ち、互いに愛し合うという戒めを守ることであると教えています。兄弟たちが互いに愛し合う地上の愛の営みを通して、イエスとの愛の結合関係が維持されると教えているのです。

  「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(16節)

   イエスは御自分に代わる他の<弁護者>を父なる神から送ってもらうことを約束します。<弁護者>とは、自分一人では立ち向かえることの出来ない問題に助力を与える弁護士の役を担う助け主、聖霊のことです、イエスは、この地上を去っていくが、<弁護者>は永遠に弟子たちと一緒にいるようにしてくださる、というのです。<永遠に>とは、単なる時間的な長さを示すよりも、いつでも、どこでも、どんな状況の中でもという意味をもつ言葉です。イエスは、イエスの人格と働きを継続する<別の>弁護者を遣わすと約束したのです。

  「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」(17節)

 この霊は、この世からの烈しい非難と攻撃にさらされているイエスの弟子たちのために、弁護の役割を果たすものですが、それは<真理の霊>です。<真理の霊>は、弟子たちを<導いて真理をことごとく悟らせる>(16・13)働らきをします。

   この霊は、いつでも、どこでも、私たちと共におり、私たちのうちにいます。どんな状況の中でも、私たちと共にいてくださるのです。しかし世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受けることができません。イエスも聖霊も受け入れようとしないユダヤ人のことが語られています。

   しかし、世とは違って、イエスを信じ受け入れた人々の間には、イエスは今や愛の霊として、彼らの間に留まるので、彼らは霊を知り、霊と共にあることを知るのです。

 「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」(18節、19節)

  イエスは世を去っていくが、弟子たちを「みなしご」にはしておかない、と約束します。「みなしご」とは親のない孤児のことです。これは、師イエスを失う弟子たちのことを指しているのです。

 イエスは死と復活によって、地上から天に取り去られるけれども、すぐ<弁護者>また<真理の霊>として地上に戻って来るので、決して弟子たちを孤児にはしない、と残る弟子たちを励ますのです。世またユダヤ人は、イエスの十字架の死によって、イエスを見ることはなくなります。しかし、弟子たちは復活のイエスと聖霊の到来によって、再びイエスと出会うのです。<わたしが生きる>とは、「わたしは十字架の死を超えて生きる」という意味です。イエスは復活し、昇天して、今も生き続けておられます。生きておられるキリストから生命と力と助けを受けて、あなたがたもまた、生きることができるようになる、と励ましています。

  「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」(20節)

  終末の日には、父なる神と子なるイエスとの愛の結合関係が、弟子たちとイエスとの間にも結ばれていることが、あなたがたにも分かるであろう、と言われたのです。

  「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(21節)

    その結合関係は、イエスの掟を受け入、愛の戒めを守る人であり、イエスを愛する人との間に実現するのです。わたしを愛する人は、父なる神に愛され、イエスもその人を愛し、その人にイエス御自身を現すのです。

  「イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。」(22節)

  <イスカリオテでない方のユダ>とは、<ヤコブの子ユダ>(ルカ6・16)ことか、<イエスの兄弟ユダ>(マルコ6・3)のことでしょう。このユダは、復活のイエスが弟子たちにだけに現され、世、具体的にはユダヤ人には、イエスの顕現が現わそうとされない理由を尋ねます。

  イエスはこう答えて言われました。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣 わしになった父のものである。」(23、24節)

   イエスの解答は、イエスを愛し、イエスの言葉を守る者にのみ、父はイエスと共に来たり給うて、一緒に住んでくださる。これに反して、イエスを受け入れず、その言葉を守らない者は、イエスの顕現にあずかることはできない。

  「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(25、26節)

   別れに臨んで、イエスの語るべきことは終わりました。やがて、彼の取り去られた後、弁護者、すなわち、父なる神がイエスの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、イエスが生前に話されたことをことごとく思い起させます。聖霊は、私たちの心をみことばに向かって開き、地上のイエスの言葉と業を思い起させる働きをします。この意味で聖霊は助け主であり、私たちと共に今も生きておられるイエスの働きなのです。

 「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(27節)

  イエスが地上を去るに当たり、弟子たちは不安に陥るかもしれないが、<平和を与える>と約束します。

<平和・平安>は、あらゆる面での完全な充足、至福の状態を表すものです。イエスが与えようとされる平和は、神から与えられる恵みとして、私たちに贈られる救いであり、いやしであり、それは真の愛と和解を私たちにもたらすものです。わたしがあなたがに残すのは不安ではなく、それに打ち勝つ平安であると主は言われ、<心を騒がせるな。おびえるな>と弟子たちを勇気づけられます。イエスの与える平和は、戦争のない、一時的な平穏無事な状態を指すのではなく、不安動揺の中でも奪い去られることのない平和です。

     このイエスが私たちに与え、遺してくださった平安を、世に対して証しすることが、キリスト者の伝道の使命です。別れに際してのイエスの「聖霊を与える約束」は、今まで以上に強く、イエスが「いっしょにいる」ことを説いています。聖霊とは、私たちと共にある神、今も共に生きるイエスのことであり、<みなしごにはしておかない>との約束は聖霊降臨の出来事において実現したのです。

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